4. 銭湯とラーメンと悪友と
金曜の夜。一週間の激務を終えた義成が向かうのは、ネオンきらめく繁華街ではない。彼が向かうのは、杉並区の下町に古くからある、宮造りの銭湯「鶴の湯」だ。
番台で待っていたのは、高校時代からの唯一無二の親友、岡崎諒太だった。日に焼けた精悍な顔つきに、人懐っこい笑顔。彼は、義成とは対照的に、生まれた時からこの街で育ち、家業である岡崎印刷の三代目として、職人たちに混じってインクの匂いに塗れる毎日を送っている。
「おっす、義成!今週もお疲れさん!」
「ああ。そっちこそ」
脱衣所で、窮屈なスーツを脱ぎ捨て、裸になる。その瞬間、義成は「東邦広告の張義成」という鎧を脱ぎ、ただの「義成」に戻ることができた。
広い湯船に、二人で足を伸ばす。天井のペンキで描かれた、雄大な富士山の絵が、湯気でぼんやりと霞んでいる。
「で、どうなんだよ、最近は。例のキザな先輩には、まだイジメられてんのか?」
諒太が、ニヤニヤしながら尋ねる。
「イジメられてるというか、一方的に絡まれてるだけだ。そのうち、何も言えなくしてやる」
「くぅー、言うねぇ!さすがアメリカ帰りは違うぜ!」
諒太は、義成の過去の挫折も、家族の事情も、すべてを知っている。だからこそ、彼の前では、義成は何も飾る必要がなかった。
「それより、お前はどうなんだ。三代目は板についてきたか?」
「るっせー!親父にも、職人の爺さんたちにも、毎日怒鳴られてばっかだよ。でもな、この前、俺が一人で担当した冊子の印刷が、すげぇ綺麗に仕上がったんだ。クライアントにも褒められてよ。あれは、マジで嬉しかったな」
そう言って笑う諒太の顔は、誇りに満ちていた。
グローバルな広告戦略や、億単位の金が動く世界とは、まったく違う。一枚一枚の紙にインクを乗せ、美しい印刷物を作り上げるという、手触りのある仕事。その価値を、義成は心から尊敬していた。
風呂から上がると、腰に手を当てて瓶のフルーツ牛乳を一気飲みするのが、二人の決まりだった。そして、向かうのは、駅前の古びた中華料理屋「萬福」。
油でギトギトのカウンターに並んで座り、チャーシュー麺と餃子を頼む。
「そういや、義成。最近、なんかいいことあっただろ」
餃子を頬張りながら、諒太が探るような目で見てくる。
「何がだ」
「顔に書いてあんだよ。『俺、ちょっと春が来たかも』ってな。会社の女の子か?」
「…うるさい」
義成は、高藤千芳の顔を思い浮かべ、少しだけ顔が熱くなるのをごまかすように、麺を啜った。
「図星かよ!どんな子だよ、美人か?今度会わせろよな!」
「お前には関係ない」
「ちぇっ、つまんねーの。まあ、お前が戻ってきて、この国で、ちゃんと笑えるようになったなら、俺はそれでいいけどよ」
そう言って、諒太は自分のラーメンのチャーシューを一枚、義成の丼に放り込んだ。
くだらない話をして、腹の底から笑い合う。この時間だけが、義成にとっての本当の休息だった。この街に、この友人がいる限り、自分は道を踏み外すことはない。そう、確信できる時間だった。




