19:前を向いて。
本の中の世界に来て半年。
私は暇を持て余していた。
戻る方法は一応探してみたものの、キャスリンが全く協力的ではない。しかも勝手に彼氏を作ったうえに、結婚前提で付き合っているとかなんとか惚気てくる。
キャスリンはこちらに戻ってくる気は一切ないらしい。
「はぁ……」
キッチンでホイップを混ぜながら溜め息を吐いていると、スヴェンが背中側から抱きついてきて、肩越しに手元を覗き込んできた。
――――近い近い!
「リン、今日は何を作っているんだ?」
「ヨーグルトムースです」
「あぁ、レモンソースで食べるやつだな?」
「ですです」
あまりにも暇なのと無駄にぐるぐると考えてしまうので、お菓子を作りながら心頭滅却していた。
スヴェンは街で好きに買い物すればいい、と言うけれど、とくに買いたい物とかない。
キャスリンの持ち物が既にいっぱいある。
それに、私にはスヴェンがくれた髪飾りがあるし。
「リン、そろそろ、本気で考えてくれないか?」
スヴェンは、私を私の名前で呼んでくれるようになった。
そして、このままこっちに居て欲しいと、事あるごとに言ってくれる。
わりといろんな話をするし、辺境の事も沢山教えてもらった。
今は協定を結んでいる隣国と、十年前はかなり際どい小競り合いをしていたらしい。そのさわりは本で読んだけど、細かなところは理解していなかった。
相手国と協定を結ぶために東奔西走したのがスヴェンだったらしい。
今もその後処理などで出動することもあるらしい。
「遠出をしている間に、君が消えないとも限らない」
「黙っていなくなりはしませんよ」
「言質がほしい。君が恐れている『ヒロイン』が来ても逃げないと」
「ヒロイン…………」
元々、私が読んでいた本ではキャスリンと離婚して何年かして『真実の愛を見つけた』系のストーリーのはず。帯にそう書いてあったから。
珍しく男性視点の異世界恋愛ものだったこともあり、かなりワクワクと読んでいた。なのに読めたのはほぼ冒頭のみ。
あの表紙の可愛い子がどこの誰で、スヴェンとどうなるかなんて知らない。
あの本が部屋にあるはずだと思ったのに、跡形も無くなっていた。キャスリンに頼んで本屋さんやネットで探してもらったけど、見つからなかった。
買ったときのレシートからは、商品名が消えていた。
「リンの懸念は解る。だが、君がこちらの世界に来てから流れが変わったとは思えないか?」
「っ…………」
変わったと思いたい。
スヴェンとの生活はとても穏やかで、楽しい。
スヴェンが視察に行ったり騎士団として遠征したりしている時がちょっと寂しくなるだけ。
変わったと思いたいけど、世界の強制力が怖い。ヒロインが現れる可能性は、ゼロじゃないと思うから。
「いつか現れる知らない誰かより、リンがいいのだが?」
そっと首筋に落とされる口付けに胸が締め付けられる。
初めは見た目から。
でも今は、違う。
柔軟な考えを持ち、人の話をしっかりと聞いて理解し、寄り添ってくれるスヴェンが好き。
「リン?」
「見た目は……スヴェンが嫌っていたキャスリンです」
「……」
スヴェンの重く長い溜め息がキッチンに響き渡った。
クイッと腕を引かれ、小動物のようにビクリと肩が跳ねてしまった。
「リン、こちらを向いてほしい」
「っ、はい」
恐る恐る振り返り、スヴェンの足先を見る。
怖くて目が合わせられない。
弱い自分が悔しくて、拳を握りしめると全身に力が入った。
「私は、旋毛を見て話す趣味はないのだが?」
よしよしと頭を撫でられ、少しだけ身体の強張りがとれた。
ゆっくりと視線を上げると、そこにはなんとも言えない春の陽射しのように優しい顔をしたスヴェンがいた。
「確かに君はキャスリンだ」
膝から崩れそうだった。
見た目も名前も身分も、中身以外全てがキャスリンで、私ではない。
「私も……最初はかなり悩んだ。だが、君は君だ。キャスリンの見た目は残っているが、髪型も顔つきも違う。鏡の中君の姿は元の君のままかい? 表情や動作や言葉遣いは? 自分が動いてるように感じる?」
「……全然…………違う人に見える。似てるけど、別の誰か……」
「私も、そうだ。確かに似ている。でも君はキャスリンではない。リンだ」
「っ…………でも」
いつかヒロインが来たら?
いつか本物のキャスリンが戻ったら?
いつか私が消えたら?
「来るかわからない未来を恐れないで欲しい。目の前にある今を無視しないで欲しい。どうか、私の想いを……信じて、受け取って」
両頬を包まれ、スヴェンの碧眼から目を逸らせなくなった。
ゆっくりと近付く柔らかな笑顔。
ふわりと触れる唇。
「んっ――――」
自分から漏れる甘い声に、頬がカッと熱くなった。
「リン、私はリンを愛した。初めて人を愛した」
「え……」
「キャスリンとは政略結婚だからね」
「それより前は?」
「残念なのか幸いなのか微妙だが、国境での戦闘に明け暮れていたのでね」
ちゅ、と何度もキスが降ってくる。
「ふふっ。奇想天外だが、こんな初恋も悪くはないな」
いたずらっ子のように笑うスヴェンは、少し幼く見えたものの、心臓が飛び出しそうなくらいに格好良かった。
「っ、はい」
私は初恋ではないのかもしれないけれど、今までのは恋に恋していただけのような気がする。
人として愛したのはスヴェンが初めてだった。そう伝えると、苦しいほどに抱きしめられた。
「リン、愛してる」
「私も愛しています」
もう一度だけ、そう言いながら、何度目かの口づけをした。
『あら? なに? え? 子供ができた?』
「あ……うん。あの…………ごめん?」
『あの男、機能してたのね』
「ちょぉぉぉぉ!?」
「なんだ、お前には反応しなかっただけだが?」
『あらいたの? おめでとう』
「……ん」
『リン!』
「は、はい!」
『貴女はそっちで好きに生きなさいよ。私も好きにやってるんだから。ただ、お父様を……孫に会わせてあげてね。私は出来なかったから』
「うん。約束する。キャスリン、ありがと」
時々、実はスヴェンとキャスリンは仲が良いのでは? と思うことがある。
二人が言うには、私という緩衝材が出来たから、多少は素直に話せるようにはなったらしい。ただ、お互いにツンツンしてるし、二人でなんて絶対に話したくないと言う。
私は二人とも大好きだから、仲良くしてくれるとうれしいなと伝えると、二人とも頬を染めて照れる。基本的に反応がそっくりなのよね。
同族嫌悪かな? なんて言うと、物凄く怒られそうだから、ぐっと我慢。
『じゃ、またね』
「うん、またね!」