解除された自動操縦システム
機長と副操縦士は、いつも通りの離陸前の簡単なチェックを済ませると、後は自動操縦システムに全てを委ねた。
定刻になると、その機は自動的に動き始め、決められた滑走路の末端まで行くと直ちに助走を開始し、あっと言う間に大空に飛び立った。そして、予定の巡航高度二万四千フィートで水平飛行に移ると目的地に向かって正確に飛行を続けた。
機長も副操縦士も黙っていた。
飛行は自動操縦システムに任されている。彼らには何もすることがなかった。いや、正確には、通常の運行下では何もしてはいけないことになっていた。
全ては自動操縦システムによってコントロールされているので、パイロットが飛行中に操縦したり、計器に触ったりすることは厳に禁じられていたのである。
唯一、パイロットが操縦して良いのは、自動操縦システムでは回避できないような危険な状況に直面した緊急時のみであった。
しかし、自動操縦システムでは回避できないような緊急時とは、どの様な場合を指すのか誰も分からなかった。
高性能のコンピュータと高度なセンシングシステムで構築された自動操縦システムで回避できないような緊急時において、果たして人間が操縦したところでさらに危険が増すことはあっても、とても回避できるとは思えなかった。
それでは、なぜパイロットを搭乗させているのかと言うと、これまでの慣習であった。
乗客の中には、パイロットが乗っていないと心配だ。機械は信用できない。少々運賃が高くてもパイロットが乗っている飛行機に乗りたい。などと言う人々がいたことも事実ではあるが、最大の理由はパイロット側の生活権のためであった。
自動操縦システムの円滑な導入のために、航空会社側がパイロット組合との間で、「今後も安全運行のために機長及び副操縦士は常に搭乗させる」との密約を結んでいたのであった。
しかし、実際にパイロットが何もしなくても、例え居眠りしていようと飛行機はまったく問題なく飛んでいた。もう自動操縦システムが導入されて二年が経過しようとしているのに、安全運行を脅かすようなトラブルはなにひとつ発生していなかった。
今では、本当にパイロットの存在理由はなくなっていたし、パイロットたち自身、口には出さなくとも、それをひしひしと感じていたのである。
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機長は、窓の外を見たまま言った。
「オイ、どう思う、俺たちの仕事?」
「どう思うって言ったって…、何もしていないのですから…」
「だから、その何もしていないことだよ…。毎日こんなのでいいのかと…」
「いい訳がありませんよ…。でも、会社側も自動操縦システムで十分に安全運行の確保が可能だということで、とうとう我々を機から降ろすことを決めたようですよ」
「えっ、約束が違うだろう…。お前はいいのか、それで…」
機長は、副操縦士の方を向いて言った。
「いいも悪いもありませんよ。仕方ないでしょう、こんな毎日じゃ…。地上に降りたら何か新しい仕事を探しますよ」
「いいな、若いやつは…。俺なんかどうしようもないもんな、降りたらおしまいだよ」
「でも機長、こうなったんじゃ時間の問題ですよ。いくら組合との約束があると言ったところで、いつまでも頑張れる訳ないでしょう」
「若いやつらは皆そうなのか? もっと闘おうという気持ちはないのか?」
「もういいですよ…。パイロットには見切りを付けました。これから新しい人生ですよ」
機長は、ずっと彼方に見える入道雲を見詰めながら、黙ってなにも言わなかった。コックピットの中は、安定したエンジンの響きだけが微かに聞こえていた。
そのまま何分かの沈黙が続いた後で、再び機長が口を開いた。
「オイ、もう最後なら、俺たちの手で操縦して最後を飾ろうじゃないか…?」
「そうですね、もう一度最後に自分の手で操縦してみたいですね」
「俺なんか、何度となくこの手で危ないところを切り抜けてきたんだ、このまま終りだなんて納得できないよ。滑走路の決められた接地ポイントにぴったりと滑り込むようにあざやかな着陸を決める俺の操縦技術は、社内でも一番と言われていたんだ」
「ええ、知っていますよ。十年程前に、機長が爆発火災を起こした三発のエンジンを停止させ、残りの一発のエンジンだけで見事な緊急着陸をやってのけたのは、今でも若いパイロットの間で語り草ですよ」
「そうだ…、あれは運が良かったのと、自分で言うのもなんだけど、今から考えるとあの時の俺の操縦には寸分の狂いもなかった。あれは本当に素晴らしかった」
「もうあんな事はないのでしょうね?」
「だから、最後にこの手で操縦したいとは思わないか?」
「そりゃ思いますけど、規則で…」
「規則なんかクソクラエだ…。俺たちはパイロットなんだぞ。いいか、パイロットなのになぜ操縦できないんだ、パイロットなら操縦するんだ、それが当たり前だ!」
「そうですが…」
「どうせ最後を飾るのなら、ありきたりの着陸なんてものじゃなくて…、そうだな、宙返りなんかどうだ?」
「えっ、宙返り、そりゃ無理ですよ機長。これまで定期旅客機で宙返りを行ったことはないんですよ、小型機ならいざ知らず、三百人以上も乗ったこんな大型機ではとても無理ですよ」
「なぜ無理なんだ?」
「機能的に無理ですよ、そもそも飛行機が最初からそんなふうにできていない。機体強度が持たないですよ、とても…」
「そうかな…、俺は若い頃、趣味で小型飛行機に乗っていて、よく宙返りをやったものだ、後ろに乗っていたやつなんかキャッキャッいって大喜びしてくれたものだ」
「それは、怖がって悲鳴をあげていたのではないのですか?」
「そうかもしれんが、最高の気分だった。お前にはあの快感が分からないだろうな」
「僕だって、宙返りは何度もやったことがありますよ、もちろん定期旅客機の正規のパイロットになる前ですけど…」
「じゃお前も、あの爽快感を知っているんだ…?」
「もちろんです…。青い空に浮かんだ雲がぐるっと回って、逆に大地がぐぐっと持ち上がって、そしてまた頭の上から落ちていく。それと体にかかる何とも言えないあの重量加速度、操縦桿を握りしめたあの時の感じは最高ですよ!」
「じゃ、やってみないか?」
「しかし、無理じゃないですか、この大型機では、下手をすると墜落してしまいますよ」
「いや、だいじょうぶだ、何度も宙返りをやった俺の昔の経験から考えると絶対にできる。お前も最後ならやってみたいと思わないのか?」
「そりゃ、これでもう二度とコックピットに乗らないとなれば、やってみたいですよ」
「よし、やろう。乗客の度肝を抜いて、あっと言わせてやろう」
「でも…」
「どうした、怖じ気付いたか…、もう最後なんだ。華々しく我々の卓越した技量を決めて、もう飛行機から降りようじゃないか…」
「そうですね、これが最後なんですから、ひょっとしたら人間が操縦した最後の飛行になるかもしれませんね?」
「そうだ、人間が操縦した最後の飛行だ、それも飛行機の最も華やかな動きと言われる宙返りだ。この様な動きは飛行機しかできないのだ。気球や飛行船じゃできないし、ヘリコプターでも不可能だ。潜水艦だって水中でひっくり返ることはできないのだ。そんな素晴らしいことがもうできずに終わるなんて、悔しくないか?」
「悔しいですよ!」
「飛行機だけができて、飛行機のパイロットだけに与えられたその宙返りの操縦を最後にやりたいとは思わないか?」
「思いますよ!」
「やるか!」
「やりましょう!」
「よーし、やるぞ、いいか?」
「ええ、いいですよ。あっ、その前にこの自動操縦システムのスイッチを切って…」
「そうだ、そして、お前がエンジン出力を最大限までアップさせて、俺がこの操縦桿を力の限り引き上げる」
「機長、力の限りだなんて昔のゼロ戦じゃあるまいし、力は関係ありませんよ、いっぱいまで引けばそれでいいですよ」
「いや、力の限り引き上げないと気がすまない。引き千切れるまで引っ張り上げてやる」
「気持ちは分かりますが、壊さないでくださいよ、それこそ墜落していまいますから。まあ、人の力くらいでは壊れないように作ってあるとは思いますが」
機長は、普段は間違って触らないようにプラスチックのカバーケースの中に入った自動操縦システムの赤い解除ボタンに指を掛けた。
「いいですよ、いつでも…。でもなんだか緊張しますね、本当に久し振りですから…」
エンジン出力レバーに手を掛けた副操縦士は言った。
機長は、親指でプラスチックのカバーを押し破ると、その中の赤いボタンを強く押した。直ちに、自動操縦システムが解除されたことを知らせるけたたましい警報音がコックピット内に鳴り響いた。
「エンジンパワー、全開!」
掛け声とともに、副操縦士はエンジンレバーを最大の位置まで倒し、機長は操縦桿を握り締めた。
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その時、ちょうど地上にある航空会社の自動航行集中監視システムの前でモニターを注視していた男が、もう一人の男に向かって言った。
「あっ、またやりました。今度は三四八便ですね、機長は大崎忍で、副操縦士は柳田康二です」
「よし、直ちに処分だ。ところで、今度は何をやろうとしたのだ?」
「えーと…、この操縦だと宙返りですね」
「また、宙返りか…。みんな宙返りばっかりじゃないか?」
「ええ、そうですね」
「きりもみ降下とか背面飛行とかないのか?」
「不思議ですね、なぜか彼らには宙返りに対する特別の愛着でもあるのでしょうか、最後はみんな宙返りしたがるという…」
「まあ、いずれにせよ関係ない話だ、いつも通り運行規程違反で即刻クビだ!」
「どんどん首切りができますね。これで計画通りの人員削減が可能となりますし、その上重大な規程違反だから退職金も払わなくて良いなんて、我が社にとっては、まったく願ったり叶ったりですね」
「ああ、最高にうまくいった…」
航空会社の専務は、自信げに言った。
「本当に専務のアイデアは素晴らしいですよ。何の機能も持たないダミーの解除ボタンを取り付けようなんて…。しかし、パイロットたちは、そのボタンを押すと自動操縦システムが解除されるなんて本気で信じているのでしょうかね?」
モニターを見ていた男は、そう言って専務の方に振り返った。
「信じているから、押すんだろう?」
「かわいそうなやつらですね、そんなボタンを押したところで何も変わらないのに…。もう自分たちの存在意義がまったくなくなってしまっているのをまだ理解できていないのでしょうかね…?」
「誰しも、そんなことは信じたくないよ…。だから、緊急時は自動操縦システムを解除して操縦できるということを信じているんだよ…」
そう言いながら、専務はどことなく悲しい目をした。
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その頃、三四八便では、二人のパイロットが何度も赤いボタンを押しながら、一人はエンジン出力レバーを最大にして、もう一人は操縦桿を力いっぱい握り締めていた。
「機長、エンジンパワーがアップしません!」
「なにやっているんだ! もっと強く倒すんだ!」
「いっぱいまで倒しているんですが、ぜんぜん…」
「バカ! 早くオレに代われ!」
コックピットの中の喧騒さとは別に、飛行機は自動操縦システムに従い、決められた運行通り正確に飛行を続けていた。
もちろん、やがて目的地の空港の決められた滑走路に、そして決められた時刻に、極めてスムーズな着陸を自動的に行うことは、間違いなかった。
(おわり)
ヒューマンエラーを防ぐために、古くから機械による安全性システムの構築が進められています。
以前は、あくまでも人が主で、システムは人の過ちを防ぐ目的の従だったのですが、システムの高度化により、近年の主と従の関係は、完全に変わってきています。
無人運転のモノレ-ルなど商業運用している無人システムはたくさんありますし、自動車の運転に関しても、技術開発が急速進んでおり、人を必要としない時代が遠くない状況となっています。
そんな中、今後、どのようなことが起こるのか? 考えてみました。
もちろん、この作品のようなオチにはなりませんが、少し悲しい気持ちにもなりました。
ところで、飛行機はなぜ飛ぶことが出来るのか? お解りでしょうか?
以前は、飛行機の羽の断面図の形状(かまぼこ型の形状)を示して、空気の流れが羽の下面より上面の方が速いことにより、ベルヌーイの定理で説明する人が大勢いたのですが…。
であれば、なぜ、背面飛行が可能なのでしょう? 背面飛行をした途端に大きな力が働き即座に墜落しそうなのですが、アクロバット飛行では軽々とやって退けています。
私には未だに理解できませんが、飛行機が飛ぶ理由は、実は簡単ではないようですね。
なお、本作品は、1993年(平成5年)8月1日に作成したものです。このため、作品中に「爆発火災を起こした三発のエンジンを停止させ、残りの一発のエンジンだけで見事な緊急着陸」と書いてあるのですが、現在は四発のエンジンを持った飛行機は稀ですので、今書くとすればその部分を書き直さなければならないですね。