秘密と決断
ある日の放課後、
咲希は拓斗が教室に残っているのを見計らって、
舞桜を先に帰らせた。
そして、拓斗の元へと向かった。
「拓斗くん、ちょっといいかな?」
咲希の突然の問いかけに、
拓斗は少し驚いたような顔で頷いた。
「あのさ、拓斗くんって、
舞桜の初恋のこと、何か知ってる?」
咲希は単刀直入に尋ねた。
その問いに、拓斗の表情が、一瞬だけ固まった。
「うーん、……なんとなくかな。
ずっと思ってる男の子がいるってことだけは、
聞いて知ってるよ。」
拓斗は、少しだけ俯きながら答えた。
咲希は、その反応に何か引っかかるものを感じた。
「そっか。それで、本題なんだけど、
舞桜がずっと探してる、
桜の木の下で出会った男の子。
それって、あなたなの?」
咲希の真っ直ぐな視線に、
拓斗はゆっくりと顔を上げた。
だが、その瞳には、何かを迷うような、
複雑な色が宿っていた。
「それは……、分からない。
僕かもしれないし、
僕ではないかもしれない……。」
拓斗は、まるで自分に言い聞かせるかのように、
ぽつりと呟いた。
咲希はその言葉の真意を測りかねていたが、
拓斗は小さく息を吐き出すと、
意を決したように続けた。
「実は……僕、幼い頃の記憶がないんだ。
小学生の頃、交通事故に遭ってから、
それより前の記憶が全部、
抜け落ちてしまってるんだ。」
その言葉に咲希は息を呑んだ。
まさか、そんな事実があったなんて。
舞桜が彼に惹かれている理由、
そして彼が真実を語れない理由が、
今、一つに繋がった。
「だから、小林さんがずっと思ってる
その男の子が、僕なのかどうか、
僕には分からないんだ。」
拓斗の表情は、どこか諦めに似た色を帯びていた。
咲希の胸に、様々な感情が渦巻く。
舞桜の初恋の相手が今、目の前にいるかもしれない。
けれど、彼はその事実を知らない。
そして、もしこの事実を舞桜が知ったら、
彼女はどれほど深く傷つくのだろう。
初恋を大切にしたい舞桜の気持ちと、
彼女がこれ以上苦しむ姿を見たくない咲希の思いが、
激しくぶつかり合った。
咲希は、しばらく沈黙した後、
拓斗をまっすぐに見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「……ねぇ、拓斗くん。
そのこと、舞桜には、あなたから言わないで
隠しておいてくれないかな。」
拓斗は驚いたように目を見開いた。
咲希の言葉は、彼の想像とは
全く違うものだったのだろう。
「どうして?」
呆気にとられている拓斗を他所に、
咲希は覚悟を決めた。
「舞桜は、ずっとその初恋に囚われている。
でも、私は、そんなことに縛られずに、
舞桜には心から幸せになってほしい。
もし今、あなたからその事実を言われたら、
舞桜はきっと、自分の気持ちが
分からなくなってしまう。
……だから、お願い。舞桜には、
舞桜の気持ちのままに、恋をしてほしいの。」
咲希の瞳には、舞桜への深い愛情と、
親友としての強い願いが宿っていた。
拓斗は、咲希の言葉の真意を測るように、
じっと彼女を見つめた。
そして、やがて静かに頷いた。
「……分かった。小林さんには絶対、
僕からは言わないよ。」
咲希は安堵の息を漏らした。
果たして、この選択が、舞桜にとって
本当に良いことだったのか……。
それは分からなかった。
けれど、今は舞桜の気持ちを何よりも優先したい。
そう、咲希は心に決めていた。
そして、舞桜は拓斗が記憶喪失であることなど
知る由もなく、彼の存在に
心を奪われていくのだった。