「無価値な癒し手」と婚約破棄された私、実は世界で唯一“聖遺物”の声が聞こえるので、隣国の訳あり騎士団長と奇跡を起こします
シャンデリアから降り注ぐ光の粒子が、磨き上げられた大理石の床にきらきらと乱反射している。
着飾った貴族たちの楽しげな談笑、優雅な楽団の調べ、そしてグラスの触れ合う軽やかな音。
建国記念を祝う王宮のパーティーホールは、目も眩むほどの華やかさと熱気に満ちていた。
その喧騒の中心で、私は一人、まるで舞台の上の罪人のように晒されていた。
「リリアナ! 貴様との婚約を破棄する!」
私の婚約者、この国の第一王子であるエドワード様の甲高い声が、祝祭の空気を切り裂いてホールに響き渡った。
音楽が止み、すべての視線が私たちに突き刺さる。
彼の美しいプラチナブロンドの髪は、怒りで逆立っているようにさえ見えた。
その蒼い瞳には、かつて私に向けられたことのある優しい光はなく、今はただ、氷のような冷たさと、あからさまな侮蔑の色が浮かんでいるだけだった。
彼の腕には、一人の女性がうっとりとした表情で寄り添っている。
艶やかな金の髪を複雑に結い上げ、純白のドレスに身を包んだ、天使のように可憐な少女。私の異母妹、セレスだ。
「リリアナ、お前の癒しの力はあまりに微弱で、もはや無価値だ。擦り傷ひとつ癒すのに半日もかかるような女が、次代の王妃などと、笑わせるな!」
エドワード様は、私を指さして断罪を続ける。周囲からは、くすくすという嘲笑が漏れ聞こえてきた。
「それに比べ、セレスの聖なる光魔法こそ、この国に必要なもの! 先日の干ばつの折には、彼女の祈りが雨雲を呼び、多くの民を救った! 彼女こそが次代の王妃に、いや、聖女にふさわしい!」
そうだ。私の癒しの力は、確かに微弱だ。子供の擦り傷を治すのが精一杯で、それすら長い時間と集中を要する。
それに比べて、セレスは違う。
彼女が両手を組んで祈りを捧げれば、眩いばかりの金の光が溢れ出し、瀕死の重傷者すら瞬く間に癒してしまうという。
半年前、視察先で起きた崖崩れの事故で多くの負傷者が出た際も、セレスの力によって一人の死者も出なかったと、国中の誰もが彼女を『再臨の聖女』と崇め奉っていた。
私の力など、彼女の奇跡の前では、道端の石ころ同然。無価値と言われても、仕方がなかった。
俯く私の耳元で、セレスが勝ち誇ったように、しかし蜂蜜のように甘い声で囁いた。
「お姉様、ごめんなさい。エドワード様のあまりに熱烈な想いを、わたくしには拒むことができませんでした。でも、これが運命ですわ。お姉様は、わたくしたちの未来を祝福してくださいますよね?」
その言葉は、慈悲深い聖女の仮面を被った、悪魔の囁きに聞こえた。
運命、ですって? あなたのその力が、どこから来るものなのか、私は知っているのに。
部屋の奥、鍵をかけた小箱に隠されている『太陽の小瓶』。
かつて古代文明が太陽の光を凝縮して作り出したとされる、小さな聖遺物。
セレスが毎夜、誰にも見られぬよう、その小瓶から魔力を吸い上げていることを、私は知っている。その奇跡の力は、聖遺物から供給される借り物の力だ。
どうやってその聖遺物を手に入れたのかは知らないし、興味もない。ただ、私には聞こえていた。「やめて、もうこれ以上、私の力を奪わないで」という悲鳴が。
けれど、その事実をここで叫んだところで、誰が信じるだろう。聖女と崇められる妹への嫉妬に狂った、無能な姉の戯言だと笑われるのが関の山だ。
だから、私は何も答えなかった。ただ、深く、深く一礼する。これ以上、この茶番に付き合う気はなかった。背を向け、パーティーホールを去ろうとする私に、エドワード様の追い打ちをかけるような声が浴びせられる。
「待て、リリアナ! 王家の慈悲として、辺境の修道院への道を用意してやった。そこで一生、己の無価値さを噛み締めながら、国のために祈りを捧げるがいい!」
憐れむ者、嘲笑う者、そして初めから何もなかったかのように再び談笑を始める無関心な者たち。様々な視線を背中に感じながら、私は一歩、また一歩と、大理石の床を踏みしめて歩いた。涙は、不思議と一滴も流れなかった。
ホールの重厚な扉を抜け、がらんとした廊下に出ると、そこには鬼の形相をした父が待ち構えていた。彼は私の姿を認めると、血走った目で駆け寄り、私の頬を力任せに張り飛ばした。
「この、役立たずが!」
乾いた音が廊下に響く。じんと熱を持つ頬を押さえる私に、父は唾を吐きかけるように言った。
「エドワード王子への不敬、そして何より、我が公爵家の顔に泥を塗りおって! もはやお前は我が家の娘ではない! 勘当だ! 今すぐどこへなりとも行ってしまえ! そして二度と顔を見せるな!」
予想していた結末だった。
父にとって、私は常に、出来の良い妹セレスと比較されるだけの存在。私の微弱な癒しの力よりも、セレスの華々しい光魔法のほうが、家の箔付けに利用価値があった。
私が王子妃候補でいられたのも、ただ、私が姉だったという順番だけの理由に過ぎない。
「……承知いたしました」
感情を殺した声でそう答える。侍女たちも、遠巻きに私を憐れみの目で見るだけで、誰も声をかけてはこない。
控えの部屋に戻り、最低限の着替えと、母が遺してくれた唯一の形見である小さな銀のロケットを鞄に詰める。窓の外では、いつの間にか空が暗い雲に覆われ、冷たい雨が降り始めていた。それはまるで、私の新たな門出をあざ笑うかのようだった。
裏口からこっそりと抜け出す。降りしきる雨が、あっという間に私の髪と服を濡らしていく。振り返っても、私を呼び止める声はどこからも聞こえない。
悲しくなかった、と言えば嘘になる。
婚約者から罵られ、家族から捨てられ、たった一人で王都を追われる。これほど惨めなことがあるだろうか。唇を噛み締めると、鉄の味がした。
でも、それ以上に、胸の奥でがんじがらめになっていた何かが、スッと解けていくのを感じていた。重い枷が外れたような、不思議な解放感。
(やっと、自由になれた)
そうだ。私はずっと、息苦しかったのだ。
エドワード様の婚約者として、公爵家の令嬢として、そして聖女の姉として。
常に完璧であることを求められ、出来ない自分を責められ、偽りの笑顔を貼り付けて生きてきた。もう、誰かの期待に応えるために自分を殺す必要はない。もう、セレスの隣で、自分の無力さを恥じる必要もないのだ。
私の本当の力は、誰も知らない。知られようとも思わなかった。
私に聞こえるのは、人の心の声ではない。
傷ついたモノたち――特に、古く、強い想いが込められた“聖遺物”の悲鳴にも似た声なのだ。
この力に気づいたのは、まだ幼い頃だった。
父に連れられて訪れた王家の宝物庫で、古びた一本の短剣に触れた時だ。頭の中に、直接声が響いてきた。
(永い間、戦場に出られず、退屈で死んでしまいそうだ。我を振るう主はまだか)
驚いて飛びのいた私を、父は「何をぼうっとしている」と叱りつけた。以来、私はこの力を誰にも言わず、胸の奥にしまい込んできた。
モノの声は、時にうるさく、時に私の心を苛んだ。
特に、強い力を持つ聖遺物ほど、その声は大きく、鮮明に聞こえる。
王国の教会に祀られていた、国宝である『始まりの聖杯』。国中の人々が、その聖杯に祈りを捧げ、国の安寧を願う。しかし、私の耳には、聖杯自身の悲痛な叫びが届いていた。
(苦しい……偽りの祈りに満たされるのはもう嫌だ……欲望ばかりを私に注ぎ込むな……)
聖女であるセレスが聖杯の前で祈りを捧げる時、その声はひときわ大きくなった。
彼女の力は聖杯に由来するものではない。それどころか、彼女の祈りは、聖杯を苦しめているだけだったのだ。
私はその事実を知りながら、何もできなかった。ただ、教会の前を通るたびに、胸を痛めることしか。
私の微弱な治癒能力は、おそらく、この強すぎる力を無意識のうちに抑えようとした結果、副産物として現れたものなのだろう。
私はずっと、自分の本当の力を抑えつけ、蓋をして生きてきた。それは、この国で、この家で生きていくための、私なりの処世術だった。
だが、もうその必要もない。
雨に打たれながら、私は王都の西門をくぐった。一度も振り返らなかった。過去を捨て、未来へ進むために。
これからどこへ行こうか。あてもない旅になるだろう。けれど、不思議と不安はなかった。むしろ、これから始まる新しい人生に、少しだけ心が躍っているのを感じる。
まずは、国境を越えよう。この国に、もう私を必要とする場所はないのだから。
西へ向かえば、深い森に囲まれた隣国オルドヴァルがある。厳しい自然に閉ざされた、謎の多い国だと聞く。
そこでなら、私のこの力も、誰にも知られずに静かに生きていけるかもしれない。いや、あるいは――。
この力と共に、私の本当の人生を歩める場所が、見つかるかもしれない。
雨はいつしか小降りになり、分厚い雲の切れ間から、弱々しい月光が差し込んできた。
それはまるで、私の前途を照らす、ささやかな希望の光のように思えた。
私は濡れたフードを深く被り直し、ぬかるんだ道を、前だけを見据えて、力強く踏み出した。
私の本当の価値を、私はまだ知らない。そして、この世界もまだ、私の本当の価値を知らない。
“無価値な癒し手”と蔑まれた私の、本当の物語は、ここから始まるのだ。
*
王都を後にしてから、七日が過ぎた。
昼は街道の隅をひたすら歩き、夜は森の木々を屋根代わりにして眠る。食事は鞄の底に残っていた干し肉と、道すがら摘んだ野イチゴだけ。
公爵令嬢として生きてきた私にとって、それはあまりに過酷な旅路のはずだった。
けれど、私の心は不思議なほど軽やかだった。
誰の目も気にせず、泥だらけの道を歩く自由。鳥のさえずりや風の音に耳を澄ませる静けさ。夜空に広がる満天の星の美しさを、私は生まれて初めて知った。
追放された身の上だというのに、まるで長い休暇をもらったかのような気分でさえあった。
そして八日目の午後、私はついに隣国オルドヴァルの国境にたどり着いた。
故国との間に簡素な関所があるだけで、あとはどこまでも続く深い森が広がっている。
厳しい自然に閉ざされた謎の多い国、という噂は本当のようだった。
衛兵に素性を怪しまれることもなく、あっさりと入国を許可された私は、まるで森の深淵に吸い込まれるように、オルドヴァル領内へと足を踏み入れた。
しかし、自由の代償はすぐにやってきた。森の中は獣道すらほとんどなく、陽が傾くにつれて、方向感覚が曖昧になっていく。
頼りにしていた街道はとうに見失い、焦りだけが募った。
雨露をしのげそうな岩陰を見つけた頃には、あたりはすっかり夜の闇に包まれていた。
その時だった。
ガサリ、と背後で大きな物音がした。
振り返ると、闇の中から巨大な影がぬっと現れる。悲鳴を上げる間もなかった。
私の目の前に立っていたのは、月明かりを鈍く反射する、漆黒の鎧を纏った一人の騎士だった。
「こんな森の奥でどうした? ここは“黒騎士団”の領域だぞ」
低く、地の底から響くような声だった。
逆光で表情は窺えないが、その全身から放たれる圧倒的な威圧感に、私は金縛りにあったように動けなくなった。
彼の纏う鎧の至る所には、おびただしい数の傷跡が刻まれている。それは歴戦の誉というにはあまりに生々しく、痛々しいものだった。
黒騎士団――その名は聞いたことがある。
すると彼こそが、オルドヴァル最強と謳われながらも、そのあまりの強さと無口さ故に「呪われている」と国内外で噂される騎士団長、カイド・アシュフィールドだろう。その名を、私は父の書斎にあった各国の資料で見たことがあった。
恐怖で体が震える。しかし、それと同時に、私の耳には別の声が届いていた。
(痛い……永い間、癒されていない……主の優しさに応えたいのに……力が、出ない……)
声の主は、カイド様が腰に下げた、黒鉄の鞘に収められた大剣だった。
その声はあまりにか細く、悲痛で、まるで泣いているかのようだった。見れば、鞘から覗く剣身は黒ずみ、その表面には素人目には見えないほどの微細な亀裂が無数に走っている。
本来持つべき力が、ひび割れた器から砂のようにこぼれ落ちていくのが、私には分かった。
この剣は、限界だった。そして、この剣を振るう主もまた、限界に近い戦いを強いられているに違いない。鎧の無数の傷が、それを物語っている。
気づけば、私は恐怖を忘れて口を開いていた。
「あの……カイド様、でしょうか?」
「む……俺の名を知っているのか」
「はい、あなたのご武勇はかねてより……それであの……その剣、とても苦しんでいます。ひどい怪我を負っているようです。どうか、私に手当てをさせていただけませんか?」
「……何を言っている?」
カイド様が、怪訝そうに一歩近づく。兜の奥から覗く鋭い眼光が、私を射抜いた。
無理もない。見ず知らずの、それも見るからに薄汚れた小娘が、伝説の騎士に向かって「あなたの剣は怪我をしている」などと言い出したのだ。狂人だと思われても仕方がなかった。
「本当です。剣が、泣いています。『痛い』と……『主の力になりたいのに、なれない』と、そう叫んでいます」
必死に訴える私を、カイド様は黙って見つめている。その沈黙が、肯定なのか否定なのか、私には判断がつかない。
「信じられないかもしれませんが……私には、モノの声が聞こえるのです。特に、この剣のように、強い想いが込められたものは。どうか、どうか一度だけ、信じてはいただけませんか」
私は震える手で、母の形見のロケットを握りしめた。これが嘘ではないことの、唯一の証のように。
カイド様はしばらくの間、私と、そして自身の腰にある大剣を交互に見比べていた。やがて、彼は重々しく息を吐くと、思いがけない言葉を口にした。
「……ついてこい」
短いその一言だけを残し、彼は私に背を向けて歩き始めた。私は慌てて、その後を追った。
彼が私を連れて行ったのは、森のさらに奥深く、木々に隠れるようにして建てられた騎士団の駐屯地だった。
質実剛健そのものの、飾り気のない建物が並び、夜だというのに、あちこちで武具の手入れをする騎士たちの姿が見える。
彼らは皆、カイド様と同じように傷だらけの黒い鎧を身に着けており、新参者の私に訝しげな視線を投げかけてきた。駐屯地全体が、どことなく重く、物悲しい空気に包まれているように感じられた。
カイド様は誰に説明することもなく、私を自分の宿舎であろう一番奥の個室へと案内した。部屋の中もまた、彼の人柄を表すように、ベッドと机、武具を置く棚があるだけの、殺風景な場所だった。
「本当に、声が聞こえると言うのか。この剣を、癒やすことができるのか」
部屋に入るなり、カイド様はそう問いかけた。その声には、まだ疑いの色が濃く滲んでいる。
「はい。私にしか、できない方法で」
私が力強く頷くと、彼はついに決心したように、腰の大剣を鞘から抜き、机の上にそっと置いた。
ずしり、と重い音を立てて置かれた大剣は、やはり酷い状態だった。剣身は輝きを失って黒く淀み、無数の傷がその悲鳴を物語っている。
「やってみろ……いや、頼む……」
カイド様が絞り出すように言った。私は静かに頷くと、机の前に座り、そっと剣の刀身に両手をかざした。
目を閉じ、意識を集中させる。私の本当の力――聖遺物の傷を癒し、本来の力を取り戻させる“調律”の力を、今こそ解き放つ。
「可哀想に。たくさん戦って、たくさん傷ついてきたのね。でも、もう大丈夫。私が、あなたの傷を癒してあげる」
私がそう囁きかけると、剣から(本当か……? お前のような小さな娘に、何ができるというのだ……)と、いぶかしむ声が返ってきた。
無理もない。この剣は何百年もの間、誰にもその声を聞いてもらえず、ただ傷つき続けてきたのだから。
私は構わず、さらに深く意識を潜行させる。私の手のひらが、淡い、柔らかな光を放ち始めた。
それはセレスが放つような、目を焼くほどに眩しい金の光ではない。まるで、静かな夜に灯る月光のような、穏やかで優しい銀色の光だった。
光が剣に触れた瞬間、奇跡が起こった。
剣の表面を覆っていた黒い淀みが、まるで朝霧が晴れるかのように消えていく。
微細な亀裂が、光の粒子に溶けるようにして塞がっていくのが見えた。
みるみるうちに、その剣は本来の姿を取り戻していった。
やがて、光が収まった時、そこに横たわっていたのは、もはや黒鉄の大剣ではなかった。
夜空の星々をそのまま溶かし込んで鍛え上げたかのような、美しく、清冽な銀色の輝きを放つ一振りの剣。その刀身は鏡のように磨き上げられ、部屋のランプの光を静かに映し返していた。
「これは……」
私の背後で、カイド様が息を呑む音が聞こえた。
「伝説の聖剣『星砕き』の……本来の姿……」
彼の声は、驚愕に震えていた。
この聖剣は、彼の高名なアシュフィールド家に代々伝わるものだったが、数百年前にかけられた呪いのせいで力を失い、ただの頑丈な黒鉄の剣になっていると信じられてきたのだという。
私の耳には、生まれ変わった聖剣からの、喜びに満ちた声が響いていた。
(ああ……なんと温かい光だ……力が、満ちてくる……! ありがとう、小さき癒し手よ! これでまた、我が主と共に戦うことができる!)
*
その日を境に、私の日常は一変した。
私は“黒騎士団”の専属治癒師……ならぬ、『聖遺物調律師』として、騎士団に正式に迎えられたのだ。カイド様は私の素性を深くは詮索せず、ただ「君の力が必要だ」とだけ言った。
彼らの武具のほとんどが、カイド様の聖剣と同じように、永い年月の間に本来の力を失い、傷ついた聖遺物だったのだ。
力を失った武具で過酷な戦いを強いられ、結果として常に傷だらけになってしまう。
私は次々と、騎士たちの傷ついた聖遺物を調律していった。
錆びついていた盾を癒せば、あらゆる魔法を弾く伝説の『光の盾』に。
ひび割れていた鎧を調律すれば、龍の爪すら通さないと言われる『金剛の鎧』に。
私の手によって、騎士団の武具は次々と本来の輝きを取り戻していく。
それに伴い、騎士たちの戦いぶりは目覚ましく変わり、任務での負傷者は劇的に減っていった。
あれほど駐屯地を覆っていた重苦しい空気は消え、騎士たちの顔には明るさと自信が戻ってきていた。
無口で不器用だけれど、カイド様はいつも私を気遣い、大切にしてくれた。
私が調律を終えて疲れていると、どこからか見つけてきた甘いお菓子と、温かいハーブティーを必ず差し入れてくれる。
最初はぶっきらぼうに机に置くだけだったが、いつしか「疲れただろう」「無理はするな」と、短い言葉をかけてくれるようになった。
「……リリアナ。君は、俺たち騎士団にとっての光だ」
ある夜、月明かりが差し込む中庭で、二人でハーブティーを飲んでいると、彼が不意にそう言った。
その真摯な黒い瞳が、まっすぐに私を見つめている。私の心臓が、とくん、と大きく跳ねた。
故国では「無価値」だと蔑まれ、存在しないものとして扱われてきた私。
そんな私を、彼は「光だ」と言ってくれた。私を必要とし、私の本当の価値を、誰よりも早く見つけてくれた。
私の居場所は、ここにある。
初めて、心からそう思えた。頬を伝う温かい雫を、カイド様の無骨で大きな指が、ためらうように、けれど優しく拭ってくれた。
*
黒騎士団の『聖遺物調律師』としての日々は、驚くほど穏やかで、満ち足りたものだった。
来る日も来る日も、私は騎士たちの傷ついた武具の声に耳を傾け、その傷を癒していく。私の“調律”によって本来の輝きを取り戻した聖遺物たちは、主である騎士たちと共に戦えることを心から喜び、感謝の声を私に届けてくれた。
「リリアナ殿のおかげで、もう陰気だなんて言われなくなったぜ!」
「今じゃ俺たちは『銀閃の騎士団』って呼ばれてるらしい!」
訓練の合間に、騎士たちが快活な笑顔でそう報告してくれる。かつて駐屯地を覆っていた重苦しい空気は完全に消え去り、そこには仲間との絆と、自らの力への誇りが満ちていた。
そして、私の隣にはいつも、静かに見守ってくれるカイド様の姿があった。
私が調律を終えると、彼は決まって温かいハーブティーと甘いお菓子を用意してくれる 。
無口なのは相変わらずだけれど、その黒い瞳が向ける眼差しは、日に日に優しさと、そして確かな熱を帯びてきていることに、私は気づいていた。
私の居場所は、ここにある。
故国では「無価値」だと蔑まれた私が、今はこんなにも多くの人に必要とされている。その事実が、私の心を温かく満たしていた。
*
そんなある日のことだった。
その平穏は、あまりに突然、過去からの使者によって破られた。
「リリアナ様! リリアナ・フォン・クラウゼル様におかれましては、ご息災にてお過ごしでしょうか!」
駐屯地の入り口に、見覚えのある故国の紋章を掲げた使者が、息を切らして駆け込んできた。
その必死の形相に、騎士たちが一斉に剣に手をかけ、私を庇うように前に立つ。カイド様も、瞬時に私の隣に立ち、鋭い視線を使者へと向けた。
使者は私を見つけると、その場に崩れるように膝をついた。
「おお、リリアナ様! お探しいたしました! どうか、どうか国をお救いください!」
彼の口から語られた内容は、にわかには信じがたいものだった。
私の異母妹、セレスの強力な光魔法が、突如として制御不能になり暴走したこと。
国宝である『始まりの聖杯』がその膨大な力を受け止めきれず、ひび割れてしまったこと。
そして、聖杯の力が失われつつある今、国土は不気味な瘴気に侵され、滅びの運命を迎えようとしていること。
「エドワード王子も、セレス様も、民も、皆が貴女様のお力添えを求めております! どうか、我々と共にお戻りください!」
使者はそう言って、額を地面にこすりつけて懇願する。
私の脳裏に、かつて聞いていた聖杯の悲しげな声が蘇った。
(苦しい……偽りの祈りに満たされるのはもう嫌だ……)
あの聖杯は、ずっと助けを求めていた。
セレスの偽りの祈りが、欲望に満ちた人々の願いが、聖杯を少しずつ蝕んでいたのだ。
セレスの力の暴走は、その歪みが引き起こした、いわば必然の結果だったのかもしれない。
聖杯そのものに同情はする。けれど、私を追い出した者たちが、今になって助けを求めてくるなんて、あまりに身勝手すぎではないだろうか。
私が答えに窮していると、隣にいたカイド様が、私の手をそっと握った。ごつごつとして、傷だらけの大きな手。でも、不思議なほど安心する温かさだった。
「行きたいか?」
彼の静かな声が、私の心に深く染み渡る。それは命令でも、誘導でもない。ただ、私の意志を尊重しようとしてくれる、優しい問いかけだった。
私は、私を握るその大きな手を見つめ、そして私を心配そうに見守る黒騎士団の仲間たちの顔を見渡した。
もう、迷いはなかった。
私はゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。私の力は、もう私の大切な人たちのためにしか使いたくありません」
私の大切な人たち――それは、私を必要とし、受け入れてくれたカイド様と、この黒騎士団の仲間たちだ。私を蔑み、利用しようとした者たちのために、この力を使うつもりは毛頭なかった。
私の返答を聞いたカイド様は、ふっと穏やかに微笑むと、使者に向き直った。その表情から笑みは消え、絶対零度の威圧感をまとった氷の騎士の顔に戻っている。
「聞こえたか。彼女はオルドヴァル国の至宝である。二度と現れるな」
その威圧感に、使者は悲鳴のような声を上げて震え上がると、這うようにして逃げ帰っていった。
後日、風の噂で故国の末路を聞いた。
聖杯は結局、完全に砕け散ってしまったらしい。国は瘴気に覆われ、人々は土地を捨てて離散したという。エドワード様もセレスも、全てを失い、どこかへ消えたそうだ。
自業自得、と言うのだろう。けれど、私の心はもう、何の痛みも感じなかった。ただ、遠い国の昔話を聞いているかのような、不思議な静けさがあるだけだった。
「リリアナ」
ある夜、カイド様に名前を呼ばれ、中庭で月を見上げていた私は振り返った。
彼の手には、私が初めて調律した聖剣『星砕き』が握られていた。月光を浴びてきらきらと輝くその剣からは、もう悲しみの声は聞こえない。主と共に在る、誇りと喜びに満ちている。
「君が癒してくれたのは、この剣だけじゃない。俺の心もだ」
そう言って、彼は私の前に進み出ると、静かに片膝をついた。オルドヴァル最強と謳われる騎士が、私一人のために跪いている。
「俺と、結婚してほしい。俺の生涯をかけて、君を守り、愛し続けると誓う」
差し出された大きな手は、無骨だけれど、とても温かい。私の本当の価値を誰よりも先に見つけ、私の居場所になってくれた、世界で一番優しい手。
溢れ出す涙で、彼の顔が滲んで見えた。でも、それは悲しみの涙ではなかった。
「はい、喜んで」
私の返事に、氷の騎士と呼ばれた男は、まるで子供のように、心の底から嬉しそうに顔を輝かせた。
“無価値な癒し手”と蔑まれた私が、世界で一番幸せな花嫁になるまでのお話。
私の本当の価値を見つけてくれたのは、きらびやかな王子様ではなく、不器用で、無口で、でも誰よりも優しい、一人の騎士様でした。
了