2. 雑用という名の塹壕戦
期待に満ちた配属初日。しかし、義成に与えられた最初の仕事は、彼の能力や経歴とはおよそ無関係なものだった。
「張、これ、30部コピーしてホチキス止め。それから、こっちの資料、全部スキャンしてPDF化。ああ、あとでクライアントが来るから、灰皿とアイスコーヒー、人数分用意しといて」
命令の主は、赤城要。三十代前半の先輩社員で、イタリア製のスーツをこれみよがしに着こなし、髪には常にウェットなジェルが光っている。彼は、海外のビジネススクール帰りであることを鼻にかける、典型的なキザな男だった。そして、鳴り物入りで入ってきた義成のことが、その中国姓も含めて、どうしようもなく気に食わないらしかった。
「なんだ、アメリカ帰りのお坊ちゃんは、コピーの取り方も知らないのか?俺たちの時代はな、完璧な議事録を書けるようになるまで、3年は先輩のパシリだったんだよ」
赤城は、わざと大量の資料の束を義成のデスクに叩きつけ、せせら笑う。それは、この組織の流儀を教え込むための、古臭い洗礼だった。
義成は、何も言わなかった。彼は無言で立ち上がると、資料の束を受け取り、コピー室へと向かった。そして、わずか一時間後。赤城のデスクには、完璧にソートされ、ホチキス止めされた30部の資料と、ファイル名まで美しく整理されたPDFデータが保存されたフォルダへのショートカットが置かれていた。さらに、クライアント用のコーヒーは、ブラック、微糖、ミルク・砂糖付きの三種類が、それぞれの好みに合わせてさりげなく用意されていた。
「な…!」
赤城は、その完璧すぎる仕事ぶりに、一瞬言葉を失った。文句のつけようがない。むしろ、自分がやるよりも遥かに効率的で、気が利いている。彼は舌打ちをすると、さらに理不尽な仕事を押し付けた。
「過去10年分の、中国関連の新聞記事、全部スクラップしてファイリングしておけ。今日の終業時間までだ」
それは、物理的に不可能な仕事量だった。
だが、義成は動じない。彼はまず、社内のデータベースにアクセスし、キーワード検索で関連する記事データをすべて抽出した。次に、それらを時系列に並べ替え、重要度に応じてマーキングするマクロを即席で組んだ。そして、印刷会社を経営する親友の岡崎諒太に電話をかけ、データ入稿から高速印刷、ファイリングまでの一連の作業を依頼した。夕方、バイク便で届けられたのは、百科事典のように分厚く、しかし美しく製本されたスクラップブックだった。
終業時間五分前。義成は、その完璧なファイルを、無言で赤城のデスクに置いた。
「…お、お前、まさか…」
「何か、問題でも?」
涼しい顔で問い返す義成に、赤城はもはや何も言えなかった。彼のプライドは、この新人によって、一日で粉々に打ち砕かれたのだ。
義成の日々は、この繰り返しだった。
朝は誰よりも早く出社し、フロア全体の掃除と、全員分のコーヒーの準備を済ませる。日中は、大量の雑用を、驚異的なスピードと効率で片付けていく。無駄だらけの会議では、誰よりも的確な議事録を作成し、その日のうちに共有した。夜は、誰もが帰った後、一人オフィスに残り、広告業界の専門書や過去の企画書を、貪るように読み漁った。
彼は、不平や不満を一切口にしなかった。彼にとって、これらはすべて、この巨大な組織の生態とルールを学ぶための、必要なプロセスだった。塹壕の中で、来るべき戦いに備え、ひたすら弾薬を蓄え、銃を磨く兵士のように。
深夜、終電で高円寺のアパートに帰り着くと、両親はいつも起きて待っていてくれた。
「義成、無理はしていないか?」
母・京海が、疲れた息子の顔を心配そうに覗き込む。
「大丈夫だよ。大変だけど、面白い」
義成は笑って答える。嘘ではなかった。この理不尽な環境は、彼の闘争本能を心地よく刺激していた。父・楡生は、何も言わず、息子のために買っておいた栄養ドリンクを差し出す。その無言の優しさが、義成のすり減った心身に、何よりも沁みた。




