最期の詞。
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身に纏っていたはずの服は、最早視界の隅に写る布切れへと変わってしまった。
口応えをする度に殴られ、口内に広がる鉄の味も、次第によくわからなくなっていき、今では何も感じなくなった。
抵抗しようとした際に右腕を折られ、それも最初は痛みで声を上げたが、煩いと殴られ声を上げなくなった。
がむしゃらに自分を欲するリンドーに対し、最早何も感じなくなってきた頃。何も反応を示さなくなった自分を嬉しげに見下ろし、
「今からが本番だろう?もっと我輩に噛みついてみせるがいい!」
微かに動く首でリンドーを見る。初めて見る生々しいそれに、ルエは一気に血の気が引いていき、弱々しくも首を振って拒絶の意を示す。
「や、めて……くださ、い」
「まだ言うか!そんなに殴られたいか!?」
リンドーは嬉々としてルエの首に手を回し、ゆっくりと力を込めていく。
「ぅ……ぁ……」
「いいねぇいいねぇ!きっといいんだろうなぁ最高だよぉ!」
苦しさで視界でぼやけ、息もままならなくなり、それでもルエは必死で言葉を、その名を形にしようと息を発しようとする。
「ぁ……ゃ……ん……」
「なんだいなんだい?聞いてあげるよ?」
「ハ、ヤ……ト……く」
「君ぃ」
穏やかだったリンドーの顔が再び歪んでいき、首から手を離すとルエの左耳に平手打ちをする。それはルエの頭の中まで響き、視界を一瞬にして白く染めていく。
「ぁ……」
飛ばしそうになる意識をかろうじて繋ぎ止める。ルエはリンドーを見ようとするが、視界はぼやけたままで、音も酷く聞き取り辛い。リンドーの口が何かを言っているが、それすら上手く聞き取れず。
しかし慌てた様子のリンドーは、ルエから離れると、立ったままの兵に駆け寄っていった。それをゆっくりと目で追うと、氷漬けにされた兵の姿が見え、ルエは安堵の表情を浮かべる。
彼が来たのだ、きっと。
自分を後ろから優しく抱き起こす手は暖かく、しかしいつもより小さいことに疑問を持ち振り向こうとして。
「動かないで?怪我、酷いから。水の詞、4の章。生命の囁きよ、我が声に応え灯を導け」
その優しい声は彼ではなく。
「あの時、の……」
「ごめんね。今の私では、貴方を治しきることは出来ないみたい」
彼と同じ髪色の彼女は優しくルエに笑いかけ、羽織を脱ぐとルエに被せた。
「アリアっ、どうやってっ、なんでっ」
怒りからか上手く言葉が出ないリンドーを可笑しそうに笑い、彼女、アリアはルエを庇うように間に立つ。アリアの足元から漂う冷気は、見間違えなどではないのだろう。
「だって私、神柱だもの」
当たり前と言わんばかりに自信に溢れ、アリアはくるくると回ってみせる。それは余裕に満ち溢れているようだが、ルエは知っていた。その笑みが少し曇っていることに。
「何が何が何が何が神柱だ!大人しく従えばいいんだ!」
地団駄を踏むリンドーは、まるで我儘を言う子供だ。アリアはあまり興味がなさそうで、伸びをひとつし、
「私、子供の相手はあまり慣れてないの。だから、早く大人になろうね」
「この……我輩を、馬鹿にするつもりか……!」
「うん」
そう薄い笑みを浮かべたアリアに腹を立て、リンドーは血眼になってアリアを、ルエを睨みつける。羽織を小さく握り締め、ルエはアリアに呼びかける。
「ア、アリアさん。早く逃げて下さい!」
「うん。ありがとう。でも無理なの」
背中を向けて放たれた言葉からは、アリアの心情を読み取ることはできず。凛とした佇まいは、全てを流してしまいそうな、静かな空気を作り出している。
それは一瞬だ。
リンドーがアリアの首に手刀を払う。それを寸でのところで凍らせて止め、アリアはその手を掴む。掴んだ箇所から凍っていき、リンドーは舌打ちと共に氷を力づくで割ると再び距離を取った。
「アリア!わかる、わかるぞ!貴様、我輩の力を抑えつけてるな!それでは満足に術も使えまい!」
「……」
肯定も否定もしないが、ルエにはそれが肯定だとわかった。彼と同じ術を紡いでも同じ効果はでず、そして先程からアリアの顔色が悪くなってきている。
「アリアさん、私に構わず早く……!」
それまで黙っていたアリアが苦笑し、そして両手を前に広げる。
「昔、同じことを誰かに言ったんだけどね。私、自分より弱い人に守ってもらうつもりなんてないの。せめて私より強くなってから言おうね」
広げた両手から青い光が溢れていく。
それは瞬く間に手から零れ足元に広がっていき、床を埋め尽くしていく。光はまるでシャボン玉のようで、その虹色に光る玉をルエはぼんやりと見つめる。
「なんだこれは……。離れない!?」
リンドーの足に、重りのようにそれらはまとわりついていく。す、と目を細めたアリアの口から、詞のような言葉が紡がれていく。
「水の詞、終の章。月下へ渡る永久の、在りし有りして氷面鏡。冷たき息吹は誰が為。咲きし銀花は我が為。果てへと続き、風花と舞え」
アリアを中心に氷の粒が舞い始め、それらは時が止まったかのように、その動きをぴたりと止める。誰しもがその幻想的な光景に目を奪われ、そしてそれらは無数の刃へと形を変えていく。動くのさえ忘れるほど美しいそれらは、リンドーに狙いを定め。
「う、おおおお!」
全身で浴びるようにしてそれらを受け止めたリンドーは、刃が貫いた部分から凍り始め、そして全身がその形のままで動きを止めた。全てが凍るとヒビがあっという間に入り、リンドーは粉々に砕け散っていく。
唖然とするルエを振り返ったアリアは「ね?」と笑みを見せる。頷くのも忘れ、ルエはただ羽織の端を強く握るだけだ。
「じゃあ、ちゃんとそれ、着ようか。傷痕、残っちゃうかもね」
そう言って優しく手を伸ばすアリアの背後に。
黒い瞳の入った氷塊が見え。
「アリアさん!」
「え?」
その氷塊はアリアの胸を貫いた。
「アリアさん!アリアさん!」
倒れたアリアの胸からドス黒い血が流れていく。その血はアリアを呑み込むように包み込んでいき、やがてその顔はアリアではなく、リンドーのものへと変化していく。
「ぁ……ぁ……」
身体も変化していき、やがてそれは完全にリンドーへと姿を変えると、座り込み震えたままのルエに笑いかけた。
「やぁ、驚いたかな?これで邪魔者はいなくなったね」
「あああああ……!アリアさんっ!」
アリアの名前を呼び続けるルエに苛立ち、リンドーは再びルエの頬を殴りつけ、頭上からその小さな体を冷たく見下ろす。そこには、アリアの面影は見られない。
ルエは殴られた頬を押さえ、涙を溜めながらもリンドーを負けじと睨み返す。その瞳に憎悪が滲むのを見、リンドーは湧き上がる興奮を覚えた。
「その目だその目!さぁ早く続きをやろう!」
リンドーはルエを組み敷こうとルエの腕を押さえつける。
「いやあ!はなして!」
声が枯れるほどにリンドーに言葉を浴びせた時。
勢いよく出入口の扉が開き。
「ハヤ、ト、くん……」
静かな怒りを湛えた彼が、立っていた。




