3. 深夜のデザイナーと缶コーヒー
その日も、時計の針はとっくに深夜一時を回っていた。
誰もいないはずのオフィスで、義成は一人、中国の経済白書と格闘していた。静まり返ったフロアに、キーボードを叩く音だけが響く。ふと、彼は、別のフロアから微かな光が漏れていることに気づいた。制作局のエリアだ。こんな時間に、誰かいるのだろうか。
好奇心に駆られてそっと近づいてみると、巨大なモニターに向かい、猫背で一心不乱にペンタブレットを動かす、小柄な女性の後ろ姿があった。
彼女の名前は、高藤千芳。義成と同期入社の、デザイナーの卵だった。
彼女は、ヘッドフォンで外界の音を遮断し、完全に自分の世界に没入している。その横顔は真剣そのもので、モニターに映し出される鮮やかな色彩が、彼女の顔を照らし出していた。彼女が描いているのは、新しい飲料水の広告デザイン案のようだ。何度も描いては消し、描いては消しを繰り返し、そのたびに小さく、悔しそうなため息をついている。
その姿に、義成は、かつて必死に英語の単語帳にかじりついていた自分の姿を重ねていた。
彼は、フロアの隅にある自動販売機に向かうと、温かい缶コーヒーを二つ買った。そして、静かに彼女のデスクに近づき、その一つを、ことり、と置いた。
「!」
千芳は、驚いて飛び上がった。ヘッドフォンを外し、振り返ったその瞳は、警戒心でいっぱいだった。
「あ、ごめん。驚かせるつもりは…」
義成が慌てて言うと、彼女は彼が同期の張義成であることに気づき、少しだけ表情を和らげた。
「…張さん。どうして、こんな時間に?」
「君こそ。毎日、遅くまでやってるみたいだから」
「…コンペ、また落ちちゃって。次の企画、何とか通したくて…でも、全然良いアイデアが浮かばなくて…」
千芳は、俯いて消え入りそうな声で言った。その手元には、ボツになったデザイン案が、紙の墓場のように積み重なっている。才能のある同期たちは、次々と大きな仕事で結果を出している。その焦りが、彼女を追い詰めているのだろう。
義成は、彼女のモニターに映し出されたデザインを覗き込んだ。鮮やかで、美しい。技術は確かだ。しかし、どこか優等生的で、見る者の心をかき乱すような「毒」が足りないように感じた。
「…すごく綺麗だね。でも」
「でも…?」
「このジュースを飲むのは、どんな人なんだろう。この広告を見て、その人は、どういう気持ちになってほしいんだろう。その『たった一人』の顔が、僕には見えてこない」
義成の言葉は、批評ではなかった。それは、純粋な問いかけだった。
千芳は、はっとしたように顔を上げた。今まで、クライアントの意向や、上司の評価ばかりを気にして、肝心なことを見失っていたのかもしれない。この広告を、誰に届けたいのか。
「たった、一人の…」
「例えば、僕みたいな、外国人で、この国で必死に生きているような奴が、コンビニでこのジュースを手に取ったとする。その時、一瞬でも、心が軽くなるような。明日も頑張ろうって思えるような。そんな力が、デザインにはあるんじゃないかな」
義成は、缶コーヒーのプルタブを開け、彼女に差し出した。
「これは、僕から、その『たった一人』の消費者としての、差し入れ」
千芳は、呆然と彼を見つめていた。そして、ゆっくりと缶コーヒーを受け取ると、小さな声で「ありがとう」と言った。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
この日を境に、二人の間には、特別な絆が生まれた。彼らは、同期でも、同僚でもない、「仲間」になったのだ。
深夜のオフィスで、缶コーヒーを片手に、デザインについて、広告について、そして時には人生について語り合う。義成の、新人らしからぬ冷静な視点と、時折見せる不器用な優しさ。そして、彼の口から語られる、自分が知らない世界の物語。千芳は、まるで魔法にかけられたように、彼に惹きつけられていった。それは、尊敬であり、友情であり、そして、まだ名前のついていない、淡い恋心の始まりだった。




