月、穢れ。
※
「ルーちゃん!」
軒先で空を見上げていたルエは、聞き慣れた声に立ち上がり、向かってくる人影に手を振った。見慣れない茶髪を揺らし走ってきたゼロは、ルエを強く抱き締めると、やっと安心したのか頬が少し緩む。
「ごめんなさい、ゼロ。でもどうして……」
遅れて着いたハヤトが、緊張した面持ちで辺りを見渡す。誰かを探すような仕草に、ルエは先程の彼女を思い出し、ゼロの腕から出ると、ハヤトを心配そうに見上げた。
「ハヤトくん?もしかして、あの人を探してます?」
あの人、にハヤトの顔が暗くなる。
「誰と会った?」
「えっと、ハヤトくんと同じ髪で……。あ、イヤリングしてました、水色の」
そう言ってルエが自分の耳を示すと、ハヤトは信じられないとばかりに首を振った。いや、信じたくないとでも言いたげな表情は、それだけでゼロが察するには十分で。
「お袋さん、なんだな?」
確認より、それは確信に近い。ハヤトは何も返さないが、それはほぼ肯定とも取れるものだった。
「で、でもハヤトくんの母様は……」
亡くなったと聞いている。いや、最近東で噂になっているのは正にそれではないかと、ルエも確信を持ったのか、それ以上は何も言えなかった。
次第に通りに人が増える。呼子の声が賑やかさを取り戻し、子供たちが駆けてはどこかに消えていく。
「まぁ、はぐれない内に馬車捕まえようぜ」
今度ははぐれないようにと、ゼロがルエの手を握る。近くを通りかかった荷馬車を捕まえると、行き先を伝え、ゼロはハヤトを振り返る。
「考えると動けなくなる。それでも考えちまうなら、黙って見とけよ」
ハヤトは一瞬迷う素振りを見せたが、すぐに2人と共に荷馬車に乗り込んだ。荷物の隅に丸くなりながら。
※
暗闇の中、ただひとつだけ揺れる炎をぼんやり見つめ、青髪の女は小さく何かを呟いた。祈りを捧げるように組んだ手からは、もう何も零れてはこない。
「我輩の結界から魂だけの状態で外に出るとは……。さすが神柱、アリア」
アリアと呼ばれた青髪の女は、組んだ手から視線を外すと、暗闇から語りかけてきた何かに視線を投げる。無気力な瞳は、何かに対してさほど興味がないとでも言いたげに、また組んだ手に戻される。
その仕草に苛立ちを隠せず、何かは暗闇から姿を表す。白衣を着た黒髪の20代半ばに見える若者は、アリアの顎に手をやると、無理矢理に視線を合わせるように顔を上げさせる。
「やけに余裕だな。我輩を苛つかせる天才か?」
「言葉にしなければわからない?賢くないと言われない?」
「こんのっ、アマァ!」
若者はアリアの顔を力任せに殴りつける。羽のようにアリアの身体は飛び、床に強く叩きつけられた。馬乗りになると、そのまま若者はアリアを殴り続け、その顔の原型が無くなった頃。
「おおっと、すまないアリア。すぐに治そう」
若者がアリアの顔を両手で包み込むように触れると、小さな時計が現れ、進んでいた針を戻していく。先程までの形が嘘のように元に戻り、アリアの澄ました表情が見えてくる。
「すごいだろ、これが我輩の成果だよ!」
興奮を抑えられないのか、若者は馬乗りになったまま、今度はアリアの細い首に手をやり力を込めていく。苦しいはずだが、それでもアリアの表情は何も歪むことはない。
鈍い音と共に、アリアの首がだらりと折れる。しかし若者は慌てるでもなく、再び時計を発現させ、またアリアを元の形に戻していく。
「ところでアリア、何度も死ぬってどんな感じだい?折角、他の神柱を使ってまで完成させたんだ。早く感想を聞かせておくれ」
立ち上がった若者の下腹部の膨らみは、猛る興奮を抑えられないのを表しているかのようで。性癖を象徴するかのようなそれを、アリアは一瞬視界に入れ、
「好きの反対は、興味がないことだって、昔誰かに教えてもらったの。そういうことよ」
アリアの言葉に、若者の表情はみるみる内に怒りに染まっていく。
「貴様は!我輩が!生かしてやってるんだぞ!」
若者は、アリアの腹を、顔を、腕を踏みつけていく。潰れた蛙のように変形しては、またアリアは戻っていく。
「そうやって、罰を背負わせて、貴方は神に背いていくのね。他の神柱たちが、助けてとずっと泣いているわ」
倒れたまま、アリアがある場所に視線をやる。
巨大な四角のそれは、透明で中が見えるようになっている。黒い液体に満たされたその中に入っている3人は、もう殆ど人の形を保てず、半分は液体と同化するように溶けてしまっている。
「助けてだって?我輩はあの地獄から救ってやったのだ!元素も!こうやって!元に戻せばいい!」
「救う?傲慢で勝手な考えね」
「黙れ!」
「……っ」
若者の手がアリアの胸を貫く。鼓動を刻むそれを取り出され、アリアの額に脂汗が滲んだ。
「いい表情だ、アリア。あぁ、そうだ。言うことをこれ以上聞かないなら、もう身体の中に直接教えるしかないな」
「な、に、を……」
若者は不気味に笑い。
鼓動を刻むそれに、指を1本深く入れ。
水に愛された彼女の中に、異物を送り込んだ。
「やぁ……!」
びくんと震える彼女を愉快げに見下ろし、黒く染まったそれをまた中へと戻す。時計にヒビが入り、そしてそれは儚く散っていった。
「やっぱり無理なのか。生じた事象をそのままに、元には戻せない、と」
悲鳴を上げ続けるアリアには目もくれず、若者は液体の入ったそれを満足げに撫でる。
「父上、母上、貴方がたのお陰で、我輩は高みへといけそうです」
暗闇に響く高笑いと、悲しい悲鳴は、清き水を黒く染めていくそれのようだった。




