1話 逆行前(1)
「クシャルナ神話が好きなのかい?」
銀髪の少女、リシェルは上から話しかけられ、本を読む手を止め顔をあげた。
いつからそこにいたのか一人の少年が立っていたのだ。
どうやら図書館の中庭の庭園で本を読みふけっている間に側に立っていたらしい。
青髪の人のよさそうな少年が微笑んだ。
王都にある国立図書館での初めての会話。
これが公爵令嬢リシェル・ラル・ラムディティアと伯爵家の子息フランツ・ファル・ランスとの出会いだった。
この出会いがきっかけで、二人は文通をはじめることになる。
文通の内容はおもに歴史と神話。
リシェルは彼との手紙をとても楽しみにしていて、彼の手紙がこないか毎日メイドに問い合わせていたほどに。
10歳の少年少女の微笑ましい文通。
それから、恋に発展するのはそう長い時間はかからなかった。
リシェルにとってフランツとの時間はとても幸せで。
リシェルはずっとフランツと結ばれるものだと思っていた。
だが現実は時に残酷で。
リシェルとフランツは婚約もすませ後は成人を待つだけのはずだったのに――。
リシェルはクシャルナ神殿で聖女の啓示を受けてしまった。
神の御言葉がリシェルを聖女だと告げたのだ。
そこで――リシェルの人生は大きくかわってしまう。
13歳の時。
神託で聖女とされたため、フランツと別れさせられ、無理矢理に近い形でランディリウム王国の王子ガルシャ・バル・ランディリウムと婚約させられてしまうのである。
リシェルの父グエンが遠征中で不在なのをいいことに物事が進められてしまったのだ。
国に聖女を囲っておきたい。それがゆえ無理やりの婚約だった。
「既に男のいた女など抱く気にもなれない――」
リシェルが婚約してはじめて王子に言われた言葉だった。
その言葉通り、王子は王宮に住むリシェルのもとに一度でも訪れる事もなく、お飾りの婚約者でしかなかった。
そしてなぜか神託を受けたはずなのに、16歳になってもリシェルには聖女の力が現れなかった。
聖女が使えるはずの豊穣の力「実り」が使えず、聖女を鑑定する石も反応しないのだ。
力が弱いだけで様子を見ようという事になったが、皆本当にリシェルが聖女なのかと疑いはじめていた。
そんな中、本当の「聖女」が現れた。
マリア・ファン・レンデーゼ。
伯爵家の娘で、妾の子だったらしく社交デビューは遅かったものの、彼女が王宮主催の舞踏会にて聖女としての実りの力を発動させたのだ。
そしてマリア・ファン・フェンデーゼこそ聖女だとクシャルナ教が発表し、リシェルは偽物の烙印をおされてしまう。
リシェルは偽りの聖女と影で嘲笑され、それでも何故か婚約者の立場から解放されることなく王宮ですごすことになる。
リシェルから見てマリアは不思議な子だった。
時々意味のわからない単語を使ったり、突飛な事を思いついたり。
誰もがマリアを褒め称え、まるで恋焦がれているかのように女性まで彼女に付き従った。
まるで幻術にでもかかっているのではないか?とリシェルの目に映るほどその姿は異常だったのだ。
けれどきっとマリアに嫉妬しているだけなのだと自分を律した。
そして気性が荒く誰も手がつけられなかった王子ガルシャでさえ、マリアにだけは優しく、まるで人が変わったように甘やかした。
きっとあれが聖女の力なのだろう。
誰もが魅惑されてしまうような美しい少女マリア。
この国ではあまり見ない黒髪の少女。
リシェルは人々に囲まれにこやかに微笑む少女を窓の内から眺めながらため息をついた。
自由に行動するマリアに比べ自分は籠の中の鳥で。
外に出ることすら禁じられてしまっていた。
何故、神は私が聖女などという神託をくだしたのでしょう。
あれほど神に愛される存在がいるならば――何故私を一度選んだのでしょう。
神託さえなければ――私は今頃フランツと幸せに暮らしていけたはずだったのに――。
窓の外を眺めながら、少女リシェルはため息をついた。
窓から見えるはるか遠くの空を見つめながら。