第77話 異界?タイムスリップ?
いつものように、渋谷の事務所に出勤し、来客の応対をしつつ、受けることができる仕事かできない仕事であるかを判断して、その日できる仕事をこなした。
事務所をほぼ定時に閉めて、帰宅の途についたのは、その日の午後7時過ぎのことだった。
事務所から松濤の我が家までは、距離にして600mほどだから徒歩でも10分圏内で有り、余程急ぐ場合や仕事で車を使う場合を除いては、徒歩通勤である。
ひどい土砂降りなどの場合には、自家用車やタクシーを使う場合もあるが、滅多にないことだ。
いつものように文化村通りを経て渋谷東急の南側を西へ進み、文化村シアター脇の歩道を進んでいたが、突然、俺は穴に落ちた。
昨今、道路の陥没などであちらこちらで種々の被害も生じているようだが、俺が落ち込んだ穴はちょっと違っていると思う。
どうもラノベにでも出て来そうな異界の穴に落ち込んだようだ。
足元の地面がいきなり消失し、わずかな時間だが無重力の浮揚感を抱いたまま、俺は暗黒の中を落ちていた。
どうやって着地したかはわからないが、俺は見慣れぬ石畳の路地に尻もちをついていた。
不意のことではあったんだが、俺に怪我は無いようだ。
この路地を6~7mほど進んだところに広い通りが見え、街灯が設置されているようなのだが、どうも電球ではなさそうで、物凄く暗いな。
なんだか大昔の白黒映画(チャップリンあたりが出て来る?)で見たことのあるガス灯のような気がする。
日本でも明治時代にはガス灯が東京にはあったはずだが、路地を形成している建物はいずれも石造りかレンガ造りのビルでかなりくたびれた感じがする。
街灯に照らされた広い通りには自動車じゃなく馬車が通るのが見えたぜ。
この情景は、差し詰め、18世紀か19世紀の欧州のどこかの古い町並みを思わせるなぁ。
さてさて、こいつは夢なのかいな?
いやいや、歩いている最中に夢など見るはずも無い。
そうすると最近訪問の機会が何となく増えている異界なのか?
タイムスリップ(タイムトラベル?)なんかだとちょっと困るよな。
俺は浦島太郎にはなりたかねぇよ。
家には可愛い妻も娘も待っているんだ。
もしここで動かずにいれば元に戻れるとでも云うならこの場で待つけれど、俺の勘では、この暗がりの路地はかなりヤバイ感じがするな。
で、俺は灯りに吸い寄せられるように、街灯のある通りに出たぜ。
街灯がついているくらいだから、時間は夜なんだが生憎とこの異界の時間は不明だな。
俺の時計は午後7時10分頃を示しているが、この時計は全然あてにならない。
何しろ秒針が止まっている。
この異界にいる間、俺の元の世界の時間が止まっているのなら、元の世界に戻っても困らないんだが、経過時間が同期していたり、ずれていたりすると俺の家族が心配することになりかねない。
事務所を出る時に「帰るコール」をしたばかりなんだ。
どんなに遅くても15分前後で我が家に着くはずのものが、着かないとなれば家人が心配するだろう。
多分、孝子が30分もすれば俺のスマホに電話を掛けて来るだろうけれど、多分ここでは絶対に圏外だよな。
次は何だ?
警察に電話か?
いや、孝子は用心深いから、いきなりそうはすまい。
然しながら夜の零時を過ぎれば、警察に電話するかもな?
俺の場合、外出する時は、孝子や事務員にきちんと予定を告げているからな。
急な仕事が入っても、必ず一言断って置くのが俺の流儀なんだ。
まぁ、今その心配をしても始まらないな。
さて、此処も馬車は通行しているので、まだ左程遅い時間ではないはずだ。
但し、何というか空気が悪いし、臭気が凄い。
饐えたような匂いが路地だけでなく、この比較的広い通りにも充満している。
もしかして中世のスラムなのか?
それにしては、石造りやレンガ造りの建物が結構多いんだが、・・・。
まぁ、ニューヨークのスラム街も古いビルに不法占拠している輩が結構いるから、此処も似たような状況かも知れない。
で、偶々すれ違った男二人、服装から見て所謂紳士ではなさそうだが、結構訛りの強い英語を話していた。
それで此処は英語圏だとわかったが、英国?それとも米国か?
或いは大英帝国の植民地もあり得るのかな?
こういう時は、近くの霊に訊いて確認するに限る。
で、早速、石造りのビルと街灯に尋ねてみたよ。
その結果、俺が居る場所は、イギリスのロンドンで、イ-ストエンドと呼ばれるホワイトチャペルがある場所とわかった。
俺もロンドンには行ったことが有るが、確かロンドンブリッジの北東側に広がる地域のはずだ。
ホワイトチャペル地区の界隈は、とある事件で世界的にも有名なんだぜ。
|切り裂きジャック《Jack the Ripper》は、確か19世紀後半(1880年代)に、娼婦の喉をかき切る殺人鬼として有名だが、遺体の一部は腹を切り裂かれ、内臓を取り出されたような犯行であったことから、解剖学等に詳しい者の犯行とみられていた。
但し、当時のスコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)は千人を超える容疑者を調べたが、犯人を捕らえられず、21世紀に至っても未だ犯人は特定されていない。
無論、俺の元の世界では、最後の犯行から150年近くが経っているから切り裂きジャックが令和の世界に生き残っていることはあるまいとは思うが、俺が落ち込んだこの異界ではどうなのかな?
街灯がロンドンに設置されたのは19世紀初頭なんだ。
で、21世紀になっても歴史的遺物としてガス灯の一部はロンドン市内に残っているらしいが、当該ガス灯に訊いてみたら、作られたのは1820年代でそれからもう60年近く経っているとのことだった。
霊という奴は、時間の経過に無頓着な奴が多いんだが、この街灯の霊は例外的にしっかりしているようだな。
ということは、俺が落ち込んだこの世界は、19世紀も終わりの方、1880年代若しくは1890年代に掛かっているかもしれない。
此処がホワイトチャペル地区ならばまさしく切り裂きジャックの暗躍していた頃の場所に符合することになる。
ウーン、俺も探偵だが、小説の『シャーロックホームズ』やテレビアニメの『コナン』と違って、殺人事件を捜査して犯人を捕まえる探偵じゃないぞ。
そりゃ、警察から依頼があればそれなりの調査は行うけどさ。
それにしても19世紀後半の英国とは恐れ入る。
1890年(明治23年)は、大日本帝国憲法が制定された年だな。
1894年(明治27年)には日清戦争が始まるはず。
この時代、少しは日本人も渡英していたかも知れないが非常に少ないだろうな。
逆に言えば、英国にいる東洋人としては非常に目立つことになる。
一応背広を着ているんでそれなりの紳士とは見做されるかもしれないが、この時代のロンドンの服装とは絶対に違うからな。
以前見たシャーロックホームズの映画では、燕尾服やフロックコートが多いんだ。
紳士は、外出時に山高帽を被っているしな。
今の俺の格好は、ちょっと毛色の変わった庶民だろうな。
おそらくは令和のスーツ姿なんてのは、滅多に見かけない服装だろうから目立つことこの上ない。
スペイン人に黒目黒髪の人は居るけれど、俺とは肌の感じが違うし、扁平顔じゃなくって彫りが深いから明確に区別がつくはずだ。
この頃の英国人は、余程の知識階級じゃない限り、中国と日本の違いを絶対に分かっていない奴が多いはずだ。
ただ、1862年のロンドンの万博に江戸幕府から使節団が非公式に参加しているから、ちょんまげ武士を日本人と思っている奴は多いかもしれないな。
また1867年に開催されたパリの万博にも幕府や薩摩藩、佐賀藩が出品している。
従って、この時もちょんまげ武士だったはずだ。
明治政府が万博に正式に参加したのはウィーンでの万博からで、この時は、ちょんまげは無く、散切り頭の日本人が居たのじゃないかと思う。
従って、ザンギリ頭に似た髪型の日本人が19世紀も終わり頃のロンドンに居ても不思議はないだろうが、生憎と俺はパスポートも持っていないからな。
警察にでも目を付けられると困ったことになるのは間違いない。
それに俺は19世紀のイギリスの通貨なんぞ持っていないぞ。
令和の日本通貨が使えるはずも無いしな。
さてさて困ったぞ。
寝るところも無いし、飯も食えないことになる。
こりゃぁ、スラム街のホームレスになるしかないのか?
ウーン、こういう時の神頼みならぬ、居候頼みだよ。
幸いにして、この異界でもウチの居候は自由に動けるようだから、居候達や守護霊のコンちゃんに相談したら、彼らの力で何とか金や証明書を工面してくれることになったぜ。
無論、彼らに頼む以上は、まともな方法であるはずも無い。
後で確認した話によれば、現金についてはロンドンの金持ちの財布や金庫などを漁って、あちらこちらから少しずつ盗んでくるやり方のようだ。
銀行みたいに金の管理がしっかりしているところは避けているようだから、盗みがばれることは無いらしい。
いずれにしろ犯罪者の仲間入りなわけだが、緊急避難として他に方法も無いから止むを得まいな。
さもなければ、俺は此処で飢え死にすることになる。
因みに通貨は、金本位制のポンド(価値としては2.5万円程度とする説と7~8万円程度とする説がある?)で、1ポンドは20シリング、1シリングは12ペンスらしい。
5ポンド金貨、2ポンド金貨、ソブリン金貨(1ポンド相当)、ハーフ・ソブリン金貨(10シリング相当)、クラウン銀貨(5シリング相当)、ハーフクラウン銀貨(2.5シリング相当)、ダブル・フローリン銀貨(4シリング相当)、2シリング貨幣などがあり、最小単位通貨としてハーフペニー(1ペニーの半分)もあるが、これらの通貨はいずれも21世紀の通貨としてはその価値が保証されていないはずだ。
もう一つは、俺の身分証明についてなんだが、ロンドンの市民証明書を入手することになった。
パスポートが無いから、俺の身分証明に掛かる裏付けは全く無いんだが、所謂住民票に似た書類を偽造して、市民証明書なるペーパーを入手できた。
さもなければ、俺はホテルにも泊まれない。
それなりに綺麗な格好はしていても、胡散臭い東洋人を親切に泊めてくれるようなお人好しは、少ないだろうな。
そのため書類手続きについては、居候達が陰で動いて全て偽造し、ロンドンの市庁舎には正規の形で住民として登録されていることになっている。
因みに家系については日本人とせずに、中国華僑の子孫にしている。
可能であれば、元の世界に戻る際には、この異界での全ての痕跡を消して行くつもりなんだが、それができなくって、万が一関係書類が後世に残ったにしても、後を手繰られないようにするためだ。




