しかしそれは意味を持たずに、
商業区を抜け居住区に入る少し手前、野菜が並ぶ店の軒先で、ハヤトは見慣れた少女が立ち止まっているのを見かけた。店主と楽しげに会話している姿に、自然と頬が緩む。
しかし、もうすぐ日も落ちるというのに、一体彼女は何をしているのかとも不安になる。いくらここの民たちが穏やかだからといって、全員がそうなわけではない。特に、彼女がもう王族ではないとしても、その価値を利用しようとする輩はいるわけで。
こうして他人と話しているのを見ていると、確かに気が気ではない。白髪の番犬の気持ちが、今この時だけはわかったような気がした。
ため息をひとつ零す。
後ろに並んで立つと、彼女と店主の会話が耳に入ってきた。
「いやほんとに!ルエちゃん可愛いからさ、うちの息子の嫁さんになっちゃくれねぇかい?」
「いえ、私は」
「ルエちゃん来てくれたら、お店も華やかになるんだけどな!」
楽しげに、は前言撤回する。
盛り上がっているのは店主だけで、ルエは困り顔で狼狽えているだけだ。こんなことなら早く助けに入るべきだった。
「おい店主……」
「ルエちゃんなら、夜の相手にも不足ないし!おじちゃんも嬉しいなぁ!」
ガン!
目の前のテーブルに、思い切り銅貨を叩きつけてやると、店主はやっと気づいたようにハヤトに視線を向け。そして固まった。
「あー……ハヤト様ではないですかー……。あはは、あ!ルエちゃん、これオマケしとくよ!またおいで!」
そそくさとルエに紙袋を渡し、店主は「仕事仕事ー」と奥へと引っ込んでしまった。文句のひとつくらいは言いたかったが、行ってしまったものはどうしようもない。隣を見れば、紙袋を重たげに持つルエと視線が合わさり、少し気まずさを感じる。
「……それ、重くないか?」
「あ、はい、大丈夫です」
「そうか」
ふいと先に歩きだしたが、振り返ると、やはり重そうに歩くルエが。よく見れば、華奢な腕には、これまた重そうな袋がぶら下がっており、柔い肌にしっかりと食い込んでいる。
ハヤトは少し考え、罰が悪そうにルエに近づくと、片手で紙袋を持ってやる。空いたもう片方を「ん」と差し出すと、ルエは不思議がりながらも、おずおずと握ってきた。
「違う、そうじゃない」
「え?あ!ごめんなさい!」
ルエは顔を真っ赤にし、それから慌てて袋をハヤトに手渡す。恥ずかしさから俯く彼女の表情はよく見えないが、耳まで赤いことから察するに、相当恥ずかしかったに違いない。
見ないことにし、ハヤトはまた背を向け歩きだす。少し後ろを見ると、俯いたままでついてくるルエの姿が。まぁ、家までには落ち着くだろうと、ハヤトはあまり気にしないことにした。
居住区に入ると、そこらじゅうの家からいい香りが漂ってくる。ここはシチューか、あぁこっちは肉でも焼いているのかと思いを馳せつつ、遠目に見えてきた家へと急ぐ。
穏やかとも言える光景に、そぐわない叫びが聞こえてきたのは、わりとすぐだった。
「助けてー!」
ハヤトたちの正面から、大慌てで走ってくる男が。人影を追いかけているのは、人形の紙切れだ。しかも大量の。その紙切れは、逃げてくる男にまとまりついて、体に無数の切り傷を負わせていく。
もちろん、居住区内に、この現状をどうにか出来るような人物はいるはずもなく、どこの家の扉も開かれることはない。ハヤトもまた、両手が塞がっている今の状態では、為す術もないのだが。
しかしこれでは困る。明らかにこちらに向かってくるし、このままではルエが危ない。だからといって、食料品を地面に置くのもはばかられる。手が使えなければ、腰にさげた銃型の神機も、神術も使えないではないか。
考えあぐねているハヤトの横を、突如風が吹き抜けていった。風が抜ける瞬間、見慣れた白髪が揺れていく。
白髪碧眼の少年は、ハヤトたちと男の間に立つと、腰から下げた剣を構えると同時に、凛とした言葉を口から紡ぐ。
「吼えろ、業炎!怒りを我が手に!」
刃が紅く染まり、瞬く間に炎で包まれていく。
少年は地面を蹴り、逃げてくる男とすれ違い様、大量の紙切れに向かって剣を薙ぎ払った。炎はそれらを火の粉へと変えると、何事もなかったかのように灰へと戻す。灰が舞う中、少年は尻もちをついた男に手を伸ばす。
「大丈夫かー?生きてるかー?」
男は少年の髪と瞳を見ると、差し出された手を慌てて払い除けると、小さな悲鳴と共に駆け出していった。虚しく漂う手に、少年は少し悲しげに睫毛を伏せる。
「ゼロ、これ」
その手に紙袋を乗せてやる。正直、重かったのでこの手は助かる。ゼロと呼ばれた白髪の少年は、剣を戻しつつ苦笑する。
「タイミングいいだろ、オレの手」
「私はいつも助かってますよ」
ゼロの隣に並んだルエがふわりと笑う。早くしろと言わんばかりに、ハヤトは2人に背を向けると、空いた手で鍵を取り出した。