新人研修・その1
〈小涼しや梅雨なる季節夏の内 涙次〉
【ⅰ】
「うちの菜津川暑子をお世話頂けるさうで、有難うございます。此井先生」‐と佐々圀守が云ふ。
「お世話、と云ふ程の事はないよ。たゞ彼女の正義感に任せたゞけで」とじろさん。
佐々は云ふ。彼女のカンテラ一味に寄せる思ひは、たゞ事ではない。こゝ東京に一味がゐなかつたら、今頃だうなつてゐた事かと、一味を崇拝する事甚だしく、それは(言葉は惡いが)異常とも云へる程だと云ふ。
じろさんに指摘される迄、佐々始め「魔界壊滅プロジェクト」の面々は、彼女が【魔】の血を継いだ者だとは、誰も知らなかつた。さう云へば、じろさんにも、彼女は、自分がどのやうな生まれか、だう魔界の遺風を殘してゐるのか、語らない。【魔】は多分、父方だらうとじろさんは踏んでゐたが、その父が一體どんな【魔】で、魔界でどんな職掌を担つてゐたのか、敢へて問ふ事はしなかつた。
【ⅱ】
「まあ当分彼女はうちの事務所で預かる。一味の用で無断欠勤しても、大目に見てやつてくれないか?」
さて、どのやうに彼女に、仕事を「仕込もう」か。じろさん考へに考へた。一味が決して「正義」の為だけに動いてゐるのではない事を、だうやつて教へやう? それは彼女のキャラクターから云つて難事業ではなからうか。
【ⅲ】
「そいつは、かう云つちやなんだが、厄介だね、じろさん」‐カンテラは自分が彼女の教育係になる事は拒絶した。だが取り敢へず、仕事は「シュー・シャイン」に教へさせるのが、手つ取り早さうだ、とカンテラは云つた。
菜津川は、自分の先輩がごきぶりだと云ふ事には、驚愕したやうだつた。が、仕事の抽き出しを懇切丁寧に、理路整然と指導してくれる、この「先輩」を、やがて信頼するやうになつた。で、他には漏らさない彼女の秘密を、「シュー・シャイン」は知る事となつた。
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〈曇天よ小雨混じりの曇天よ少しは俺を想ふ事ある? 平手みき〉
【ⅳ】
それに拠れば、彼女の父方はやはり【魔】で、しかも魔界の「大物」だと云ふ。彼女はその叛動で、カンテラ一味崇拝の「惡癖」を身に付けたらしい。女性には珍しく、父親を憎み、母親(人間である)に親しんでゐた譯だ。
「シュー・シャイン」はテオを見れば分かるが、皆好きにやつてゐるだけで、それは決して正義感の發露ではない、と彼女に説明した。小説家・谷澤景六の事は、彼女も知つてゐた。
「テオさんはだけど、仕事は出來るんだよ。みんな知つてゐる事さ」
【ⅴ】
決め手として、「シュー・シャイン」は、金尾に、一味の金庫を開けて貰つた。勿論、中身はカネ、カネ、カネ...
「たゞの善人これだけのカネが集まると思ふ?」‐これは一種のショック療法なのだつた。更に、「シュー・シャイン」、「当面きみの身元引き受け人には、カンテラさんの大親友、怪盗もぐら國王になつて貰ふよ。そしたら地球がどんなふうに回つてゐるかゞ分かるから」...もぐら國王? あの世間を騒がす大惡党の...? 菜津川は眉根を顰めた。「大丈夫。きみも知つてゐる通り、國王は魔界に通ずる『思念上』のトンネルを掘つたんだ。心配は要らないよ」
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〈朱夏近し我黄泉帰り物語る 涙次〉
果てさて、「シュー・シャイン」の荒療治で、彼女の認識は改まるだらうか? このストーリイ、カンテラの世界を理解しやうとする、ビギナーの讀者の皆さんにもお薦め。と、云ふ譯で、國王、どんな「新人教育」をするのか、作者獨りでほくそ笑んでをります。ぢやまた。