404 Not Found
「ぬるちゃんねる」には何の役にも立たない話しかなかった。
「風呂入るのめんどくね?」とか、「スーパーの半額シール貼るバイトってどんな気持ちでやってんの?」とか、「おまえら最近音楽なに聴いてる?」みたいなスレが立って、適当にレスがついて、だいたい一週間くらいで消えていく。
何かを議論するわけでもなく、誰かを煽るわけでもなく、ただ、何の意味もない話をしていた。いや、話すというよりは、そこに流れていた。
それが、ぬるちゃんねるだった。
俺がぬるちゃんねるにたどり着いたのは、もう二十年以上も前のことだ。
あの頃、俺たちはまだ学生で、夜中にネットを覗くことが一日の締めくくりみたいになっていた。2chは怖くて書き込めない、SNSはまだなかった。ネットのどこかに居場所がほしくて、偶然たどり着いたのがぬるちゃんねるだった。
住人は多くても二、三十人くらい。書き込むのはその半分もいなかったと思う。
完全匿名。書き込めば、そこに言葉が残る。ただそれだけ。
その場にいた誰かが適当に書き込んで、それにまた誰かが乗っかって、次第にスレは流れていった。新しいスレが立ち、また消えていく。
それを見ているだけで、なんとなく安心できた。ネットの片隅で、どうでもいい話をするだけの場所。そういう場所が、俺たちには必要だった。
しかし、すべてのものには終わりが来る。
ぬるちゃんねるも、その日を迎えようとしていた。
◇
三年ほど経ったある日、掲示板のトップにこんなテキストが表示された。
──ぬるちゃんねるは、本日をもって閉鎖します。
理由は書かれていない。管理人も名乗り出ない。けれど、誰も驚かなかった。
「そうか、終わるのか」
みんな、そんな感じだった。大袈裟な惜別の言葉はなく、長文の感謝スレも立たなかった。ただ、「へー」とか「今まで乙」とか「いつか終わると思ってた」みたいな短いレスがポツポツとついただけ。
それが、ぬるちゃんねるらしい終わり方だった。
俺は、しばらくその掲示板を眺めていた。
久しぶりにスレを立てようと思った。
「お前ら、最後に適当に書いてけ」と書いて、エンターキーを押した。
すぐにレスがついた。
『これからカップ麺食べる』
『いま犬が寝言言った』
『俺ここのことたぶん三日後には忘れてる』
いつもと変わらないレスだった。
でも、その「いつも」が、もうすぐ消える。
誰も焦らないし、誰も引き止めない。ただ、ゆっくりと流れる掲示板。
俺は、画面をじっと見つめていた。
そして、翌日。
ぬるちゃんねるのURLを開く。
404 Not Found
それが、この掲示板の最後だった。
◇
それから二十年が経った。
俺はもう学生ではなくなり、どこにでもいる会社員になった。毎日仕事に追われる無為な日々。
癒やしを求めてスマホを開けば、SNSでは知りたくもないニュースが流れてくる。
インターネットは変わった。
あの頃、ネットは俺たちの「居場所」だった。匿名の掲示板が中心で、誰が誰だかわからない、気楽なものだった。俺たちは名前を持たず、アイコンもなく、ただ言葉だけを投げ合っていた。
今のネットには、もはや匿名性はない。名前を持ち、フォロワーを増やし、いいねを稼ぐ。ネットは現実と地続きになり、すべてが「自分のため」に発信される世界になった。
それが息苦しくて、俺はSNSに馴染めないまま、ただ眺めるだけになっていた。
昔のネットは、もっと雑だった。誰もが適当に書き込み、適当に絡み、適当に消えていった。何の生産性もなく、何も得られず、それが心地よかった。
電車の外には、いつもと変わらない景色が流れていた。
──暇だ。
何もしていないと、時間が長く感じる。
仕方なくSNSを開く。流し読みするようにタイムラインをスクロールする。
ある投稿が目に留まる。
『ぬるちゃんねる、復活してるぞ』
……ぬるちゃんねる?
心臓が、少し跳ねる。
そんなはずはない。
ぬるちゃんねるは、二十年前に消えた。「404NotFound」のエラーページが表示されたのを、今でもはっきり覚えている。
なのに、復活している?
そんな馬鹿な。誰かの勘違いか、あるいは別のサイトの話じゃないのか?
でも、つぶやきに貼られたリンクを見た瞬間、俺は息をのんだ。「nuru-chan.net」間違いない。ぬるちゃんねるのURLだ。
まさか、本当に?
俺は、何かに導かれるように、そのリンクをタップした。
スマホのブラウザが開く。画面が白くなり、ページの読み込みが始まる。
心臓が、不規則なリズムを刻む。
数秒後。
俺のスマホの画面に、見覚えのあるレイアウトが表示された。
ぬるちゃんねるは、復活していた。
しばらく息をするのも忘れて、画面を見つめた。
何も変わっていない。
手が震えるのを感じながら、スレッド一覧をスクロールした。
ほとんどのスレッドが、あのときのまま残っていた。
◇
俺は、画面から目が離せなくなっていた。
『風呂入るのめんどくね?』
『スーパーの半額シール貼るバイトってどんな気持ちでやってんの?』
『おまえら、最近音楽なに聴いてる?』
スレッドを一つずつ開いていく。
書き込みの日付は、すべて二十年前。
『まじでめんどくさい』
『貼るのは楽しいけど割引狙いのジジイがウザい』
『最近はヘビメタばっか聴いてるわ』
どのスレも、いつもと変わらないテンション。
適当で、気まぐれで、何の意味もない。
俺は、それを延々と読み返した。
まるで時間が巻き戻るような感覚だった。
◇
あの頃の俺は、初めての一人暮らしを満喫し、深夜までPCの画面を眺めていた。
誰かが適当に立てたスレッドに適当にレスをつけ、また別のスレを開く。
特に話したいことがあったわけじゃない。ただ、何となくそこにいたかった。
何を言っても、適当に流れる。誰かを批判するわけでもなく、議論をするわけでもなく、ただ「わかる」みたいな感じでレスがつく。
それが、心地よかった。
何も変わらず、何も得られず、それでも安心できる空間だった。
◇
俺は、まだスマホの画面を見つめていた。
ぬるちゃんねるの過去ログを、何度もスクロールしながら。
どのスレッドも、どの書き込みも、二十年前のままだった。
まるで、時が止まったままになっているような感覚。
そのときだった。
──新しいスレッドが立った。
その内容に俺は息を呑んだ。
『お前、ずっとここにいるつもりか?』
見た瞬間、背筋がゾクッとした。
誰が立てた?
今、ぬるちゃんねるに人がいるのか?
俺以外に?
スレッドを開くとレスが書き込まれていた。
『過去ばかり見てると、お前も消えるぞ』
その瞬間、心臓が強く跳ねた。
何だこれは。
誰が書いた?
俺のことを、見ているのか?
◇
俺はスマホを持つ手が少し震えるのを感じつつ、画面を見ながら考えた。
俺は、何をしているんだ?
もう二十年も前のことなのに。
このまま、ずっとここにいるつもりか?
──違う。
俺は、ここにいるべきじゃない。
そう思った瞬間、手が勝手にブラウザを閉じた。
ぬるちゃんねるが画面から消えた。
◇
気づけば、電車はもう駅に着こうとしていた。
俺はスマホをポケットにしまい、ふっと息を吐いた。
窓には見慣れたはずの風景が流れていく。
でも、そのときの俺には妙に新鮮に感じられた。
電車が駅に到着する。
俺は立ち上がり、ドアが開くのを待った。
ぬるちゃんねるを開くことはもうなかった。
◇
それから数日が経った。
仕事に追われるいつもの日常。
朝、電車に乗り、会社に行き、帰ってきて、適当に飯を食って寝る。
ネットは相変わらずつまらない。
SNSを開けば、バズってる投稿や、誰かの自慢話が並んでいる。
どこかの誰かが炎上し、どこかの誰かがそれをネタにして笑っている。
俺はそれを眺めながら、思う。
──もう、俺の「居場所」はここじゃないのかもしれない。
◇
仕事が終わったあと、駅前のカフェに寄った。
いつもなら真っすぐ家に帰るところを、何となく寄り道してみた。
店内には、それなりに人がいる。
仕事帰りの会社員、ノートPCを開いた学生、黙々と読書している中年の男。
俺は注文したコーヒーを受け取ると、適当な席に座った。
挽きたての豆の香りに包まれながら、俺はスマホのメモアプリを開いた。
特に意味はない。
ただ、何かを「書く」という行為をしてみたくなった。
──何を書こう?
ふと、頭に浮かんだ言葉を、メモに打ち込んだ。
『「ぬるちゃんねる」には何の役にも立たない話しかなかった』