妖しげな気配
夜九時頃八月様がいらして、月が替わって、仕事を終えられた七月様を四時前に見送った。
やれやれと一息ついて周りを眺めると、東の方がぼんやりと明るくなっていた。
夏の夜明けは早い。
大きく伸びをして、朝の空気を思いっきり吸い込んだ。そして、片付けをしている母殿に、「母殿、後は私が片付けますので、もうお休みください」と言った。
月神様の交替は夜に行われる。迎える神様と戻られる神様の接待をしていると、寝る間も無く忙しい。母殿ももう年だ、徹夜仕事は身体に応えるのだろう。
「それじゃあ、後は任せるよ」
そう言って、洗い物を残して母殿は家の奥に入って行った。
直親が来てから、母殿は無理をしなくなった。いつも何かしら直親が手を貸して、母殿に無理をさせないように、気を遣ってくれているからだろうか。そういうところは直親に感謝しないといけないと思う。
洗い物を素早く済ませると、山の一番高いところに登って、朝日が昇るのを待つ。
足下には円形の図と、その中央に一本の棒が立っている。
「これは何じゃ?」
後をつけてきたのだろう、赤の童子神が足下を見て聞いた。
「赤様、今朝は早いのですね」
最近は赤の童子神様を赤様と呼んでいる。
昨夜コッソリと月神様の様子を覗いていたことは言わずにおいた。
「宝こそ、休まないで何をしておるのじゃ」
よほど気になるのだろう、話しながらも棒を見ている。
「これですか?これは日時計です」
私の説明に首を傾げる。
その時朝日が昇ってきたので、棒の影に印を付けながら、「日が昇るとこうして影が出来るでしょう。この影で時間を見るのです」と教える。
「そんな事をしなくても、寺の鐘が知らせてくれるではないか」
赤様がもっともなことを言う。
「そうなのですけが、どうも私が元いた時代の時間とこの時代の時間の進み方が違っているようなのです」
「どうしてそんな事が分るんじゃ」
怪訝そうな顔をされてしまった。
私は着物(作務衣)のポケットから携帯を取り出して、赤様に見せた。
「ここに時間が出ています。その少し上に日付が見えますか?」
この時代にこの数字は使われていないことを思い出した。読んで教えようと赤様をみたら、「ほう、便利な物じゃのう」と携帯を珍しそうに眺めて感心していた。
「便利なんですけど、この日付が四月になっているのです」
携帯の日付は四月十五日になっている。昨夜八月様がいらしたので、この時代では今日から八月になる。三ヶ月半進んでいる様に見えるが、向こうを発ったのは六月始め、ここに戻って来たのは十二月の終りだったので、半年程のズレがあった。この時代は十三月まで有ると考えても、携帯の日付は二月でなければいけないはずなのに、四月になっている。私がこの時代に来て八ヶ月の間に、二ヶ月のズレが生じていた。
携帯の日付が合っているとして、元の時代では四月になるらしい、もう高校二年生だ。
朔殿を十三月様に預けるのが一年五ヶ月先のことと考えると、元の世界では高校三年生になっている。朔殿を預けるまで一が見つからないときはもっと時間が掛ることになるのだろう。
これだけ時間にズレがあって、本当に帰れるのだろうかと心配になる。帰れたとして、浦島太郎状態はごめんだ。早く一を捜さないと・・・と焦りを感じた。
急に黙ってしまったからだろうか、赤様が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か、宝」
「はい、大丈夫ですよ。日時計を作ったのは、秋分の日に時を合わせて、どの程度違っているのか確かめようと思ったからで、深い意味はないんです。朝日も見たし、そろそろ戻りましょうか」赤様にそう答えて、畑に向かう道を降りて行った。
「こんな所に湧き水がある」
童子神が、道の脇にある小さな水場を見て言った。
それは石を敷き詰めた水場だった。大きさは縦横が五十センチくらいで深さが四十センチほどの箱形になっていた。どういう仕組みなのか解らないが、石の隙間から水が湧き出ているのに、水場以外の何処にも水は流れ出ていなかった。湧き出た水と同じ量何処かに吸収されているようだった。
「家の水はここから貰っているのですよ。ここでトマトや西瓜などを冷やして食べると美味しいですよ」
「そうか、じゃあ早速冷やし食べてみたいものだ」
食べ物の話しをすると赤様は嬉しそうな顔をした。
「後でトマトと西瓜を入れておきますね。昼過ぎには食べ頃になりますよ」
「楽しみじゃのう」とますます嬉しそうだ。
はいはいと笑って、水場から帰りかけた私を引き止めて、赤様は水場の横にあるベンチ状の石に腰掛けた。
「ところで、宝、少し話しておきたいことがある」
「何でしょう?」
急に改まった口調で話し掛けられたので、何事かと思っていると直親の事だった。
先日直親の父殿と右大臣の話しをしていた時に、私が疑問に思っていた事だった。
「直親が父親と右大臣の関係を話したがらなかっただろう」
「赤様は知っておられるのですか?」
「知っている。と言っても噂程度と思って聞いて欲しいが・・・」
「それでしたら、直親が話したくないことを、私は聞かない方が良いと思いますが」
「いや、宝は知っておいた方が良い」真剣な表情で赤様が言った。
「どうしてそう思われるのですか?」
「これから先、右大臣から父殿を通さずに、宝に直接話しが来たときに、断れなくなると困るからだ」
「右大臣殿から、直接話しが来ると思いますか?」
いささか考えすぎではないかと思ったが、赤様は「来る」と断言した。
「そんなに仰るなら、お聞きしておきますが、直親には内緒と言うことですよね」
「そうだ」
赤様の話はこうだった。
直親の父殿の母上は今の右大臣の父、先代の右大臣の末姫だった。今の右大臣とは兄妹になるらしい。
政はその頃も院が行っていて、天皇は飾り物でしかない子どもだった。この天皇に右大臣の二の姫が半年後に嫁ぐ予定になっていた。父殿の母上は二つ下の妹になる三の姫だった。
天皇と二の姫が会うときは、何故か三の姫も誘われて御所に遊びに行っていた。
そこで間違いが起きた。あろうことか、裳着も済ませてない三の姫が身籠もったのだ。三の姫の相手は誰かと大騒ぎになった。その相手は、二の姫ではなく三の姫と一緒になりたいと思われた天皇だった。天皇は一緒になりたいために裳着も済ませていない三の姫を身籠もらせたのだ。この三の姫の子が直親の父殿だった。
三の姫は子どもを産むのには幼すぎたのだろう、父殿を生むとすぐに亡くなったそうだ。父殿が生まれた頃には、二の姫は予定通り天皇に嫁いでいたが、妹の子を引き取ろうとしなかった。それはそうだろう、生まれたのは男の子だ。自分の子として引き取ったら次の天皇になるかも知れない。自分が産んだ子が天皇になれないと思ったら、引き取れなかったのだろう。父殿は右大臣の末の子として引き取られた。
その時の天皇は、今の院様だ。院様は亡くなった三の姫を本当に好いていたのだろう、父殿のことを常に気に掛けているらしい。それで、右大臣殿も父殿には強く言えないのだ。
これが直親の父殿の出自だと赤様は教えてくれた。
「だから、右大臣が宝に直接何か言ってきたら、父殿に相談してから返事をすると言うがいい。そう言われたら、右大臣と言えども拒否はできない」と赤様は言った。
私も右大臣から直接言われたら、私の身分では断れない。父殿の名前を出すことでそれを回避出来るなら、それに越したことはないと思ったので、赤様の話しを聞いて良かったと思った。
赤様に思ったことを素直に伝えたら、うん、うん、と嬉しそうに頷いた。
話しが終わり、赤様と一緒に家に戻った。
戸口で直親と会った。
「おはよう」と挨拶をすると、「まだ寝てなかったの?」と返って来た。
「私は若いから、一晩徹夜したくらい寝なくても平気だよ」と言うと、「私より年上なんだから、無理はしない方がいいと思うけど、宝が良いというならそれでもいいけど」といつも年下と言われているのを逆手に取って、半分嫌みを言われてしまった。
「それより、朝の支度もう少し待って」
私は入りかけた身体の向きを変えて、畑に向かった。
汁物に使う葉ものを少し採って戻ってくると、直親は竈に火を入れ、米を炊く用意を済ませていた。本当に良く出来た婿だ。やはり私の婿には勿体ないと思う。
朝食が終り、朔殿と少し遊んだ後、畑に行った。
赤様との約束どおり、西瓜とトマトを収穫して水飲み場に持って行き、たまり水の中に漬けた。
軽く眠気を感じたので、水飲み場の横の石に腰掛けてぼんやりしていると、畑の方から朔殿と直親の声が聞こえてきた。
水で顔を洗い眠気をはらうと、畑が見える場所まで下りていく。
直親が畑仕事の傍ら朔殿と遊んでいた。携帯を取り出して二人の写真を撮る。携帯の中にはたくさんの写真が入っている。全てコッソリ撮ったものだ。
朔殿が私を見つけて手を振った。私も手を振り返すと、携帯をしまい畑に向かった。
八月、九月、十月と何事も無く過ぎていった。
十一月のある日、何時もの様に市場に行くために、朔殿と直親と三人で都に降りていくと、昔の直親の家の前が騒がしかった。数人が屋敷の門の前で何やら話をしている。その中に賀茂冬晴殿を見つけた。
直親は冬晴殿に近づいて声を掛けた。
「先生、お久しぶりです」
冬晴殿が驚いて直親を見た。と言うより、私を見た。
「おお、宝殿、丁度良いところに」と私の側に寄ってきた。少し焦っているようだ。
「どうされたのですか?」
「今月の十五日に移徙を行うことに決まり、その前に屋敷の状態を見ておこうと来てみたら」
「来てみたら?」
「何か居るみたいなのです」
「えっ!」それは意外だった。
赤様に家の様子を伝えるため、都に来たときは必ず屋敷の中を確認していた。
「先週訪ねた時はそんな形跡は無かったですよ」
直親も驚いている。
「先週?」
「ええ、毎週、都に来る度に寄っていましたから間違いないです」
「では何が・・・」
門の前で話しをしていても仕方ないので、中に入ってみることにした。
一歩足を入れた途端、妙な気配を感じた。
「確かに何か居ますね」
この屋敷には結界を張っていたはずだ、と思いながら中に入って行く。
気配は寝殿の方から漂ってくる。
朔殿が直親の手を振り払って私に抱っこと寄ってきた。こんな時にと思いながらも朔殿を抱っこして、一歩一歩そっと近づく。私の後ろから同じように直親に冬晴殿とその従者達が一列で続く。
寝殿前の段を上り、几帳の隙間からそっと覗いてみると、妖しげな女人が一人横になっていた。妖しげだが美しい女人だった。
「これ、そこの人」近づいて声を掛ける。
女人の瞼がピクリと動いた。そして重たい瞼を半分ほど上げて私を見た。
女人はぼんやりとした口調で、「そなた、私が見えるのかえ」と聞いた。
「ええ、見えますよ」と私が答えると、「そうか、今は何時だい?」とまた聞いてきた。
「そろそろ昼時ですよ」と答えると、「もう、昼時!」と女人は慌てて目を覚ました。
「とてもお疲れのようですが、いったいどうされたのですか?」
女人は訝る様子も無く話し出した。
「昨夜、頼まれものを取りに東の方に出掛けた帰り道、変な気配を感じて、後をつけていたのですが、この辺りで見失ってしまいました。しばらく消えた気配を捜していると、何故か急に力が抜けて動けなくなってしまったのです。力が出せない状態では、先ほどの変な気配に襲われたら大変だと思い、泊まれるところを捜していると、この屋敷には結界が張って有ったので、安全と思い泊めて貰うことにしました」
「屋敷の結界が役に立ったのですね」
「この結界はそなたが?」
「はい、この結界に入れるものは限られております。入れて良かったですね」
「ええ、助かりました。それにしてもあの気配は何だったのでしょう?」
「この近くで見失ったのですね」
この女人からはかなりの妖力を感じる。この妖力を使えなくするほどの力を持った者がこの近くに居るのだろうか。
屋敷の回りに気を巡らせてみる。何の気配も感じられない。妖しげな気配を瞬時に消して、相手の妖力を奪う物が居る。私は薄ら寒いものを感じた。
「どうやら、お騒がせをしたようですね。一晩休んだら力も戻って来ました。そろそろ帰らないと、私も主から叱られます」
「あなたの主はどなたですか?」
「それは知らない方が良いでしょう。ここよりもずっと西にいらっしゃる方です。あなたが抱いているその子には分っていると思いますよ」と朔殿を見た。
朔殿が女人に笑顔を向けて頷き返すと、女人はにっこりと笑った。
そして、大きく伸びをすると「助かりました」と言って、西の方角に飛んでいった。
女人が立ち去ったのを確認して後ろを振り向くと、直親や冬晴殿達がポカンとした顔で私を見ていた。彼らには女人は見えていなかったらしい。
「冬晴殿、不法侵入者は去りました。どうぞ心置きなく渡りの準備を始めて下さい。そうそう、赤の童子神様にも伝えておきますね」
「では、十一月十五日戌の刻とお伝え下さい」と賀茂冬晴殿は言った。
冬晴殿と別れて市場に行った帰り道、「宝、あの屋敷で何があった」と直親が聞いてきた。
黙っていることでもないので、「女の人が一人休んでいた」と答えた。
「女の人?妖かしか?」
「綺麗な女の人だったよねえ、朔殿」と朔殿を見た。
朔殿は私の話を聞いてなかったのか、少し先の方を歩いていた行商人をじっと見ていた。
行商人?
朔殿が見ていた行商人から、微かに妖しげな気配を感じた。
私が見ていると感じたのか、行商人の妖しげな気配がスッと消えた。さっき感じた気配が消えた。どういうことだ?そういえば、あの女の人も突然気配が消えたと言っていた。都に何か起きているのだろうか。
急に胸騒ぎがして、直親に聞いてみる。
「直親、例の龍神の池はどうなっているか知っているか?」
「先ほど帰り際に気になったので、冬晴先生に尋ねてみたが、何も変化は無いと言っておられた」
これは鬼の仕業では無いのだろうか?
力が入っていたのだろう、朔殿が「手が痛い」と私の手を外して、直親と手を繋いだ。
朔殿はもう行商人に興味を示すことはなかった。