脛に傷持つお二方…… その③
前日にあんな出来事のあったせいでろくに寝付けなかった富士野が、ようやく布団から這い出たのは正午を過ぎた頃の事でした。
うっすらと充血した目をこすり、冷蔵庫から出した朝の残りものへ手をつけようとしたときに、富士野は二階の部屋で、自分の携帯電話の鳴っているのに気づいてもしや、と階段を駆け上がりました。案の定、電話の主はA氏でした。
「――エーさん、おはよう。どうかしたの?」
『ありゃ、もしかして寝起きだった? そんなら出直すけど……』
「いいのいいの、起きてご飯にしようと思ったとこだったし。で、なにかあったの?」
長い付き合いで、彼の声の調子からどのようなことが起きたかだいたい察しのついていた富士野は、目を煌々と光らせて尋ねます。
『とーうとう、敵サンの尻尾をつかんだんだ。これで天地の息の根は……といいてえとこだが、ここをきちんと納めないと、まずい結果になりそうなんだ。ひとつそのことを相談したいから、三時過ぎにでもうちに来てほしいんだけど……どうだろう』
いよいよやったか! と、富士野は心の中で喝さいを送りました。昨夜の一幕から、どうも核心を突いたらしいとは思っていたのですが、どうやらそれは間違いではなかったようです。
ひとまず、三時に頓珍館へ向かう旨を約束すると、富士野は食事を済ませて身ぎれいにしてから、時間の来るのをじれったく待ち続けるのでした。
そして迎えた三時。意気揚々と頓珍館の三階へ向かった富士野は、玄関先に並んだ三足の女性もののシューズにあたりをつけて、ふすまの陰からそっと、
「や、お待たせ」
と、アンツルと茜、そしてひかるが囲んでいる客間のちゃぶ台のほうへにこやかな笑みを向けるのでした。
「あ、富士野さん。こんにちは」
「富士野さぁん、待ってましたよー」
「よぉ、やっと来たな富士やん。――おい、瑛の字、役者ァ揃ったぜ」
自分の隣に放り投げてあった座布団を家主のものの隣へ広げると、アンツルは富士野へそこに座るようすすめ、ガラスの器へアイスクリームを盛っていたA氏へ声をかけました。
「やあ、暑いとこご苦労さん。まあ、アイスでもなめてからにしようぜ」
強い日差しの中をやってきた富士野は、ハンカチで襟足の汗をぬぐいながら、そうしようか、と頷いて、きれいに磨き上げられたスプーンへ手を付けました。そして、しばらくの間、五人で他愛もない話をしていたところに、いきなりA氏がこんなことを言いだしました。
「――結論から言うとな、あっちもこっちと同じようなことしてたんだよ」
「――アアン?」
アンツルが本職のやくざのような声を上げたので、富士野とひかるなどはスプーンをくわえたまま、石のように固まってしまいました。
「おいおいアンツル、俱利伽羅節はよしてくれよな。――安心しな、こいつは取って食うようなことはしないから……」
「悪かったな。で、いったいそりゃあ、どういうわけなんだい」
「まぁ、ひとつこれを見てほしいんだがな……」
腰にゆわえた青いカフェエプロンのポケットを漁ると、A氏はそこからL判に焼いた三枚の写真をちゃぶ台の上に広げました。すると、そこに写っている二人の人物の様子を見て、ひかると富士野がひきつったような声を上げたではありませんか。
「――この人、映研の船見さんだ! どうして上田さんと?」
「――エーさん、これって上田さんじゃないの! どうして越州の学生と一緒にいるんだい」
「おい瑛の字、いったい何がどうなってるんだ。この二人が知ってるってことは……」
ひかると富士野の態度で何かに気付いたのか、アンツルも眉を引くつかせてA氏へ詰め寄りますが、とうのA氏は涼しげに、
「まぁ、そう急くなよ。ひとまずここは、今回の殊勲者である茜ちゃんに話をしてもらおうじゃないの……ひとつお願いしますよ、センセイ」
「えへんっ。ではでは、簡単にお話ししましょうねぇ」
と、いつの間にか隣へ来ていた許嫁・茜に話のかじ取りを任せるのでした。
「エーさまに頼まれて、しばらくの間映研の人たちの動向を見張っていたんですけどねぇ。ちょうど今日の朝方、事件はズンメルで起きたんですよぉ」
そこまで話し終えると、茜はA氏から借りたらしいICレコーダーをポシェットの中から出してちゃぶ台の上にのせ、再生ボタンを押してみせました。
『――ごめんねかおる、あんなショボい台本でやらせちゃって』
『しょうがないわよ。音割れしたまま出して、あんたのとこのグラサン姫にでもカミつかれたら面倒じゃない。で、結局バレてはないわけ?』
『それが全然。さすが舞台上がり、所作や画角にはうるさいくせに、音になると無頓着。おかげで差し替えや個々のセリフの音量の差、本人からはなんのお咎めもなしよ。あれで独立プロ気どりなんだから大した神経だよねぇ……あ、すいません、チョコサンデーお代わりで』
そこまでのやりとりを流してからレコーダーを止めると、茜はおほん、と咳ばらいをして、唖然とした顔の一座をにんまりとした目で見つめるのでした。
「そんなわけで、越州女子映研の音響担当である船見鏡花さんと、傘岡一高映画部の名女優、上田かおるさんのやり取りから、思いがけずに『赤いリボンの用心棒』内における吹き替えの存在が露見した訳なのです。あ、ついでに言うとこの二人、中学校の頃からの付き合いみたいですよ。この後にいろいろ、その辺の証拠も入ってますので、よかったらどうぞ」
「――もしかしてエーさん、上田さんが吹き替えたのって、駅のアナウンスの場面だったんじゃないかい」
茜が話し終わらぬうちに、たまりかねて富士野がA氏へ尋ねました。ここに至るまでの様々な出来事で薄々勘づいてはいたのですが、この録音が決定打となったようでした。
「どうもそういうことになるらしいぜ。さて、こうしてお互いがお互いの学生を使って、自分の学校以外の人間をキャストに加えて映画を作った、ということになると……どうなると思う?」
いつの間にかエプロンを脱いで、あぐらをかいて実に含みのある笑みを浮かべるA氏に、一同はどうって……と、返答に詰まってしまいました。
「一件だけならともかく、二件もあるとなれば……いろいろと信用問題にかかわりそうだねぇ。安藤さん、どう思います?」
「どうって富士やん、そりゃあ……あたしが審査委員会のお偉方だったら、場合によっちゃ、コンテストの今後も考え直さないといけねぇことになるだろうねぇ」
富士野とアンツルのやり取りに、茜やひかるも頷いてみせてから、今度はA氏が
「はたして、それだけで解決するかねぇ。ここにいる我々なんか、それを仕組んだ側でもあるんだから……」
「まさかエーさま、私たちにも飛び火するんですかぁ。そ、そんなのごめんですよぉ」
半泣きになる許嫁・茜が肩をゆらすのを見ると、A氏は困った顔でしばらく天井を見つめていましたが、やがて意を決して、こんなことを言ってみせるのでした。
「だからこそ、これから僕の話す、『最後の手段』を発動させる必要があるのさ。この方法がもしうまく行かなかったときは……」
「行かなかったときは……?」
「オイ、どうなるんだよ瑛の字。ハッキリしな」
もったいつけるA氏に富士野や茜が食い入らんばかりの視線をむけています。ことに、気の短いアンツルなどは目をぎょろつかせて彼をにらむ始末です。
「ま、その時はその時考えよう。ケセラセラ、だ」
「この野郎、もったいつけやがってそれかあっ」
あっという間にアンツルへコブラツイストをかけられて、A氏はしばらく畳をしきりに叩いていましたが、ほどなくして彼女の手足から逃れると、
「――まぁ、ひとまず、ここに集まった諸君らには、この最後の手段を実行するためにいろいろと協力をしてほしいってわけなのさ。大まかに言うと、こんな具合でな……?」
声の具合のひそやかになるのにつられて、A氏の声に富士野たちは耳をそばだてます。広い頓珍館の三階フラットの中には、ささやくような声のほかには、低い音を立てて回るクーラーのファンだけが、這うようにうなっているのでした。




