16.俺、息を殺す
さて、困った。
寮の一室に「ここに隠れてろ!」とばかりに放り込まれた俺は、エンとスイの頭を撫でながら、これからどうすべきなのかと模索する。
どうやら第一研究所の研究員がまた来ているようなんだが、今度は「無属性の魔晶石を作れる者がいるはずだ!」とやってきた。うん、明らかに情報が漏れてるよな。
考えられるのは、マルチアのように風属性の達者な人が第一研究所にいる可能性、そして、考えたくはないが、第一研究所に情報を漏らした者がいる可能性だ。
「こういうの、得意じゃないんだよな」
『こういうの?』
『母上?』
エンとスイが居てくれてよかった。信頼できる誰かがいるだけで、心が落ち着く。一人だったら、絶対にパニックになってたよな。第一研究所に連れて行かれたら、何されるかわからないし、そもそも人間だってバレたら……うん、これ以上は考えないようにしよう。
「それにしても……」
実は、困ったことがもう一つ発生している。ここに放り込まれてからすぐに急浮上した問題だ。
『……お母様?』
俺を呼ぶ声の主は、……そう、三人目の精霊だ。
エンとスイの隣にちょこんと立つ姿は、二人と変わりない。なんだかちっちゃくて可愛らしいフォルムは、つい撫でたくなる。身体の色が真っ黒なので、暗い中だとわかりにくいように思えるが、不思議と存在感みたいのがあって、ちゃんとそこにいることが分かる。
「うん、ごめんな。ちょっと気が動転してた」
闇の精霊だと自己申告されたので、とりあえずアンと名付けたんだが、正直、闇って何ができるんだろう、と首を傾げた。火や水と違って、身近にあるけど分かりにくいというか……
『生き物を眠らせたり、影を介して操ったり、影を通して移動ができますの』
うん、待とう。なんだかすごく暗殺者向きの「できること」を並べられて、思わず頭を抱えそうになった。
すごいでしょ、褒めて、とばかりに胸を張っているので、とりあえず頭を撫でておく。すると、エンやスイまでもが、慌てて自分のできることを自己申告し始めた。張り合っているのが可愛いので、やっぱり撫でておく。
(問題は、この闇属性がどこから来たのか……ってことだよな)
俺は頑張って考えてみることにする。俺の記憶が正しければ、次に生まれる精霊について闇属性と予想して賭けていた人はいなかったはずだ。いや、居たとしても少額だったはず。そうでなければ、記憶に残っているはずだしな。
ということは、研究員の中に闇属性を持っている者がいない、ということだ。賭けについて説明していたシャラウィの話だと、他の研究員の属性を知っている前提っぽかったからな。属性の濃さ、みたいなのは分からないと言ってはいたけど。
(いや、待てよ? 闇属性を持っていることを隠している可能性がある……か?)
その考えに至ったとき、鳥肌が立った。もしかして、第二研究所の中にスパイがいたりするんじゃないか? その研究員が闇属性持ちで――――
「いやだな」
思わず声に出してしまった。正直、そりの合わない研究員同士もいるみたいだが、基本的に研究室全体の雰囲気はいい。でなければ、あんな賭け事なんてスルーされるだろう。でも、研究室の壁に表を貼りだしても文句が出ないぐらいには、いい関係のはずだ。だからこそ、その中に裏切り者がいるだなんて考えたくもない。
そうだ。そうに決まっている。アンが生まれたのだって、きっと天井裏とかに潜んで情報を抜き取っている輩がいたに違いないんだ。アンに聞けば真実は分かるのかもしれないが、俺はあえてその道を選ばなかった。
「なぁ、アン」
『なんでしょう、お母様』
「さっき、影を通して移動できるって言ったけど、アンだけでなく皆一緒に移動できるものなのか?」
『お母様とエンとスイのことでしたら、もちろんですの』
「移動していることを、他の人――たとえば、今、研究室にいる人たちが察知することはできるのか?」
『大丈夫ですの。よほど相手がこちらに探査の糸を向けていなければ、バレることはありませんの』
聞けば聞く程、なんだか裏稼業向けの能力だな。俺はそんなことしないけど。
「それじゃ、みんなで厨房に移動できるか? もちろんバレないように」
『……』
俺の提案に、何故かアンが考え込んでしまった。もしかして、無茶な話だったんだろうか。
「アン?」
『その……、お恥ずかしい話なのですが、私では一息に移動することができませんの。何度かに分ける必要がありますの』
「あぁ、そうか。ごめんな。アンも生まれたてだし、まだ――」
『大丈夫ですの! バレない経由ルートを探ってきますの!』
慰めようとした俺の手が虚空をかすった。すごいな。まるで影にとぷん、と沈むように消えたぞ。これが移動する能力なのか。
『ママ?』
『母上?』
「うん、なんでもない。厨房に戻れたら、氷室にこもって下拵えだけでもしちゃおうな。エンは俺の身体を温めてくれ。スイはエンの力が食材に作用しないように防いで欲しい。できるか?」
『できるー!』
『お安い御用です』
二人の頼もしい返事に安堵した俺は、アンを待つ時間を使って、頭の中で手順を組み立てることにした。
魚の塩漬けを捌いて切り身にして、ムニエルのために小麦粉とハーブを混ぜておくのを最初にしておこう。昼食の片付けの後に仕込んでおいたスープは、もう最後に味を調整するだけだから大丈夫として、うーん、サラダは予定変更してグリーンサラダにするか。あれなら火を使わずに作れる。物足りないかもしれないから、昨日仕込んだ酢漬けも出そう。
『お待たせしましたの! まだ研究室で騒いでいる輩がおりましたので、少し遠回りしますの!』
「ありがとう。アン。頼めるかな」
『はいですの!』
エンとスイはポケットに入ってもらい、手のひらに乗ったアンに移動をお願いする。
その移動の感覚をなんと説明すればいいんだろうか。足下が沼になったかのように視界がみるみる下がり、頭まで潜りきった、と思ったら、みるみる視界が上がる。今まで感じたことのない浮遊感みたいな感覚に、なんだか気持ちが悪くなりそうだった。
「え、と、あと何回ぐらい繰り返すんだ?」
『5回ですの!』
「え!」
『どうしたんですの?』
まさか、そんなに回数があると思わなかったので、つい驚きの声を上げてしまったけど、正直に「移動の感覚が気持ち悪いから」なんて言いにくい。移動をお願いしたのは俺なんだし。
「いや、そんなに何回も移動して、アンは疲れないのかなって」
『大丈夫ですの! 一回一回の距離がそれほど離れていないから、一度に移動するより楽ですの!』
「あ、そうか。うん。それならいいんだ。うん」
そっかー……、うん、頑張ろう。
無事に到着したら、そのときはスイに頼んで冷たい水を出してもらおうかな。顔を洗えばきっとすっきりするはず。
§ § §
『だ、大丈夫ですの!? お母様!』
「……」
厨房に到着した俺は、口元を押さえたままよろよろと氷室に向かう。狼狽するアンの頭を何度も撫でて落ち着かせながら歩いたことで、アンは落ち着いたが、俺の胃は今にもひっくり返りそうだった。
氷室に入り、扉を閉めると、そこは薄明かりしかない上に寒い場所だ。吐き気よりも喫緊の問題に、エンに「頼む」と伝える。途端にぶわっと空気が温まった。
「本当に大丈夫なんだよな? 心配しなくていいよな?」
『ママー、エン、ちゃんとやってるよ?』
『母上の周囲に膜が張ってあります。そこから先の温度は平常と変わりありません』
二人の回答に胸をなで下ろした俺は、ぺたりと地面に座り込んだ。まずい、何がまずいって、食料を保管しているこの場所で吐くのはまずい。
顔を上に向けて浅い息を繰り返し、何とか落ち着いた頃には、自分を心配して見つめていた3人が泣きそうになっていた。特にアン。
『わ、私のせいですのねぇぇぇっ!?』
「いや、アンにはここまで連れて来てもらって感謝してるよ。ただ、俺が慣れてなかっただけで」
『わたっ、私っ、お母様がそんなに苦しがっているのにも気付かずに、ひょいひょいと移動してしまって……っ!』
「俺が頼んだんだから、気にするなって」
おいおいと泣くアンの周りを、エンとスイの二人がおろおろしながら回っている。なんだか心和む風景に、俺は無意識に笑ってしまっていた。
『ママ?』
『母上?』
じとっとエンとスイに見上げられ、俺は慌てて口元を引き締める。
「なぁ、アン」
俺はアンを両手ですくい上げて、目線を合わせた。
「俺もここまで気持ち悪くなるなんて思ってなかったんだ。だから今回のことは予測できなかった俺も悪い。だから、おあいこだ」
『おあいこ、ですの?』
「そうだ。次からは俺も気をつける。だから、アンもちょっとだけでいいから気をつけてくれるか?」
『はいですの!』
良かった。どうやら機嫌を直してくれたみたいだ。
俺は気を取り直して氷室の奥から塩漬けされた魚を引っ張り出し、捌いていく。こっちに来てから初めてみる魚だが、淡泊な味で色々と応用が利くというので購入してみた。俺が知る魚とは違い、何よりデカい。本当に何を食べたらここまで大きくなるんだか。どのぐらいデカいのかというと、全長が俺の身長を超えている。今日使うのも半身で十分過ぎるくらいだ。
「エン、スイ、ちょっと手伝ってくれるか」
切り分けたうちの尾びれに近い小さな切り身をスイに洗ってもらい、エンに炙ってもらう。程良い脂分とやや強めの塩気があって、特に味付けしなくても焼くだけで美味しくなりそうだ。
「ゆで卵とピクルスのみじん切りで、簡単なソースを添えるかな」
塩気が苦手な人は、多めに掛けてもらえばいいだろう。ゆで卵ぐらいなら、ここで作れるし。さすがに匂いが出るような作業は無理だけど。
『私はっ、何かお手伝いできませんの?』
「アン、そんなに焦らなくていいよ。ここに連れて来てもらっただけでもありがたいんだし。それに、疲れただろ?」
『大丈夫ですの。私はもっとお母様のお手伝いをしたいんですの』
うーん、どうしようかな。研究室を見てきてもらいたいのはヤマヤマなんだが、万が一、アンが見つかったらと思うと……
「そうだ。移動は気付かれにくいって話だったよな。ちょっとここにいることを誰かに――そうだな、ミモさんに伝えておきたいから、これから書くメモをミモさんの机の上にそっと置いてきてくれるか?」
忘れてた。つい夕食の下拵えを優先させてしまったけど、俺を隔離したあの寮の一室から消えてしまえば、余計な心配をさせてしまうだろう。
俺は小さな紙に「寮の2階から氷室に移動しました」とだけ書いて、アンに渡す。
「いいか? こっそり、誰にも見つからないように気をつけるんだぞ」
『はいですの』
とぷん、と影に沈んだアンを見送り、俺は再び下拵えに戻る。だが、数秒も経たないうちに、アンは戻ってきた。
『終わりましたの!』
「早いな。もう終わったのか」
『はいですの。近くであれば、一度で行けますの』
聞けば、まだ何か喧しい声が聞こえていたので、手紙を置いて慌てて戻ってきたのだとか。うん、いい判断だ。
「ありがとう、アン」
両手がちょっと汚れているので頭を撫でることはできないが、肩の上に乗ったアンに頬をすり寄せる。アンもぎゅっと俺の頬にしがみつくように身体を寄せてきた。
『これぐらいなら、お安い御用ですの』
「うん、あとはちょっと見物しててね。それともポケットで休んでおくか?」
『ここで見てますの』
肩に居座る気満々なので、くれぐれも落ちないように気をつけるように言ってから、俺はまた下拵えに戻る。
氷室の天井から吊して乾燥させてあったハーブの束から、ローズマリー少々にバジルとパセリをそれなりに摘む。すり鉢でゴリゴリと細かくするとふわりとハーブの香りが広がり、氷室でやっちゃいけない作業だったか、と後悔する。まぁ、すぐに薄れるだろうと楽観的に考え、小麦粉と混ぜたところで、下拵えは終了だ。
(殿下にアンのことを相談しておきたいな)
アンがどうして生まれたのか、殿下ならきっと分かるに違いないし、良いように運んでくれるだろう。珍しく、殿下と過ごす夜が待ち遠しかった。