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虚構の定理  作者: márkos
3/4

C2 解放

語り部:E

 飛行機雲が現在進行形で作られている。

 天気は快晴。清々しいほどの碧空。

 その上に、白線のように、道のように、その雲はできていた。

 気象庁曰く、今飛行機が飛んで行っている方角には強風が吹いているらしい。

 だが、それに感想を言うような余裕は、私にはなかった。

 

 あの夢を見てから四か月が経つ。限界を超えて折れそうなおつむを抱えて、私は変わってしまった景色を早歩きで通り過ぎていた。運動していることで、痛かった頭がもっと痛くなる。厄介なことに、最近、片頭痛は晴れの日にも、毎日のように出るようになった。邪魔だ。仕事の邪魔だ。もう、脳だって邪魔だった。こいつは痛みを起こすだけで、何の役にもたたない。

 横断歩道。その眼前で、私は信号が青に変わるのを待つ。目の前を、金属の塊が次々と通り過ぎていく。駆け足で進んでいたのを止められて、またストレスがたまる。早く会社に行かなければいけないのに。心臓が、変な鼓動をたて始め、全身の温度感覚がおかしくなった。

 ひときわ大きな騒音が右横から聞こえる。私はその方向を横目で見た。馬鹿でかい大型トラックが、走ってきている。もうすぐ車道の信号は黄色になる。そのでかいトラックは、にわかにスピードを上げた。そうだ、早く、通り過ぎてくれ。そうなったところで青になる時間は変化しないのに、私は脳裏でトラックをそうせかした。

 

 ふっと、何気なく、下を見る。

 点字ブロック。点々。意味、とまれ。

 あ、

 

 今、ここから一歩踏み出したら、会社に行かなくていい?

 もう、会社に行かなくていいんだ。

 私はトラックにはねられ、無残に路上で潰されてスムージーになるだろう。

 だが、私は、そんなことは、気にも留めなかった。

 

 轟音が、近づく。

 

 結局、その駆動音の主は私の目の前から通り過ぎて行った。鼻の奥を引っ掻き回すような、嫌なにおいと風を残して。

 信号が青に変わる。私は、腰と肩に憑いている重い何かとともに、その信号を渡った。こんなことを考えている場合では無いのだ。少しでも多く、少しでも早く、仕事を終わらせないといけない。昨日は終電ぎりぎりまで頑張ったのに、ノルマの四半は残ってしまった。このままでは、駄目だ。もっと、こなさないと。

 私は、道を小走りで進む。会社に向かって、進む。


*  *  *

 

 ガタンゴトンと暗い窓が揺れる。終電の電車の中だ。最近は、夢を見ない。数か月前まではこういうところでもすぐ夢を見たのに。


 電車が止まる。私の降りる駅だ。座席から立ち上がり、出口へと向かう。中に流れ込む深夜の向かい風が鼻腔を突き抜けた。

 もう、寝る時間も惜しい。明日は五時には起きて始発に乗ろう。それでフル稼働しないと、間に合わない。

 テトリスよりも速く落ちて崩れる砂山を、瞬く間に積み重なる絶壁を上りきるには、それよりも速く、死に物狂いで手足を動かすしかないのだ。不可能であっても、できる限り、精魂も精根も尽き果てるまで。

 私は歩いている。自宅に、明日に、歩いている。


 

*  *  *


「Eさん、Eさん」

 私を呼ぶ声がする。あれ、確か私は自宅で就寝をしていたはずだ。

 何が起きているのかを確認するために、瞼を開けてみる。

「ああ、やっと起きましたね」

 そう語りかけてくるのは、以前夢に見た無彩の白百合だった。相も変わらず、上品に茎を揺らしている。鼻を動かすと、本当にうっとりするほどの気品のある匂香が漂っているのが分かる。だが、気のせいだろうか。以前と比べると、少し苦いにおいが混ざっているような気がする。それに、立ち姿も少々疲れているように見えた。

 周囲を見回してみる。よく知っている光景だった。白黒の空を、鏡のような地面が映している。地面を触ってみても、その成分は分からない。よく光を反射するそれは、つまむと砂になってしまうのだ。

 その景色の中に、百合がぽつんと坐っている。よく印象に残っている、あの夢の光景だった。

「また、会いましたね」

 百合の声が響く。前と同じ淑女的な声色だが、心なしか、嬉しさに弾んでいるように聞こえる。

「ああ、久しぶり」

 私は百合に言葉を返し、口元に笑みを作る。すると、百合はにこりと笑ったような気がした。

「よかった。また会えて、本当によかったです」

「こちらこそ、また会えて実に光栄だ」

 私は会釈をした。そのやり取りは、空想とは思えないほど、温かいものだった。本当に、人が現実で会話をしているかのように、話が進む。

 私は、この百合の花と再び会合することを、楽しみにしていたのだ。なんとなく自分と似ているような気がして、話が不思議と合いそうだったからだ。この百合の花と私の間に一体どんな共通点があるのかは、今はまだ分からないが、きっと、ほとんど同じなのだろう。なんとなく、そう思ったのだった。

「あら、Eさん」

 百合が語りかけ来る。

「最近、何かつらいことでもありましたか」

 こいつ、エスパーか。そんな、昔どこかで聞いたセリフを思い出した。何のセリフだったかは忘れた。確か、どこかのアニメのそれだったと思う。違っただろうか。

「よくわかったな。最近、仕事が立て込んでいてな」

「分かりますとも。その様子だと気づいていないでしょうが、あなたの目の下に大きな隈ができていますよ。それに…」

 あなたの瞳の青が、濃く悲しい色、冷たい色になっていますよと、こう言った。私は耳を疑った。私の目は生まれつき茶褐色、つまりは典型的な日本人のものだった。カラーコンタクトをしているわけでもなく、目にタトゥーを入れているわけでもないため、間違っても青色の瞳の訳がない。何かの間違いではないだろうか。

「なあ、私の目は茶色なのだが」

「あら、そうですか。すみません。何せこの環境は無彩色ですから、あまり色というものを見てこなかったのです」

「いや、気にしないよ」

 そういうと百合の花は、不思議そうな様子で、こう切り出してきた。

「でも、昔一風変わった鳥がここに来訪してきたことがあるのです。確か、何とかゴクラクチョウという鳥で、私に『どうだい、俺のきらきら輝く青いボデーは。美しいだろう』と言って、自らの高級な羽毛を自慢してきました。ありえないくらい胸をそって、シュッシュッと頭を両の翼に交互に隠しながら踊る鳥です。ご存じありませんか」

 そういえば昔、国営放送のいつぞやのテレビ番組で、そんな鳥が出てきたことを思い出した。その鳥の名前は、忘れた。

「そういえば、そんな鳥が実在した気がする」

「そうでしょう。その羽の色と同じ色の瞳を、あなたは持っているのです。少なくともこの世界では。気付かなかったのですか。ここの地面は鏡のようになっているので、それで確認してみては」

 確認してみる。確かに、その色は藍色に近い青色だった。だが、なぜだかよく見えない。

「本当だ。今の今まで全く気が付かなかった」

「地面を見ているので、もう気が付いているのかと思いましたよ」

「ああ、そうだよな。でもなぜか私の目には不思議とそれがあまり見えないんだ。何でかな」

「それは不思議ですね。そうそう、今のやり取りで思い出したのですが」

 そういうと百合は、普段の話し方とは打って変わって、小声で、周囲に音波が漏れるのを恐れるように、今にも崩れそうな積み木を運ぶかのように、慎重に、聞いてきた。

「あなたは、あの、空の瞳は気にならないのですか」

 空の瞳とは、どういうことだろうか。

「空の瞳?」

「やはり気づいていませんか。今、我々の頭上にある、大きな瞳のことです」

 私たちの、上空にある?

 私は首をかしげつつも、その瞳を確認するために、上を見上げた。上空を見渡してみる。


 すると、確かにあった。馬鹿でかい瞳が。

 今まで見つけられなかったことが不思議になるくらいに巨大なそれが。


 流石に少し驚いて、その巨大なものを凝視してみる。瞳孔は縦に割れて猫のようになっており、虹彩は青と黄の二色にくっきりと分かれている。その二色は三日月模様を形作り、それが瞳の神秘性を増している。目頭は無く両端が目尻であり、綺麗に見えるのはその影響もあるだろう。それ以外は完全に人間の瞳である。それが、白黒の空にぽつんと浮かんでいた。

「ほら、あったでしょう。この前も頭上に出ていたのですよ」

「…全然、気が付かなかった」

「やはりですか。あなたがこの前突然去った後に、なぜあなたは瞳に頓着しなかったのでしょう、と不思議だったのです。私は芽生えた直後から気にしているというのに」

「そんなに気にするものなのか」

 私は、疑問を口にした。確かに大きいが、別に気にするほどのことでもないと思ったからだ。その瞳は、周囲の風景と一体になっている。逆に取り除いた方が不自然だと感じた。

「ええ、気にしますとも。だって、」

 百合は言った。

「なんだか、あれに睨まれると、閉塞感がしてきませんか」

 もう一度、それと目を合わせてみる。でかいとは感じるが、それ以外は特に何も感じなかった。いや、何もないは言い過ぎた。なぜだか、既視感がする。

「いや、何やら既視感を感じるが、それ以外は特には…」

 細目で睨みながら、観測結果を述べる。いい意見をひねり出そうとするが、うまい表現が思いつかない。


 すると、

 突然、私の脳裏に閃光が走った。

 忘れてはならない何かを、一瞬だけ思い出したような気がした。


 はっと目をそらす。自らの眼が見開かれているのが分かる。私は、細く息を吐いた。心を落ち着かせるためである。

「どうされましたか」

 突然の出来事に、百合の花が心配そうに聞いてきた。私は、何とか気を落ち着かせて、答えてみせる。

「ああ…大丈夫だ」


*  *  *


「なあ、お前も少し疲れてないか」

 先ほどの騒動がひと段落付き、場が静かになっていたので、先程から疑問に思っていたことをぶつけてみる。すると、百合は落ち着いた様子で、

「やはり分かってしまいますか」

 と、こう答えた。

「ああ。お前の纏っている香りに少し苦みが混じっているし、生えている姿が疲れているように見えた。何かあったのか」

 問い詰めてみる。すると百合は、少しずつ事情を説明してくれた。要約すると、以下の通りである。

 百合は、その日も風の到来を楽しみにしていた。だが、その日は風が一瞬たりとも吹かなかった。今日だけだろうと高をくくり、翌日にも待っていたが、全く吹いてこない。そんな日々が三か月ほど続き、今に至るそうだ。動物の到来もなく、ここ三か月は誰とも話していないらしい。風が吹かない中でにおいを纏っても、虚しいだけだった。そのストレスで、段々と百合自身の体組織にも異常が出てきて、纏う匂いも変質してしまったらしい。

「話し相手が居なくなってしまったのです。でも大丈夫です。きっと、また風は吹いてきてくれますよ」

 百合は言った。その様子は、前に会った時とは全く違う、悲壮的なものであった。幸せそうな様子を何とか演出しているが、何かを無理矢理定めようとしているような語り口であった。

 おそらく、この百合は前々から、自分が不運ではないと、悲運ではないと、自分に刷り込んでいるようだった。風という不確定要素に心の安らぎを見出し、それに話しかけることで、ただ聞いてもらうことで、自分を騙していたのだろう。幸せそうに笑い、幸せですと口に出し、自分を騙していたのだろう。その心の安寧を奪われて、その自ら設計した思い込みは崩れようとしているのかもしれない。

 私は、それを指摘することも、批判することもできず、ただただ黙っていることしか、できなかった。


※   ※       ※


語り部:百合の花


 久しぶりに会った私たちは、互いの疲労について言った後、軽い近況報告というか、互いの世界についての話というか、そんなとりとめのないような雑談をしていました。とはいえ、私の方はこの四か月の間は何もなく、すぐに話し終えてしまいました。私の話を聞いているEさんは、普段仕事で人の話をよく聞いているというだけあって、とても聞き上手でした。黙って聞いてくれるのです。私は、風に話しかけているような気持になって、少し心が躍るようでした。

 Eさんの話は、主に仕事についてでした。普段の業務形態や上司、同僚についてのことを、私が分からないところを補完しながら話してくれました。彼女の話はとても興味深かったのですが、私はあるところが気になりました。

「あの、また少しよろしいでしょうか」

「なんだ」

「あれは、どうされたのでしょう」

「あれ、とは?」

「ええと、薄い端末の中に入った、短い文を複数人で共有できる道具のことです。あれは、今は使われていないのですか」

 そう、今までの話には、四か月前の彼女が生命線としていた、あの道具のことが一度も出てこなかったのです。あれを使っていないということは、もうそれに頼る必要などない、現実にいい話し相手が出来たということでしょうか。

「ああ。使っていない」

 彼女は言いました。

「そんなもの、いじっている暇はないからな」

 そういう彼女の目は鋭さを増し、瞳の青色がまた濃くなった気がしました。声を低くし、獣が低音でうなるように、彼女はこう続けました。

「そんな時間は、無い。だって、そうだろう。私は進まなくてはいけない。私には、そんな小道にそれている暇はない。私には仕事がある。山ほどだ。海が埋まるほどだ。空を覆うほどだ。それだけのように思える仕事を、私は片付けないといけない」

 つい数か月前まで、自分の悲運を嘆いていた彼女とは思えないような言論でした。

 彼女は続けます。

「睡眠を削っても、自由を削っても、時間が足りない。それだけ厳しい状況に、環境に、置かれているのだ。それなのに、そんな共感やらのために割くような時間はない。無理だよ、こなしても降ってくるのに。無限に湧いてくるのに。休む時間は無いよ。たとえ不可能でも、進まなければ、いけないのだ」

 彼女の口角は上がり、目は盲目に見開かれ、眉毛が中心に寄っていました。複雑な色合いだった瞳は暗い藍色、全てから蓋をするような、均一な暗い藍色にくすんでいました。

 私はなんだか怖くなって、大丈夫ですか、と尋ねました。彼女は平気だと言って口をつぐみましたが、その表情は、平気な者のそれではありませんでした。

「いいえ、あなたは大丈夫ではありません。ちゃんと休眠を取って、自分の時間を取って、療養するべきです。今休養を取らないと、あなたは壊れてしまいます」

「放っておいてくれ。本当は、今この瞬間に夢を見ている時間だって惜しいんだ。早く起きて仕事をしないと」

「我々が会合しているこの時間が楽しくないのですか」

「…語弊を招くような言い方をしてすまない。この時間は過ぎてほしくないほどに楽しい。だが、早く起きて、仕事に向かわないと、もう間に合わない」

「なぜそこまで仕事にこだわるのですか」

「仕方がないだろう、自分が選んだ道なのだ。やらなければ、ならないのだ」

 ほとんど叫ぶようにして、彼女は言いました。苦しそうに顔をゆがめ、今にも血を吐きそうな様相でした。瞳の色は、もうほとんど黒くなって、時が経ちすぎた黒真珠のように見えました。

 彼女は、その、過去の自分の選択を遂行しなければならないという義務を、自分で勝手に発生させているように見えました。自分の道をこれだと固定してしまって、他の選択を塗りつぶしているように見えました。今自分がいる場所から頑なに移ろうとしないように、見えました。自分で歩くことが出来るにもかかわらず、苦しい場所から動こうとしないのです。

 その話を聞いていると、私の中に、なにか大きい熱の塊が生まれました。私の意識はほぼ全て、Eさんに向き、熱い炎のようになっていました。私はもうほとんど何も考えずに、その感情を少しずつ吐き出すように、口を開きました。


「逃げようとは考えないのですか」

 

 彼女に流れるすべての時間が停止したかのように見えました。彼女は口をあんぐりと開け、虚を突かれたという様子で固まっています。

「なぜ、逃げないのですか」

 もう一度、問いかけてみます。彼女はその表情のまま、しばらくこちらを見つめていました。しかし、しばらくするとその顔は、恐ろしい何かを見るようなものに変わりました。

「逃げ、る?」

 そう呟くように彼女が発した声は、粗悪な木管楽器のようにかすれていました。

「そうです。逃げるのです」

 私は一拍開けて、続けます。

「私はあなたが羨ましい。あなたには足があるのです。辛いところからも、自由に逃げられるじゃあないですか。嫌なことからも逃げられるじゃあないですか。なぜあなたは、その足を使おうとしないのですか」

 彼女の瞳に、少しずつ光が差してきました。

「いいですか。自分の生を、こうだと固定してしまう必要は無いのです。自分に合わないと思ったら、やめればいいのです。私なんかと違って、選択肢は羨むほどたくさんあるのですから」

 そう、もう無理だと思ったら、その場から逃げてしまっても構わないのです。あなたの世界の話を聞いていると、人の居場所はたくさんあるということが分かります。ならば、嫌な居場所から抜け出して、別のところに逃げてもいいのです。無理に通う必要は無いのです。なんていったって、生命なのですから。

 彼女は、今その事実を初めて知ったみたいな目をして、私の前に座っていました。でも、にわかに瞳に差していた光が、再び消えてしまいました。

「でも、私の同僚は、私と同じ環境で頑張っている」

 ぽつりぽつりと、彼女は語り始めました。

「みんな、頑張っているんだ。あの環境で、頑張っているんだ。それなのに、自分だけ抜け駆けなんて、そんなのはありえない話だ。それに、せっかく入った会社なんだ。そんなに簡単に転職したら、もったいないじゃないか。ああ、そうだ。私には逃げるなんて選択肢は無いんだ。最初から、最後まで、逃げてはいけないんだ」

 壊れた機械人形とは、今の彼女のようなものを指すのでしょうか。彼女の瞳は青色のかけらもなく、どす黒い何かに染まっていました。

 彼女は、周囲という環境に固執しているようでした。周囲の者がやめないから、私もやめてはいけない。その思想は、彼女が非常に真面目な性格であることと、彼女の、『人に合わせる生き方』に起因するものだと思われます。

 初めて会った時に、端末の道具の説明と同時に、彼女の昔話も話してくれていました。人の共感の話の前に、昔は友がいたという話をしていたのです。彼女は、周囲とつながりを持つために、自分を押し込めて、趣味も周りと合わせていたそうです。そんなことをしていたものだから、きっと、人と違うことをするのが怖いのでしょう。

 でも、そんな理由で彼女の行いを許していたら、彼女はいつかきっと全てに火を吹き、自ら首をくくってしまうでしょう。四か月前に自ら予言した通りに。

「…自分のために生きては、いけませんか」

 私は、ゆっくりと、ゆっくりと、言い聞かせるように、

「自分の好きなように生きてはいけませんか」

 話す。語る。吠えるように。震えるように。

「あなたの世界は、あなたが決めるものですよ。あなたの視界は、あなたが見定めるものですよ。他人のために、自分を化かす必要性は、必ずしも無いのです。化かす必要は、無いのです。他人のものでは、無いはずです」

 彼女は、じっとこちらを見ている。見つめている。

「そうでしょう? あなたは、自分で自分を縛っている。他の人がやめないから、私もやめない。そんな考えで、自分に嘘をついている。自分の生に、嘘をついている」

 どす黒いそれに、青が混じった。光が宿った。

「やめてはいけないから、あなたは四カ月前、『道具』を使っていた。自分に嘘をつくために、わざわざ悪い方へ進むために、不満のはけ口を作った。この人たちなら、私の言うことを黙って聞いてくれる。これで今日も救われる。明日も頑張れる、悪い方へ進むのを」

「…」

「ほんとうは、それだけでも危なかった。進むことしか考えてなかったから。そんなに辞めたくば、やめればよかったんだ。きっと、あなたの身を案じる声もあったでしょう。あなたの親も、心配していたでしょう。でも、あなたは進んでしまった。泥にはまってしまった。自分の環境を、当然のように受け入れてしまったんだ。反吐のようなそこから、逃げずに、自分で作った虚構に、はまってしまったんだ。あなたは、そんな虚構でしか立つことのできないような人ではないはずだ!」

 いつの間にか叫びだす自分を、私はこの瞬間、忘れていた。

「あなたが、あなた自身が、そんな虚構に生きてもいいというのならお好きにどうぞ。どうせ、自分で決めたガタガタなレールから転げ落ちて終了でしょう。あなたの望み通り、全てが終わります。あなたが、そう決めた通りに」

 叫ぶ。


「あなたはそうやって、自分に枷を付けて一人で死ぬんだ! あなたがそう決めた通りに!」


*  *  *


 全てを、吐き出した。

 彼女の瞳から、黒が、藍が、青が、抜けていく。

 一つのヴェールのように、オーロラのような帯になって、宙に消えていく。

 霧のようなそれが流れた後の瞳は、本人が語った通りの、茶褐色だった。

 琥珀のようなそれが、豊かな輝きを持ち始める。

 その輝きに、私は、遙か過去を思い出した。


 彼女が、口を開く。

 綺麗な目には、透明な何かが滲んでいた。

「あなたは、人のことは言えないな」


※   ※       ※


語り部:E


「あなたも、そうじゃあないか」

 涙腺が熱く、意思と反してこみ上げてくる涙で、前が良く見えない。でも、百合を見つめてみる。百合は、じっと佇んでいた。

「あなたは、自分で道を定めてしまった。自分の境遇を、ごまかしていた。幸せじゃないという感情を、かき消そうとしたんだ。『幸せ』で、不幸せを塗りつぶそうとしたんだ。そのために、風に話しかけた。こいつらなら、自分が何を言おうとも、黙って聞いてくれる。そういって虚構を作り、勝手に擬人化した」

 やはり、同じだった。

「あなたは今、その決心が揺らいでいる。風が吹かず、動物すらも来なかった。心のよりどころを失った。でも、頑なに信じ込もうとしている。自分は、幸せだと」

 何もかも、同じだったのだ。

「…自分を騙してなんか、いません」

 百合は、いつもの口調に戻っていた。落ち着こうとしている声だ。先ほどは本当に本気で怒鳴っていたらしい。声がすっかりかれていた。

「いいや、違うな。あなたは、さっきその話をするとき、とても辛そうだった。なんていうか、作り笑いで何とか誤魔化している感じだった」

 百合は黙っている。何かを思案しているようだった。

「…そう、かもしれませんね」

 百合は言った。そのあとも、ぽつりぽつりと零れる。

「私は、他の生き物に執着を持つのが怖かったのです」

 百合の葉が、揺れた。

「ある一つに関心を持って、それが離れていった時を想像すると、もうそれだけで孤独感に襲われました。怖くて、他の生き物と深いかかわりを持つのを避けるのを、自分の嫉妬心のせいにしていました。私はこの生活の中で、孤独感を感じるのが、怖かったのです」

 私の髪も、揺れている。

「私は百合なので、嫉妬心は強いらしいですが、そんなものを感じるような生活ではありませんでした。何せ、すぐに相手は去ってしまうのですから、どんなにその方たちに猜疑心を抱こうが、もう一度、その方と会うかどうかも、怪しいのです。そんなありもしない嫉妬心を言い訳にして、私は、今までの、生を…」

 何かが頬に触れた。

「私は、孤独でした」

 百合はそう言って、黙ってしまった。緻密な石像のように、動かなくなってしまった。初めて、自分と向き合い、精神の制御が利かないのだろう。

「白百合さん、」

 私は、その花に向かって、


「大丈夫です。あなたはもう、独りじゃない。私が傍に居ます。居させてください。」


 こう言った。

 我ながら、こんな臭いセリフをよく吐けたものだ。まるで、映画に出てくる愛の告白じゃないか。あーあ、恥ずかしい。

「…そんなことを、泣きながら言わないでください」

 百合が、無邪気に泣き笑っているような気がした。本当に、全ての枷から解放されたかのような声だ。

泣いていない。そう言おうとしたが、もう限界だった。涙腺はもう、さっきの説教の時点で決壊していた。涙が止まらない。涙って、こんなに温かかったのか。

 畜生。らしくもなく、だーだー泣きやがって。

 ちくしょう…


 風が吹いていた。

 今更のように、祝福するように、吹いていた。


*  *  *


 それからしばらく後、泣き終わった時

 私は、まず朝起きたら、辞表を書くことに決めた。

「本当に、あなたに出会えて良かったです」

 百合が言う。本当に、そのことには同意した。

「そういえば、今回の夢はなかなか覚めないな」

 私がそう言うと、百合は寂し気に体を揺らした。

「さっき、ずっとそばにいるって言ったじゃないですか。無理なのは分かっていましたが」

「…すまないな。私も、本当はずっと夢の中にいたいのだが」

「あなたは、またいつ消えるか分かりません」

「消える?」

「あなたが夢から覚める瞬間です。この前は、すっと宙に消えてしまったのですよ」

「…そうだったのか」

「ええ、そうなのです。だから、もう少し、あなたが消えるまで、話をしましょう。とりとめのない話を」

「…そうだな」

 下を向く。その地面には、私の茶色い瞳がしっかりと映っていた。

「では、先ほど互いにお説教をしあっていた時のことですが、その時に何か思い出しませんでしたか」

「…あなたもか」

 とりとめのない話の定義を、誰か教えてほしい。

「ええ。何か、私が生える前の、遠い昔のような記憶です」

「私もだ」

「どんな記憶ですか。私は、あなたそっくりな姿の私が、あなたが話してくれた世界で、…自殺を、する記憶でした。それのもっと前の記憶は、その私が百合の花と話す記憶です。それより前は、何か子供が延々と続く道を必死に歩き進んでいる記憶。その前が何か、暗い、空間で、複数名と身体を削ぎあってる、記憶。その前が、百合の花の私が、あなたのような人と話している…ものです。その前は、また自殺の記憶。そのような記憶の輪が、ずっと繰り返されています」

「私も、概ねそんな感じだ。私の場合は、子供の記憶が最初に来て、そこから循環している。子供、地獄の子供、花、そして自殺する私が、繰り返されている」

 意味不明な記憶だった。子供は、私の幼少期なのだろう。くっきりと思い出せる。だが、その前が、みんな意味不明だった。

「話を聞く限りは、記憶の一致が起きていますね」

「…そうだな。あなたと私は、ずっと同じような人生を辿ってきていたのだろうか。それとも、」

「…それとも?」

「…あなたと私は、同一人物?」

 思案の沈黙が、流れる。

「…未来と、現在の、私?」

 そう考えると、そうとしか考えられなくなった。私のような人物と話している花。そうとしか考えられない。

「ですが、そうだとすると、あなたは今から自殺してしまうのですか」

「…」

「そもそも、これが現在と過去の私の会合なのだとすると、なぜ住んでいる世界が違う我々は、こうしてコンタクトできているのでしょう」

「…そうだな。なんでだろう」

「…死なないでくださいね」

「言われなくても死なないよ、私は」

 頭をひねってみる。だが、全く何も思いつかない。その頭をひねった時に、上方の、空の瞳と目が合った。

 瞬間である。

「…………」

「…どうされましたか?」

「………なあ、少し上を見上げて」

「全く、」

 何ですか一体。百合はそう言おうとしたのだろう。だが、言い終わる途中で、その言葉は途切れてしまった。

 いつもあのように浮かんでいるらしい、巨大な瞳。私が来た時と同じように、宙に浮かんでいる。だが、私たちは、驚愕してそれを見つめていた。

 急に思い出したのだ。更なる昔の記憶を。


 私は、私たちは、この瞳の模様と全く同じそれを、二つそろった人間のサイズのそれを、

見たことが、ある。


※   ※       ※


語り部:とある『存在』


「気付いたな」

 私が設計したのに、途中で運営を相方に丸投げしていたせいですっかり忘れていたそれ。その『ゲーム』。その『ゲーム』のクリア率は、今のところゼロ。我ながら、よくもこんな『ゲーム』を創り上げたものだ。だが、『こいつら』なら、あるいは、いや、確実に脱出しうる。

 知らず知らずのうちに、口角筋が歪に歪んだ。


※  ※       ※


語り部:E


 遙か昔。始まり。原因。根源。

 その存在は、『ゲーム』をしようと持ち掛けてきた。

 参加費は無料。そう謳って、にこりと微笑んできた。

 適当に、『ゲーム』をやらせたら面白そうな人を選んで、直々に声をかけて回っているんだ、とも言った。

 夕闇、その白い肌と、思わずはっとする美貌と、三日月模様の瞳のその…女性らしき存在は、まだ子供だった私に、他人の真似をして必死に生きていた私に、自分を騙していた私に、そんな生き方はやめなよと言った。『ゲーム』への参加を戸惑っていた私に、クリアできれば、その生き方を変えられるかもよと言った。

 それは、魅力的な提案に思えた。私は、深く考えずに、そのゲームへの参加を決めた。

 存在は、微笑みながら、ルールを説明する。


『二人の自分とともに、過去の自分を救え。一度のみ、私への要望にこたえるが、その願いの内容は私が必要だと認めるもののみ有効で、相応の対価の支払いが必要とされる』


 それから、私は深い眠気に襲われ、そのルールについての質問が出来ないまま眠ってしまった。

 今思うと、あれがゲームスタートの合図だったのだ。賽は、投げられてしまったのだ。



 私は記憶を失い、一本道しかない森林の中に放り込まれた。そこから一方向にずっと歩いていると、片頭痛がした。それは進めば進むほど悪化し、最終的に倒れてしまった。

 そこからまた記憶が飛んだ。目が覚めると、そこは人の住む町だった。そこで私は仮親に育てられ、『ゲーム』開始前とあまり変わらない生活をする。そして、ブラック企業に就職してしまった。最近の私の生活にそっくりな暮らしをし、ほとんど死にそうになっていた。そこで見たのが、花と会話する夢だった。

 今目の前にいる白百合とそっくりな花だ。今いる環境とそっくりな景色だ。そこで『私たち』は会話を重ねた。そんな夢を複数回は見た。だが、今の私たちのような関係までは至らなかった。結局、私は自殺した。過労自殺だ。

 今度は、私は花になった。孤独を紛らわすため、風と会話していた。そこで、私とそっくりな人物と会合し、何度か話した。だが、そこでも『私たち』は、今の我々のような関係には至らなかった。


 おそらく、ルールの『二人の自分』というのは、この『成人の自分』と『花の自分』のことなのだろう。あの存在は、この二つの時間、違う空間に生きる『私』に、この『ゲーム』について思い出すチャンスを与えているのだろう。思い出す条件は、第一に、『自分の、自分で作った虚構に縋るという欠点に気付き、それを二つの自分双方が理解し、改善しようという気になる』こと、それと、『第一の条件達成の報酬で得られる大きな記憶に疑問を持ち、考察すること』なのだろう。

 存在が言っていた、生き方が変わる云々は、おそらくここの改心のことを言っていたのだろう。『二人の自分の会合』で条件が満たせなかった場合、容赦なく場面はリセットされていった。そんな理不尽なループを、我々は何度も回っていたのだ。

 

 失敗した『花の私』は枯れ落ち、その花だった部分が膨張し始める。その中から、自殺した『成人の私』と同じ姿の人間が出てきた。『私』はそのまま暗闇の中に放り込まれた。手には大鉈を持たされている。

 もちろん、記憶は剥奪されている。その時点で私の頭に埋め込まれていたのが、『ここにいる奴らを、削がなければいけない』という強迫観念だ。

 その果てが見えない空間には、私以外の『人間』もたくさんいた。今思うと、これは、『ゲーム』の他の参加者なのだろうと思う。私たちは、互いに削ぎ合った。肉を削り、削られた。だが、そんなことをしても、誰一人死なない。どんなに苦しくても、死なない。死なずに、削がれた分だけ、体が小さくなるのである。子供に、戻っていくのである。年齢が、リセットされていくのである。察しの良い方は、これからどうなるかが分かるだろう。

 何百年も削りあい、そしてある時、鉈の刃が欠ける。そして、『私』は気を失った。そして、目が覚めると、記憶を失った私は最初の森に飛ばされていた。そこからまた、場面が繰り返される。そして、同じ光景を何度も経て、現在に、至る。


 ゲームクリアの条件『過去の自分を救え』とは、おそらく最初の森の子供を、『一本道を何が何でも進まなくてはいけない』という呪縛から解くことだと推測する。『自らが決めた一本道を絶対に進み続ける』というのは、『私』の生き方と同じものだ。よって、私たちが、その子供を『解放』してあげる。他の道へ導くことが、ゲームクリアなのではないだろうか。


*  *  *


 私たちは、空を見上げていた。

「なあ、私たちは、ゲームクリアしないといけないのだろうか」

 百合に聞く。

「なぜ、そんなことを聞くのでしょう」

「ゲームクリアしてしまった時、私たちはどうなるのだろうか」

「…分かりません」

「私たちは、また私たちとして、会えるのだろうか」

「…」

 しばしの時が流れる。

「…悲しいですが、我々は、ゲームクリアするべきだと思います」

「…」

「ここで動かなければ、ここでクリアしなければ、私は、私たちは、また同じ道を辿らなくてはなりません。ここで解放されて、自由を手に入れた方が、絶対にいいでしょう」

「…だが、解放されるのは、過去の私だ。そうしたら、私たちは、消滅してしまうのではないだろうか」

「それは、」

 百合が言った。

「…『存在』とコンタクトを取れば、分かります」

 百合の花は、解放を望んでいるようだった。

「ごめんな、約束、叶えられなくて」

「いいですよ。私は、気持ちだけで十分です。気持ちだけで、私はとても幸せです。」

 百合は、澄み渡る笑顔で言った。

 私は、その言葉に、押しつぶされそうになった。


*  *  *


「やあ、よくここまで来たね」

『存在』は、空の瞳に向かって念じてしばらく待つと、案外簡単に出てきた。

「少し遅れてごめんね。私たちは複数の『ゲーム』を趣味で回しているんだけどさ、ずっとそればかり見ているのもつまんなくてさ。人間社会に紛れて、人間のふりをして生活してみているんだよ。そしたらこれがなかなか愉快で」

 聞いてもいないことをしゃべりだした。私は怒りがこみ上げてきた。趣味で私を、私たちをこんな目に合わせたのだ。それでこの態度だ。許せるものではなかった。

「あ、ごめん。そんな顔しないでよ。ちゃんと用件聞くからさ」

 怒りを抑え、私たちは、過去の自分に干渉して、道以外の別のところに導きたい、という旨の要望を述べた。

「分かった。じゃあ、代償は、肉体の喪失と精神の喪失。あ、人間の方は夢と現実の両方ね。人の方が子供を脇道に誘導してくれ。そうすると、光のゲートが見えてくるから、そこを子供がくぐったら、ゲームクリアだ」

 肉体と、精神の、喪失。重すぎる代償だった。

「大丈夫。精神は無くなっちゃうけど、記憶は子供に継承されるから。今までの改心は無駄じゃないよ」

存在は、悪魔のような笑顔で言う。もう百合とは二度と会えないと宣告された。頭が、真っ白になる。

「よし、じゃあ始めるよ。人間の方は完全には消えずに、ミッションをクリアするまでは幽霊みたいな身体だから。その状態で過去に召喚するよ」

「え、ちょっと…」

私は止めようとしたが、もうすでに遅かった。私たちの身体が、白い光の粒になって消え始めたのだ。まだ心の準備ができていない私は、焦るようにあたふたし始めた。このままでは、百合が消えてしまう。

「Eさん」

 百合が言った。その声は落ち着いていた。

「最後に、お願いしてもいいでしょうか」

「さ、最後って」

 私はまだあきらめきれていなかった。何とかこの状況を打開しようと、頭を回す。

「お願いします」

 ゆっくりと、百合は言った。

「最後に、世界を見せてくださいませんか。少しだけ、私の身体を、持ち上げてくれるだけでいいのです。どうせ私はすぐに消滅してしまいます。茎を引きちぎって、私を持ち上げてください。どうか、よろしくお願いします」

 百合の花は、まっすぐに私を見る。一途な少女のように、私を見る。


※   ※       ※


語り部:百合の花


「そんなに泣かないでください。私に、最後に、笑顔を見せてください」

 私がそう言うと、彼女は、笑顔を作ってくれました。目元には涙が浮かんでいましたが、それでも、今まで生きていてよかったと思わせるような、美しい笑顔でした。

 彼女から目をそらすと、今まで見たことが無いような、美しい景色が広がっていました。他の動物は、少し高いだけだと言うでしょう。でも、一つの景色しか見たことが無い私にとっては、それ以上の価値がありました。

 再び彼女と目を合わせます。先ほどより涙があふれ、笑顔も形を作るだけで精いっぱいのようです。それでもEさんは、とてもとても、愛らしかった。

 自分の身体が粒子になるのが分かります。もう視覚もままなりません。

「ああ、…私、今、とても、幸せです」

 すっと、意識が遠くなりました。

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