天災は忘れたころにやってくる……? その①
そのうちにあれよあれよと季節は過ぎて、太陽の出ない日はない、傘岡の盆地特有の蒸した暑さが襲う夏休みがA氏や富士野のもとへとやってきました。
七月頭の期末試験が済んでからというもの、球技大会や社会科見学などで忙しくしていたA氏は、自分の好きなようにまわれない鬱陶しさの数々から解放されるこの期間を、実に自由気ままな装いで楽しむつもりでしたが、家の中でのんびり読書三昧、映画三昧と決め込みたいのを知ってか、
「エーさまぁ、せっかくの夏休みなんですから、たまには外に出ないとビョウキになりますよぉ」
という、許嫁の茜の誘いを断り切れず、富士野やアンツルともども、武蔵川端の浄水場と、青い屋根をした上水タンクのすそ野へある市民プールにやってきたA氏は、割り勘で借りてきた大きなビーチパラソルの下で、流れるプールでのんびり浮き輪にはまって遊んでいる茜の様子を見つつ、ビニールシートの上でアイスキャンデーをなめなめ、高くあがった太陽を疎ましげににらんでいるのでした。
「――そう陰気な顔すんなよ瑛の字、ここだけ梅雨が明けてないみたいじゃないか」
大きなつばの麦わら帽子と、縞のビキニにデニムのショートパンツといういでたちのアンツルがかき氷片手に悪友の神経をつつくと、どこの店で買ったのか、唐草模様の青いサーフパンツを履いたA氏は彼女を一べつしてから、
「いいんだよ、ここだけ梅雨のままのほうが、外へ出なくて気楽でいいし……ねぇ?」
と、無料貸し出しの手押しポンプでビーチボールを膨らましていた、富士野へ話を投げます。もっとも、空気を入れるのに夢中だった富士野は半分程度しか話を聞いておらず、エーさん、どうかしたの? と、実に邪気のない笑顔をむけるきりで、A氏の狙いはすっかり外れてしまったのでした。
「ちきしょー、今日に限って援軍なしか……。せめて一人ぐらい、映画にでも誘ってくれる人がいればよかったんだが……」
「だめですよぉ、エーさまぁ。たまにはこうして、大いに日の光を浴びないとぉ……」
「あら茜ちゃん、戻ってたの……」
背丈より大きな径の浮き輪を引きずって現れた、フリルのついた深緑のワンピース水着の許嫁に気付くと、A氏は持参していた魔法瓶の中の麦茶を紙コップへ入れ、汗とプールの水に濡れた茜へとすすめました。
「――はあ、生き返りますねぇ」
小さなコップの中身を飲み干すと、A氏の隣へぴったりとつくような距離で腰を下ろした茜は、次はどこへ行こうかと、わりに大きな市民プールの中を見渡します。
「次はウォータースライダーですかねぇ。千鶴ちゃん、一緒にいきませんかぁ」
「いいけど茜ちゃん、あんまり勢いよくすべるとあなたなんか特にちっこいから、川まで投げられちゃうかもしれないけど、大丈夫そう?」
「もー、千鶴ちゃんってば、またそうやってからかうぅ」
誘われた千鶴は、ちょっと毒のある返事をしながら、むくれる茜の頬を人差し指でつつき、にやりと笑ってみせます。そこへすかさず、A氏も応戦して茜をからかいだしましたが、
「アンツル、それはちょっとヒドすぎるぜ。まあしかし、ない話では――イタタタタッ」
「エーさまぁ、あんまりお口がすぎると、私も考えがありますよぉ」
合気道初段の、見かけによらず力の強い茜に利き腕をねじられ、笑っていない目で見つめられてはさすがのA氏もたまりません。空いた左手でギブアップ、としきりにビニールをはたくと、きちんと正座をして、許嫁に詫びを入れるのでした。
「申し訳ありませんでした……」
まだ右腕が痛むのか、どことなくぎこちない手つきのままでA氏が頭を下げると、茜は一転、満面の笑みでA氏の頭を撫でまわしてから、
「わかればよろしいのです。じゃ、気を取り直してスライダーいきましょうかぁ」
「結局そうなるのね……」
と、苦笑いをするアンツルと率い、富士野を荷物番にして、ウォータースライダーへと向かうのでした。
「おやぁ……?」
思いがけず、A氏が見知った顔へ出くわしたのは、スライダーへ続く長い列が一メートルほど先に迫ったときでした。最後尾に並んでいる一組の男女の横顔に覚えのあったA氏は、アンツルと茜をおいて、一足先にそちらへ向かいました。
「あ、やっぱりそうだったか――」
「なんだA氏、家で読書三昧じゃなかったのかい」
呼びかけに振り返り、A氏がプールにいると思っていなかったのか、ひどく驚いた顔をして見せたのは、短い丈のサーフパンツを履いた友浦と、面積のずいぶん少ない、真っ白いビキニを着た上田でした。
「あら、中村くんじゃない。こんなとこで会うなんて、面白い偶然もあったもんね」
あれから数か月、すっかり声も治って、けろりとした様子で自分をみやる上田に、まぁ、そういうこともあるでしょぉ、とA氏も素っ気なく返します。
「それより、お礼が遅くなってごめんなさい。――『赤い憂鬱』ではお世話になったわ。おかげで賞ももらえたし……」
「なに、賞を……? どういうこったい友浦くん」
上田の思いがけない言葉に驚いたA氏は、サーフパンツのポケットへ手を入れていた友浦へ目を向けます。
「う、上田さん、まだオフレコだって言ったじゃないの」
「いいじゃないカントク、どうせお盆前の登校日に大々的に話が出るんだし、中村くんならベラベラしゃべりはしないだろうから……そうでしょう? 中村くん」
上田の妖しげな目つきにまごつきながら、A氏は会津土産の赤べこのようにカクカクと首を振り、もちろん、と返します。
「まあ、詳しいことはそのうちわかると思うから、今はよしとくわ。ほら、お連れさんたちも追いかけてきたし……」
すっかりアンツルと茜のことを忘れていたA氏は、慌てて二人の元へ戻り、ちょっと知り合いがいてさ、と簡単に話してから元のあたりを指さしましたが、すでに先へ進んでいた二人は、影も形もありませんでした。
「――ありゃあ、先にスライダーにいったか」
乗り場へ向かう黒山の人だかりを、A氏は目を皿にして探しましたが、あの派手な白いビキニはどこにも見当たりません。
「別になんでもいいけどさぁ瑛の字、この炎天下、可愛い彼女をあんまし待たせるのはよかねぇと思うねぇ」
「エーさまぁ、あとでアイスおごってくだしゃーい……溶けちゃいますぅ」
すっかりヘロヘロになった茜を見ると、A氏はごめんよぉ、と詫びを入れてから、彼女の手を引いて、少しばかり冷気が漂ってくる、スライダーの乗り場の列へと向かうのでした。
夕方になり、アンツルに茜を任せて、富士野とプールを出たA氏は、彼を馴染みの中華料理店へ誘い、よく酸味の効いた冷やし中華をたぐりながら、昼間の出来事を語ってみせました。
「へえ、そんなことがあったの」
「そうなんだよ。完成した本編がコンクールへ出されたのが五月の連休明け。で、そっから指折り三か月……。すっかり記憶から抜けてて、てっきりオチたもんかとばかり思っていたぜ」
皿の隅に添えられたからしをたれで溶き、A氏は刻んだチャーシューをからめてから麺をぞろり、とすすり、割りばしの先を宙で回します。
「あれからまた、いろいろあって忙しかったもんねぇ。にしても、いったいどんな賞をもらったんだろう」
「さあねえ。おおかたアフレコを用いた技術賞か、はたまた、ジャズ研呼んで吹き込んだ劇伴への作曲賞か……。なんにせよ、割合ベタな中身なんだからそこまでの賞はもらえないような気がするけどなぁ」
「そうかも……しれないねぇ」
座敷の上に六つばかり置かれた座卓を囲み、皿の冷やし中華をたぐっていた二人は、すっかり手を止めて黙り込んでしまいました。なんだか、この一件について触れるのが憚られるような、それでいて放っておくのもなんだか……という、複雑な心境に置かれていたのが主な原因でした。
「――いかんいかん、プールのあとの楽しい晩飯がオジャンになってしまう。この話はよそう、どのみち、登校日にはわかるんだし……」
そういって、ふたたび麺へ手をつけると、A氏は黙々と、皿と口元の間へ箸を往復させるのでした。つられて富士野も、おっとり刀で箸を動かしだすと、よその席へ運ばれる餃子の焼ける音といっしょに、二つの箸遣いが店の中へこだましだすのでした。




