4. 祝杯と家族
面接室を出た義成は、エレベーターの中で、大きく、深く息を吐いた。高揚感はなかった。ただ、これから始まるであろう戦いの重さを、ずしりと感じていた。
高円寺行きの電車に揺られながら、車窓を流れる景色を眺める。見慣れた、雑然とした、しかしどこか温かい日本の街並み。ここが、自分の帰宿だ。
古い木造アパートの、軋む階段を上がる。ドアを開けると、醤油と出汁の、懐かしい匂いがした。
「お帰り、義成」
母・京海が、心配そうな顔で出迎える。父・楡生も、食卓で新聞を読んでいたが、その視線は息子に注がれていた。
「…決まったよ。内定、もらえた」
その言葉を聞いた瞬間、母の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「よかった…本当によかった…!」
彼女は、息子の体をきつく抱きしめた。その背中の震えが、これまでの十二年間の苦労と不安の大きさを物語っていた。父は、何も言わずに立ち上がると、無言で義成の肩を、強く、二度叩いた。その無骨な手のひらから、万感の思いが伝わってきた。
その夜の食卓には、母が腕を振るった、ささやかな、しかし心のこもったご馳走が並んだ。上海家庭の御馳走の紅焼肉、芳醇な素鶏と甘く煮たピーナッツ烤麸、また和食も祝いらしく、鯛の塩焼き、そして赤飯。どれもが義成の幼少からの好物だ。
「これで、一歩前進だな」
父が、ビール瓶を傾けながら、感慨深げに言った。「お前が、あの会社で正社員として働けば、我々家族全員の、日本への帰化申請の道が、大きく開ける。もう、『留学生』とその『家族滞在』という、不安定な身分で怯えながら暮らす必要もなくなる」
「ええ、本当に…。これでやっと、我々自身の力でこの国に根を下ろせる…」
母は、涙を拭いながら、何度も頷いた。
ふと、彼女は息子の顔を見て、少しだけ寂しそうな顔で言った。
「義成、本当に、辛かったでしょう。アメリカでのこと、そして…殷さんのことも…」
その名が出た瞬間、食卓の空気が一瞬、張り詰めた。李殷。かつて、彼の挫折の闇を照らしてくれた、光のような存在。彼女との別れは、アメリカへの憧れの終焉とはまた違う、彼の心を深く抉る痛みだった。その物語は、まだ語られるべき時ではない。
義成は、その痛みを心の奥底に押し込め、穏やかに、しかしきっぱりとした口調で言った。
「母さん、俺は大丈夫だ。前に進むと、決めたから」
その瞳には、もはや感傷の色はなかった。
「父さん、母さん。俺は、この会社で必ず結果を出す。そして、一日も早く、家族全員で日本の国籍を取る。その時、俺たちはもう『張』じゃない。父さんの本当の姓である『青木』を名乗り、日本人『青木義成』として、この国で生きていくんだ」
その決意は、誓いだった。自らのアイデンティティを、この手で掴み取るという、魂の宣言だった。
父は、息子のグラスにビールを注いだ。母も、自分のグラスを手に取った。
三つのグラスが、カチン、と小さく、しかし確かな音を立てて合わさった。
それは、十二年間にわたる異国での苦難の道のりが、ようやく一つの大きな実を結んだ、祝杯の音だった。
窓の外では、いつの間にか冬の冷たい雨が止んでいた。厚い雲の切れ間から、新しい時代の夜明けを告げるかのような、か細く、しかし鋭い月の光が、部屋の中に差し込んでいる。
張義成の、光と闇が交錯する壮大な物語。その第二の章が、今、静かに幕を開けた。龍の新たな航路は、希望と、そしてまだ見ぬ巨大な欲望が渦巻く、中国の大海へと続いていた。




