第三章 龍の精進 1. 桜吹雪と電波の塔
“The journey of a thousand miles begins with a single step.”
(千里の道も一歩から)
– 老子
1. 桜吹雪と電波の塔
2002年4月1日。
東京の空は、雲ひとつない、抜けるような青だった。千鳥ヶ淵の桜は満開となり、風が吹くたびに薄紅色の花びらが吹雪のように舞い、新時代の門出を祝福しているかのようだ。
その桜吹雪を眼下に望む、巨大なホール。日本経済の中枢を担うと自負する、国内最大手の広告代理店「東邦広告」の入社式会場は、真新しいリクルートスーツに身を包んだ三百名を超える若者たちの、期待と不安が入り混じった熱気で満ちていた。誰もが、日本の最高学府を勝ち抜いてきたエリートであり、選ばれし者であるという自負と、これから始まる未知の社会人生活への緊張で、その表情を硬くさせている。
その中で、張義成は、一人だけ違う種類の空気を纏っていた。
彼は、壇上で退屈な祝辞を述べる役員の言葉を聞き流しながら、ホールの巨大な窓の向こうに聳え立つ、東京タワーの赤い鉄骨を静かに見つめていた。あの塔は、戦後日本の高度経済成長の象徴であり、この国の希望そのものだった。そして今、自分が身を置くこの会社は、その塔から発信される「電波」という無形の力を操り、人々の欲望や価値観を形成してきた、現代の魔法使いの城だ。
(ここが、俺の新しい戦場か…)
隣に座る学生たちは、まだ見ぬ華やかなクリエイター人生を夢見ているのだろう。だが、義成の心にあるのは、そんな甘い幻想ではなかった。彼にとって、この会社は、自らの能力を試し、結果を出し、そして何よりも、家族と共にこの日本で生きていくための「帰化」という最大の目的を達成するための、最も重要な橋頭堡だった。その目的意識の明確さが、彼を周囲の浮ついた空気から隔絶させ、異質なほどの落ち着きを与えていた。
入社式が終わり、配属先が発表される。同期たちが、営業局やクリエイティブ局といった花形部署の名前に一喜一憂する中、義成の名前は、最後に、そして少し特殊な部署名と共に呼ばれた。
「――張義成。以上一名、国際戦略局・中国事業開発部付とする」
ざわめきが起こった。彼の中国姓と、部署名が結びつき、多くの同期が好奇と若干の同情が入り混じった視線を彼に向けた。国際戦略局は、海外案件を専門に扱うエリート部署として知られている。しかし、その中の「中国事業開発部」というのは、多くの社員にとって耳慣れない、謎に包まれたセクションだった。
義成が指定されたフロアへ向かうと、そこはビルの最上階に近い、日当たりの良い一角だった。しかし、他の部署のような活気はなく、まるで隔離されたかのように静まり返っている。そこにいたのは、わずか数名の社員と、痩身で神経質そうな男、そして義成の採用を決めたあの企画部長――今は国際戦略局長となった、郷田だった。
「ようこそ、張君。君を待っていた」
郷田は、鷹のような鋭い目で義成を見据え、にやりと笑った。
「ここは、会社の未来を創る場所だ。そして、同時に会社の『墓場』でもある。使い物にならなくなったロートルか、君のように、既存の枠にはまらない厄介者しかいない」
その言葉通り、部署のメンバーは個性的すぎた。
一人は、同期入社となる鈴木達樹。典型的な日本の若者で、人懐っこい笑顔を浮かべているが、その目の奥には事なかれ主義の光がちらついている。
「よろしくな、張!まさか同期がこんなところにいるとは思わなかったよ。まあ、お互い頑張ろうぜ」
もう一人は、同じく新人として配属された、中国籍の古天翔。上海の名門大学を卒業し、日本の大学院を出たというエリートだ。彼は、流暢すぎる日本語で、しかしどこか相手を見下すような、冷たい視線を義成に向けた。
「古天翔です。あなたも、中国にルーツがあると聞きました。足手まといにならないよう、期待していますよ」
そして、彼らの上司となる課長は、事なかれ主義を体現したような初老の男。部長である郷田の存在がなければ、この部署はとっくの昔に解体されていただろう。
(なるほど…寄せ集めの無法地帯か)
義成は、このカオスな状況をむしろ面白く感じていた。決まりきったレールの上を走るよりも、道なき道を行く方が、よほどやりがいがある。彼の冒険は、この静かな「墓場」から始まるのだ。




