そんなことより、テスト勉強がしたいんですけど
「俺が、お前のような平民と本気でどうこうなると思っていたのか、アクア」
アクアは酒場で働く母が貴族の手付きとなって生まれた子どもである。母は、アクアの妊娠がわかると、父親であるその貴族と契約を交わした。
アクアが成人になるまで、規定の養育費を支払うこと。
万が一自分が亡くなった場合でも、アクアが貴族籍に入ることを求めないこと。
アクアに危機が迫れば、どんな手段を使っても守ること。
生まれてくる我が子が不当に貶められないように、また、不幸な生活を送ることがないようにという母としての思いからである。貴族の男は、そのときはアクアの母に骨抜きになっており、アクアの母に今すぐ第二夫人になってほしいと願った。しかし、正妻がいい顔をしないことも、アクアが正妻に殺意を向けられることを懸念し、この契約を結べないなら二度と会わないと頑として譲らなかったのである。
その固い意志に折れた貴族は、条件そのまま契約を結んだのだった。
アクアが三歳になるころ、母が流行病に倒れた。ところが母は、毎月のアクアの養育費には一切手をつけず、医者にかかることも薬を買うことも拒み、アクアに謝罪しながら息を引き取ったのである。
ふだんから良くしてくれていた隣人夫婦のおかげで母の葬儀を終えたあと、隣人夫婦より、自分たちの子どもにならないかとアクアは提案を受けた。彼ら夫婦はいつも親切で、子どもながらにその申し出にアクアも喜んで、この優しい夫婦の子になることを決めたのだった。
隣人夫婦には、アクアより二歳年上の娘が一人いた。名はカナリアといい、親切な隣人夫婦の実子とは思えないほど意地悪な娘であった。アクアに心配があるとすればカナリアの存在だったが、夫婦はカナリアからよくアクアをかばってくれていたし、養子だからと虐げられることもなく、カナリアからの多少の意地悪はあっても、アクアは幸せに過ごしていたのである。
アクアが十三歳、カナリアが十五歳のとき、事件は起こった。
「ねえ、アクア。このネックレス貸してよ!」
それは、アクアの実母の形見であるルビーのネックレスだ。母からは、大切に持っていなさいと言われていたが、アクアはなんとなくそのネックレスが好きになれず、すっかり引き出しの奥にしまわれていたのである。
明日から王立学園に入学するからと、アクアが準備をしているときに偶然見つけたそのネックレスに懐かしさを覚え、ベッドに出していたのがよくなかった。勝手にズカズカと部屋に入ってきたカナリアが、目ざとくそのネックレスを見つけたのだ。
カナリアはアクアに先んじて王立学園に入学していたが、勉強よりも男漁りのほうが好きらしい。噂では、同じ学園の貴族のご子息にも声をかけているということだ。そんな目立ちたがりのカナリアがそのネックレスに目をつけたのはもはや必然と言えるだろう。
「ちょっと、返して!それはわたしのネックレスなのよ」
「いいじゃない。アクア、こんなネックレスつけてなかったし。ちょっとくらい貸してよ!」
「それ、お母さんの形見なの」
「ケチね。減るもんじゃないし、いいでしょ。明日は、大事な人とデートなのよ」
カナリアがうれしそうにうふふと笑う。カナリアのデートの噂も聞いている。毎回違う男性を連れているらしい。義両親の心労を思い、アクアはそっとため息をついた。
「だめなものはだめ。返して!」
「何よ!ただの居候のくせに!これは家賃よ」
この家はカナリアの両親が建てたというのに、傲慢に育ったその女は無理やりルビーのネックレスを持って部屋を出て行く。アクアは追いかけることも馬鹿らしくなり、大きく息をはき出した。ネックレスはまた奪い返せばいい、まずは明日の準備だ。アクアは頭を振って切り替え、せっせと準備に勤しんだ。
このときのアクアは知らなかったのである。あのルビーのネックレスの意味を。
王立学園は、貴族と平民が通う大きな学園である。とはいえ、貴族と平民は校舎が分かれており、基本的に交わることはない。貴族が気まぐれで平民の校舎に来るか、とんでもなく優秀な平民が貴族のクラスに入るか、いずれにしてもアクアには関係のない話である。カナリアはたまたま来た貴族を目ざとく見つけ、かわいらしくすり寄ったのだろう。休み時間のたび、中庭で貴族の子息たちに囲まれているカナリアは、明らかに浮いていた。
「アクアって、カナリアの妹なの?」
同じクラスで隣の席になった平民のナンナに聞かれ、アクアは首を振る。
「まさか!訳あって、カナリアの両親にお世話になってるけど、カナリアを姉なんて思ったことないよ」
「そうなんだ。……じゃあ、やっぱり、あの噂って嘘だよね?」
「噂って?」
「カナリアが、実は貴族の子どもなんじゃないかってこと」
アクアの心臓が、なぜか一瞬跳ねる。
「どうして、そんな噂が」
「なんかね、どこかのお貴族様たちが噂してたんだって。カナリアが貴族の血を引いてるんじゃないかって」
「まさか、そんなはずないよ」
「そう、だよね……。カナリアって貴族って感じじゃないもんね」
ナンナの笑みに、アクアもつられて笑う。
「あ!そうだ、アクア。せっかくだし、図書室で一緒に勉強しない?」
「助かる〜。古語でわからないところがあって」
「じゃあ行こう!」
王立学園の図書室は、王国内でも最大規模の大きさを誇り、この場所だけは、貴族も平民も関係なく使用することができる。なんとなくの暗黙の了解で、貴族が集まる場所、平民が集まる場所はできているが。
アクアたちが図書室に行くと、何人かの生徒たちが読書をしたり自習をしたり各々過ごしているようだった。平民たちが使う席を確保して、アクアとナンナは周囲に迷惑をかけない程度に勉強を教え合う。平民と言えど、王立学園にいる間はしっかり勉強しないといけない。テストで落第をくり返すと、平民も貴族もなく退学となるからだ。
退学になると、その後の人生に翳りができる。それがわかっている生徒たちは、きちんと勉強に励んでいた。……もちろん一部の生徒は、そんなことを気にせず遊んでいたけれど。
勉強を始めて数刻、二人は歴史の課題に頭を悩ませていた。課題のために、参考になりそうな本を探そうと二手に分かれて図書室を探し始める。
「えっと……あ、これとか参考になりそう」
アクアは少し高いところにある本を見つけ、背伸びをする。指の先はかすめるものの、もう少しで届かない。
「ん〜」
「……これか?」
なんとか手にしようとアクアが限界まで体を伸ばしていると、軽々と目当ての本を取る人間がいた。振り返って、アクアは息をのむ。その男子生徒の制服には、貴族の証である記章がついていた。
「大変失礼いたしました」
慌てて頭を下げる。学園の中では、平民も貴族も関係ないということになっているが、そんなことは建前であることもよくよく理解している。
「気にするな。難しい本に興味を持つんだな」
本を渡されながら言われた言葉は、「平民なのに」とほのめかされているようだ。アクアはぺたりと笑顔を張り付ける。
「恐れ多いことです。課題の参考にしようと」
「へえ」
「それでは、ありがとうございました」
もう一度頭を下げてさっさとその場を立ち去ろうとしたのに、その男はさらにアクアを呼び止める。
「お前、カナリアの妹だろう?」
「……いえ、わたしは」
まさか、カナリアがちょっかいをかけている貴族の一人だろうか。アクアは笑みを浮かべたまま、警戒を強める。
「カナリアから聞いたんだ。自慢の妹だと」
「それは……」
どう考えても嘘だとアクアは思う。自慢の妹だと言って、「優しいカナリア」を演出しているのだ。貴族のくせに、そんなこともわからないのだろうか。
「名は?」
「アクアと申します」
「俺は、リール・ジョンソンだ」
ジョンソンと言えば、おそらく王家に次ぐ権力を持つジョンソン公爵家だ。アクアはひゅと息をのみ、さらに深く頭を下げた。
「……ジョンソン公爵子息様、存じ上げなかったとはいえ、ご無礼をお許しください」
「気にするな。まあ、気が向いたらまた話してやらんこともない」
王家に次ぐ公爵家の子息ともなると、上から目線は染みついた癖のようなものなのだろう。触らぬ神に祟りなし、アクアは再び礼を口にしてその場をやり過ごした。
その日から、図書室に行くたびにリールに声をかけられるようになった。話の内容は他愛のないことばかりだ。アクアはほとんど聞き流し、まじめに聞いていなかった。
「そういえば、カナリアが言っていたが、アクアはわがままなんだって?」
からかうような口ぶりに、アクアの頬がぴくりと引きつる。
「……はあ、それは、お恥ずかしいことで」
「まあ、仕方ないな。カナリアは優しいし」
リールの目を見て、アクアは驚いた。まさかここまでの高位の子息を絡め取るとは。実はカナリアはかなり狡猾な女なのではないか。リールが平民の女に心酔しているという噂はあながち嘘ではないのかもしれない。
そのために、自分を悪く言われたことだけは納得いかなかったが、卒業すれば関わりのなくなる人物だ。カナリアも卒業すれば夢から覚めなければいけない。一時のことならと、アクアは何も言わないでおいた。
……それが、よくないことになるとは思いもせずに。
アクアが、義姉のカナリアをいじめている。カナリアの物を奪い、家では暴力も振るっている。
気づけば、このような不名誉な噂が、学園に流れるようになった。アクアをよく知るクラスメイトはそんなことを信じなかったが、アクアをよく知らない者やカナリアに心酔している男たちは、アクアを敵視した。
学園の中だけだったし、クラスメイト以外ととくに関わらないので、さほど困ることはなかったのだが、まさかいつものように自習に向かった図書室で、意味不明な断罪を受けるとは思っていなかったのである。
「俺が、お前のような平民と本気でどうこうなると思っていたのか、アクア」
いつもの場所に座って勉強を始めようとしたアクアに、不躾な言葉がぶつけられた。
図書室で何を騒いでいるんだと顔を上げると、そこにいたのはリールと、泣きそうな顔をしたカナリアであった。
「あの……」
わけもわからず、二人を見比べる。リールはいつものような人を小馬鹿にした目でアクアを見ていた。
「俺が話しかけてやったからって、調子に乗っているようだな」
リールが何を言っているのかわからないアクアは、ぽかんと間抜けな顔をしてしまう。
「まさかこの俺に愛されてると勘違いして、心優しいカナリアを罵るとは。なんと恐ろしい女だ」
恐ろしいのはあなたの頭の出来だろう、ともちろん言えるはずもなく。
「リール様、いいんです。アクアはかわいそうな子で」
「カナリア、本当にお前は……。やはり、君は陛下の血を引いているんだろう」
「そんな……!」
一体何が起こっているのか。アクアは一切ついていけない。
「このルビーのネックレスが何よりの証だ。これは王家に伝わる最高級のルビーだよ」
リールが愛おしそうに触れたネックレスは、いつの日かカナリアがアクアから強奪した母の形見である。
……そのルビーが、王家に伝わるもの?
「父から聞いたことがある。陛下がまだ王太子になる前、平民の女性と恋をしたのだと。でもその女性とは結ばれず、ルビーのネックレスを贈ったそうだ。まさかその愛の結晶が君だったなんて」
リールの発言にアクアは持っていたペンを落とす。あのネックレスは、間違いなくアクアの亡くなった母が持っていた。それは、つまり――。
「何を騒いでいる!」
この茶番劇の間に入ってきたのは、王弟殿下であり、この学園の学園長だった。いつもは穏やかな表情で声を荒げることはないのに、その日はいつになく慌てた様子であった。
「王弟殿下」
リールがわざとらしく臣下の礼をとる。学園長は眉間にしわを寄せ、「ここでは学園長だ」と苦々しく言い放つ。
「そんなことより、何を騒いでいるんだ。リール・ジョンソン」
「……そこの平民の女が、俺に懸想されたと思い込み、陛下の落とし胤を貶めたと聞いたので」
学園長と目が合うと、ぎょっと目を見開く。アクアもびっくりして肩が跳ねた。
「お前は、正気か?お前に寄り添うその女生徒が、陛下の落とし胤だと?」
「ええ」
「なぜ?」
「このネックレスですよ。このルビーは王家に伝わるものです」
学園長がカナリアのネックレスを見て頷く。
「ああ、そうだな」
「そうでしょう?つまり、カナリアが」
「その女が、陛下の愛しの君の形見を奪った犯人ということだ」
学園長の冷たい声に、場の空気が凍りつく。カナリアの表情は青ざめ、今度はリールがアクアのようなアホ面をさらしている。
「たしかに、陛下には平民の女性との間に子どもがいる。しかし、その女性との契約で、その御子を貴族にすることはかなわない。ただし、もしその御子に危機が迫るときは――どんな手段を使っても、守ることになっている」
「え?」
「きゃあ」
学園長がすっと片手を上げた瞬間、どこからともなく現れた王家の影にリールとカナリアは拘束された。
「ど、どういうことですか!?」
「お前は馬鹿なのだな。陛下の大切な御子に、影がついているのは当たり前だろう?」
「え、まさか……」
ようやくリールは、自分がカナリアに騙されたのだと悟ったらしい。きっとカナリアを睨みつける。
「騙したのか!汚らわしい平民が!」
「……何よ!わたしのことかわいいかわいいって近づいてきたのはそっちでしょ!」
「黙れ」
学園長の低い声に、リールとカナリアが口を閉じる。
「このような騒ぎを起こして、ただで済むと思うな」
「俺は、俺は騙されていたんだ……!アクア、君ならわかってくれるだろう!?」
すっかり自分の存在は忘れられているものと思っていたアクアは、いきなり声をかけられまた驚く。さっきから何が起こっているのかまったく頭が追いついていないが、はっきりしていることは一つ。
「えっと、なにもわからないですね。そもそも、わたしがリール・ジョンソン公爵子息様に懸想していると勘違いされていることも驚き呆れるばかりで……。わたしとしては、いつも話しかけられて迷惑だなあとしか思っていませんでしたし」
「なっ……」
「……あの、学園長、テストも近いので勉強に集中したいのですが」
学園長は驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな表情で頷く。
「うむ、騒いで悪かった。よく学びなさい、アクア嬢」
「はい!」
アクアが元気よく返事すると、「図書室ではなるべく静かに」と笑ってたしなめられる。リールとカナリアはずるずるとどこかに引きずられていき、アクアのもとには母の形見のネックレスが戻ってきた。
やっぱりこのネックレスは好きになれない。アクアは無造作にポケットにつっこみ、迫りくるテストに向けて勉強を始める。
陛下の御子とか、王家の影とか、そんなわけのわからない話よりも、テストの落第のほうがアクアにとっては重要だった。
こうして、生前の母の契約通り、アクアの平和は守られたのである。