「声の替え玉」を探せ……? その③
思いがけず、A氏の元へツキがまわってきたのは翌日、放課後に自分の部屋でけたたましく鳴っている黒電話にとびかかり、茜からの電話へ出たときでありました。
「なに、そんな逸材が……? で、その子今どこに……でかした茜ちゃん、すぐ行くからお茶でも飲んでてくれっ」
例によって、A氏を気にかけて後をついてきた富士野は、エレベーターへ逆戻りし、最寄りの電停から通勤急行に飛び乗ったA氏の背後で肩をはずませ、どうしたんだい、と尋ねます。
「茜ちゃんの同級生に、すさまじい逸材がいるんだそうだ。これならいけるかもしれないっていうんで、ズンメルに留め置いてもらったよ。やっとこさ、友浦くんとの約束が果たせそうだ……」
四時過ぎの、程よく込みだした昭和通りを走る通勤急行の車内で、A氏は実に愉快そうな笑みを浮かべ、流れる車窓を眺めるのでした。
傘岡駅前の、大手通と昭和通が交差する巨大なクロス・ポイントの手前で電車を降りると、二人は大急ぎで電停を離れ、「ズンメル」のドアをくぐりました。
「やぁ、待たせちゃって――。この子が電話で言ってた子かい?」
窓辺に面したボックス席でサンデーをつついていた茜と、その隣にいる、少しばかり背の高い、ボブカットに切りそろえた髪の女子生徒へA氏が目線をやりながら座ると、茜は口元をナプキンで拭ってから、
「おなじクラスの若尾ひかるちゃんです。演劇とかの畑の人じゃないんだけど、特技が特技ならいけるんじゃないかなあ、って思ってきてもらいました。ヒカちゃん、この人がお昼に話した、わたしの将来の旦那様」
「わぁ、この人がエーさまなんですねぇ」
鈴でも転がしたような声のひかると、その隣に控えている得意げな顔の茜にジロジロと眺められ、A氏は困った表情を二人の前にさらします。
「で、中島さん、若尾さんの特技っていうのは……?」
富士野が助け舟を出すと、茜は紅茶を一口ふくんでから、声帯模写です、と答えました。
「声帯模写っていうと、物まねかぁ。エーさん、どうする?」
「フーム……」
演劇の畑ではない、という茜の言葉通りであったひかるを前に、A氏は腕を組んだまま眉毛を上下に動かしていましたが、ひとまず腕前を見ようじゃないか、ということで落ち着き、適当なネタを見せてもらうことになりました。
「それではお粗末ながら……。一本目は、お昼休みに中村さんのことをのろける茜ちゃん。――『ですからねぇ、わたしとエーさまは、幼稚園のころからのふかーい、ふかーい絆と、赤い糸で結ばれてるんですよぉ。それなのにエーさまったらつれないんだから、もー、やんなっちゃいますよぉ』……どうでしょうか?」
ひかるが一席やり終えぬうちに、A氏と富士野はお互いの顔を見合わせ、皿のようになった両の目を食い入るように眺めていました。日ごろ、いやというほど聞いている茜の声のトーン、抑揚、しぐさに至るまでが完璧に、それこそ「模写」を通り越して正確に描写されていたのですから、無理もない反応でありました。
「どうですかぁ、エーさま。越州女子学院の物まねクイーン、若尾ひかるには、まねできない女性の声はないんですよ」
「いやぁ、恐れ入った。でも、さすがに声質の違う人は難しいんじゃないかい? 例えば……そうだ、この声なんかどうだろう」
そういうと、A氏は学生服のポケットから携帯電話を取り出し、たまたまボイス・レコーダーに録ってあったというある人物の声を聴かせました。
『――だからな瑛の字、「レマゲン鉄橋」の一番いいシーンっていうのは、ロバート・ヴォーンの出てるとこ全部なんだよ。ほかならぬヴォーン・マニアであるあたしの言ってることが間違ってると思うんなら、そこのドスで腹ァかっさばいてもいいぜ。――ま、こいつは模造刀なんだがな』
何かの拍子でたまたまレコーダーが動いて、アンツルと喫茶店で話し込んでいたときの声が収められていたというこの録音を、ひかるは二、三度繰り返して流してもらってから、咳払いをして息を整え、A氏をじっと見つめながらこう返しました。
「それではお粗末ながら……『どうだい瑛の字、これでも似てないっていうんなら、あたしはこの場の支払い、全部立て替えちまったっていいんだぜ』……どうでしょうか?」
茜と似た系統の、やや舌足らずな地声とは真逆の、アンツルの低い声音がそっくりそのまま再現されているのには、さすがのA氏も驚いて、彼女の手を握ったまま立ち上がると、
「素晴らしいっ! ――若尾さん、あなたは僕らが探していた最高の逸材ですよっ。富士野くん、すぐに友浦くんへ連絡してくれ。アフレコはいつでも出来るぞ、って……!」
「わあー、エーさまがひかるちゃんとデキたぁ、わたしもう知りませんよぅ」
固く手を握りしめられ、まんざらでもないひかるを前に、茜は本気か冗談かわからない反応をみせていますが、約束を果たせそうだというので舞い上がっているA氏と、充電切れに気付いて、しぶしぶカウンターわきの公衆電話へと急ぐ富士野の目には、その様子は全然届いていないのでした。