天災は忘れたころにやってくる……? その③
あくる日の午後、馴染みの喫茶店・ズンメルではなく、傘岡駅の東口にある伊右衛門という、名前に似合わずアメリカンスタイルの喫茶店で待ち合わせをすることにしたA氏と富士野は、先に店へと入り、奥まった場所にあるボックス席でレモネードをなめていた越州女子学院の映画研究会会長・天地智恵と、付き添いとして何食わぬ顔で――とは言いながらも、あまり血色はよくなかったのですが――隣に控え、アイスココアを飲んでいたひかるの向かいへ腰を下ろすなり、こう話を切り出しました。
「天地さん、若尾さんから電話でざっくりと事情は伺いましたが、いったい、どういうことをお探りすればいいんですかな?」
坊主頭の店主へ、慣れた調子でアイスコーヒーを二つ頼むと、A氏はこの暑いというのに、肩へ革ジャンを羽織り、青いサングラスをかけた目でこちらを見つめる、一見すると男子学生のようなベリーショートの天地へ、表情一つ変えずに話を振ります。
「中村氏、僕の気になっているのはたった一つきりですよ。あの『赤い憂鬱』の、上田かおるの声をあてているのは、本当に彼女なのか……ということです」
レモネードの中へ長スプーンを沈めながら、天地はサングラス越しにぎょろり、と両の目を動かします。
「若尾くんから事情を聴いて、ある程度はご存じのことと思いますが、僕たちの越州女子映研も、一高さんと同様、県の映画コンクールへ出品していましてね。残念ながら、何本かある奨励賞の中へまぎれただけで、テレビで放送されるそちらとはだいぶ扱いが違うのですがね」
「そういえば、新聞で読みましたよ。何と言いましたっけ、タイトルは……」
運ばれてきたアイスコーヒーへ、何も入れずに口をつけながらA氏が重ねて問います。
「『赤いリボンの用心棒』。はばかりながら、僕が監督主演を務めた作品です。正直、準備不足が祟ったのは否めませんが、代表が集まっての内覧会で、スクリーンいっぱいに上映されたのは大変に満足でしたよ。ところで……」
そこまで言うと、天地は細い右手をA氏の手へ寄せ、グラスをそっと、テーブルの上へ置かせます。
「僕はその席で、ちょっとばかり妙なものを見たのですよ。いや、正しくは聞いた、というべきか……?」
「妙なものを……」
「聞いたァ? それはいったい、どういうことでしょうかな」
富士野ともども、天地のサングラスを見つめながらA氏が尋ねると、スピーチの声ですよ、と彼女は襟足をちょっとなでてから、素っ気なく返します。
「県大会の表彰では、まず映画本編の上映をしてから、関係者によるあいさつがあるんですけどね。そこで当然、僕は上田かおるの演技と、会場でのスピーチという、素の声を聞くわけですが……どうも、その声のトーンがちょっとおかしい。――いや、似せてはいるが、まるで別人のような声だな、と僕は思ったのですよ。なにせ、同じようにマイクロホン越しの声を聞いているわけなんだから、違いは明らかです」
その指摘にA氏はハタ、と口元へ驚愕の表情をさしかけたのを必死に食い止めて、
「ほほう、そんなもんですか。僕ァどうも、そういうことには疎いから……」
と、そらとぼけた顔で、アイスコーヒーをすすりながら返します。
「ええ、あれは明らかに別人です。僕はそう思いますね。――本編の上田の声は澄んでいて清涼感があったが、会場にいた上田の声は、なんだか喉の奥に腫物でもあるような、ちょっと足でも引きずった感じでしたよ」
天地の言葉に、今度は富士野が顔色を変えましたが、慌ててA氏が彼の太ももをつねったので、富士野は愛想笑いにも似た苦笑いを浮かべるだけで、どうにか平静を保つことができたのでした。
「へえ、そいつはずいぶん具体的だなぁ。でも、僕にゃァちょっと信じがたいねぇ」
「おや、傘岡にA氏あり、と呼ばれる快刀乱麻の人情家、キーパーソンの中村さんからそんな言葉が出るとは……ちょっと意外ですね」
サングラスを外し、シャツの胸ポケットへ押し込んだ天地は、テーブルに頬杖を突いたまま、身を乗り出してA氏の両の目を見つめます。
これですっかり逃げ場をなくしたかと思われたA氏でしたが、ひるむことなく、客観的な証拠がないもんねぇ、と、実にあっけからかんとした口ぶりで対応するのでした。
「当日の現場の録音と、映画本編の録音でもなければ、うまいことはいかないでしょうな。天地さん一人の主観だけじゃ、ちょっと弱すぎますわな」
「――へえ、それじゃ、その証拠が来週には出てくる、といったらどうします? 県域のローカル放送ですが、NHKで『赤い憂鬱』が高校生の撮った映画として放映されるのですよ」
「ほほう、そいつは知らなんだ……」
アイスコーヒーの中の氷が溶けて、かちん、とはじける音がしたのを合図に、天地がそっと元の位置へ収まると、A氏はグラスをわきへ追いやり、足を組みなおします。
「おそらく、その証拠を目の当たりにすればA氏、君だってきっと、自分の学校の映画部が何か後ろ暗いことを企んでいるのだと、考えざるを得ないだろうさ」
「へえ、なかなかに愉快な話だな。人情家A氏、母校の陰謀に立ち向かう、か……」
そこまで聞くと、A氏はグラスからストローを抜いて一息に中身を飲み干してから、テーブルの隅に置かれた伝票を取って、
「――まあ、ひとつ考えておきましょう。もし変なことがあったのだとしたら、それなりに考えはあるつもりですから」
と、富士野を伴い、レジスター脇から高倉のほうへと声を張りました。天地はひかるを伴って席を立ち、勘定を終えたA氏と一緒に表へ出ると、踵を返してこう言い放ちました。
「ほかならぬ好事家趣味の君のことだ、好きなものへケチがつくなんて、そんなことは嫌だろう。ひとつ、僕たち映画好きのためにと思って、よろしく頼みますよ。じゃあ、ごちそうさま――」
「なに、お安い御用さ。じゃ、またそのうちに……」
と、いったんはそこで、思い思いの方向へ別れた四人でしたが、前もって打ち合わせてあった通り、傘岡一高にほど近いパン屋・高倉堂の小さなカフェテリアへ集合すると、A氏と富士野、ひかるは、天地のカンの鋭いのに驚きながら、店の名物である菓子パンを、おまけとして添えられたミルクコーヒー片手にぱくつき、疲れをいやすのでした。
「いやあ、えらいことになったねぇ。彼女、ほとんど真相に近づいてるよ」
「――まさか、隣にいる知り合いの知り合いが、その替え玉の主とは気づかなかったみたいだけどねぇ」
富士野の指摘に、ひかるが軽くのどへパンをひっかけたのを水で飲み込んでから、
「わたし、生きた心地がしませんでしたよぉ。天地さん、もしかしたら本当はわたしたちのことをわかってて、わざとあんな話をしてるんじゃないかって……」
と、今にも泣きだしそうな表情で、A氏と富士野を見つめます。
「わかる、あんな瞳で見つめられちゃ、たまったもんじゃないぜ。しかし、茜ちゃんから聞いた通りの逸材だったなぁ。演劇部から離脱して、自分で映研なんか作る……それだけの行動力に、あれほどの眼力、立ち居振る舞い。上田なんか目じゃあないよ」
「ほんとだねぇ。それよりエーさん、これからどうするの? テレビにかかるまでは時間がないけど……」
ドーナツを二つに割りながら、富士野がちょっと困った顔をしてみせますと、A氏は腕を組んで、
「――ここでもし、録画なんかされて、声紋鑑定なんかされてみろ。あっという間に、傘岡一高の悪名が津々浦々に広まるぞ。なんとしても、それだけは避けねばならないが……」
と、悪意にも、はたまた善意とも見えない、実にぼんやりした目で、天井のシミを見つめるきりなのでした。
天災は忘れたころにやってくる、というのは、このことのようです。




