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虚構の定理  作者: márkos
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C1 夢の光景

C1 夢の光景

語り部:E

 夢咲県南東、住宅街。そのはずれ。

 過疎というほどでは無いが、人が少ないマンション。半ば時代遅れなデザイン。良く言えば閑静、悪く言えば物寂しいこの場所の二階の一室が私の自宅だ。そこのエレベータは今修理業者にお世話になっていて使えず、二階への急な階段の途中の明かりは消えかけて明滅している。私はそこで、最後に辛うじて残っていた何かを搾り取られた。


 自宅の暗い部屋。時計を見ると、針はどれも天を指していた。

 私は靴を脱ぐと、その部屋に転がり込んだ。やっと『休日』を終えて、会社から帰ってきたのだ。転がり込んだそのままの体勢で沈黙する。ゴトッと音がした。もう向こう十年は起き上がりたくなかった。このまま溶けてしまいたい。きっと素敵な疲労味のジュースができる。需要は無いだろうが。

 やばい。休眠が足りない。休みたい。泥のように眠りたい。少し頭も痛い。というかあの上司、システムエラーは明らかにあいつの責任なのに全部私らに押し付けてきやがった。あいつのケツを拭くのは私の人生史上最悪なくらいに大変だった。臭いし。あいつに慈悲の精神は無いのだろうか。いや、無いだろうな。あれに慈悲の精神があると仮定したら、そこら辺の偽善政治家は神様と呼ばなくてはならないだろう。そもそも、あいつらは私らを人間として見ていない。このようなことになるのは予想通りだった。何も驚くことはない。これが世界だ。これが、冥界だ。

 喜びたまえ、わが人生。明日からは『平日』だ。きっと今日よりも愉快な、いつも通りの一日だろう。パワハラ、セクハラ、罵詈雑言。おまけに残業、深夜帰宅。世の中にはこれに曝されても耐え忍び、逆に人々を諭して目標に先導できる『聖人』という人種が存在するらしいが、少なくとも私でないのは確かだった。もう疲労心労その他諸々が不気味に混ざり合った今の私に、崩れそうな私に、平常を保つというひどく高度な芸当ができるはずもない。正常な生命活動ができるかどうかも怪しかった。私は呼吸するために、さっきのようにため息をつこうとしたが、出たのは牛のような低いうめき声だけだった。


 ふと、昔はこんな暮らしをしていなかったことに気付いた。当たり前だという人もいるかもしれないが、私は本当にそんな事実をぽっかりと忘れていたのだ。もうこちらの世界に染まってしまった証拠なのかもしれない。そういえば、ひと月前も、一週間前も、今日の午前でさえ、頭の中を遊泳していたのは仕事のことだった。自分の前にそびえるものしか、考えてなかったのだ。つい数年前までは、そんなことは無かったのに。

 学生時代。時間は永遠ではないかと思うほど、使い切れないほどあって、私は愚かにもそれを全て浪費した。無駄に使いつぶしたのだ。

 よく友人と街角の喫茶店で馬鹿らしい話をして笑いあった。そういえば今日の午前に赴いたあの喫茶店はまだ学生だった私たちが毎週のように通っていた場所だった。

 みんなと趣味を合わせるために買い物もした。そういえば、あの時友人の一人に買ってもらった口紅はまだ使っていなかった。きっとそれは戸棚の奥で、寂し気にたたずんでいるに違いない。


 思い出したのは、今ではすることが不可能な思い出たちだった。

 そうだ、あの時は、今とは違ったのだ。

 今はどうだろう。どうなのだろう。


 友の所在は不明。ぬくもりは零。話す者無く、向かうは画面。がたん、がたん、屠殺場。悲痛の居城、灰の王。きっと私は、もう私なのだろう。私ではないのだろう。私が身を捧げたのは、精神を捧げたのは、時間を捧げたのは、今までは誰かのためだった。何かのためだった。それでは、今の私は一体何のために身を粉にしているのだろう。縛られているのだろう。国のためか。社会のためか。宗教のためか。いや、私に忠誠心なんてない。信心もない。何にも、ない。


 人は変わるというが、私のそれは変わり方の失敗の典型例なのだろう。もう私の心身は消えかかっていた。どこで道を違えたか、今更考える気も起きないほどに。


  はあ


 やっと人のため息らしいものが出た。熱気のようなそれは生命活動が出来ていることの証拠だった。そうやって、私は明日も生きていくのだ。私が今をどう思おうとも、生きていくのだ。息を吐いて、生きていくのだ。


 どのくらい生きていくのだろう。どれだけ生きるのだろう。


 気が付いたら、指が動いていた。心境に少々のほら話を加え、見るほうが馬鹿になりそうな文言を書き散らしている。もう意識は睡眠欲にほぼ呑まれているのに、指はよく動く。頭が、瞼が重くなり、画面に何を書いているのか、ほとんどわからない。それでも、今日書く文は行が少ないということは分かった。私はほとんど訳が分からなくなりながら、文章をアップした、のだろうか。もう頭は寝る体制に入っている。ほとんど周囲を知覚できない。脳が、働かない。

 そういえば風呂はどうしよう。少なくともスーツを脱ぐか。戸締りは…したな。この端末は、確か充電しながら操作しているのだよな。ああ、面倒臭い。面倒臭いから明日起きた時でいいや。全て、すべて。みんな、みんな。

 溶けていく。融けていく。


*  *  *

 

 ふと、夢を見た。

 遠い、遠い、昔のような、記憶にない少女時代のような夢。

背が低い私は、森の合間の道を進んでいる。無視できない程のひどい頭痛がする。周りには誰もいない。私だけが、延々と続くその森の道を、幾日も死に物狂いで歩いている。

 目が覚めた。封印を解かれたかのように、スローリーに起き上がる。時計は一時を指していた。先ほど就寝してから一時間弱程しか睡眠を取れていない。聞けば、睡眠をとるのにも体力がいるのだという。私が眠れていないのも、私の体力が無くなっている証拠なのかもしれない。

 それよりも、私は何で過去の夢を見たのだろうか。やれやれ、走馬燈というやつか。私の死期は近いのかな。いや、あんな風景と状況は、私の記憶には無かった。となると、『前』の記憶を、今頃になって思い出したのであろうか。


 せっかく子供みたいな夢を見たため、少女時代を思い出してみる。私は、自分がどこで生まれたのかは知らない。今の母に会うまでの記憶が無いのだ。

 私は、森に囲まれた小さな町のはずれで見つかった。なんでも、暑い中で汗まみれほこりまみれで倒れていたらしい。意識はなく、すぐに病院に担ぎ込まれた。私が眠っている間に、市役所や病院に私を放り込んだ人たちが、懸命に私の身元と親を探してくれていたらしいが、なぜか見つからない。仕方がないので、その人たちは私が昏睡から覚めるのを待っていたそうだ。もう小学校の低学年くらいだろうし、親の名前とどこに住んでいるかくらいは分かるだろうと。だが、私は分からなかった。記憶喪失だった。

 おそらくだが、今の夢は私の、記憶を失う直前の風景ではなかろうか。必死になって街を目指している夢だ。その果てに、私は倒れ、何もかも忘れたのではないだろうか。そう仮説を立ててみたが、詳しい事情は分からなかった。

 いつまでも身元不明の子供を放置しておくわけにはいかないということで、私は施設に預けられることになった。孤児や身元がない子供を預かっているような場所だ。そこを管理していたのが、今の私の母だった。

 全く記憶の無い私に、名前を付けてくれて、他の子と対等に扱ってくれた。あの母親がいなかったら、今頃私はもっとひどい人生を歩んでいたのだろう。母には、本当に感謝している。ああ、今度会いに行こうか。いや、そんな暇は、私にはない。悲しいが、私の日々は仕事で埋まっている。


 そんなことを考えていると、再び睡魔が襲ってきた。

 私は今度こそ、朝まで覚めない夢を見る。

 

※      ※       ※


語り部:???


 ふと、めまいがした。


 くらりくらりと、めまいがした。


 私の足元の方で、ヒキガエルが鳴いている。自分の手のひらに、つかめそうな赤い陽光が、斜めに差し込んでいる。朱から藍へ色づいた空の半分を、青灰色の雲が彩るように覆っている。私は仰向けだった。天に向かって大の字で寝転がっていた。

 あれ、と私は思う。ここはどこだと思う。思い出せない。ぼんやりとしていて、周囲が把握できないのだろうか。いや、本当に心当たりがない。まるでない。それに、そもそも私は誰だ。私の名前は何だ。職業は。年齢は。経歴は。だめだ、思い出せない。何か遠いリアルな夢を見ていた気がするのは覚えていた。だが、それ以外のことは、何一つ覚えていなかった。

 それなのに、この状況を不安がるような感情は私の心臓からは全く出ていなかった。脈はいたって正常。こうやって正常に振舞っていられるところを鑑みるに、記憶を失う前の私はこのような状況に全く臆さないほど強靭な精神の持ち主か、精神異常者か、碌な人間ではなかったのかもしれない。この場所に所以のある人物である可能性もあるが。いや、そもそも記憶喪失した人物の脳裏に記憶を失う前の人格が入り込むことはあるのだろうか。それとも私は、いわゆる多重人格というやつの、環境に適応するために新しくできた人格なのだろうか。それは私には全く分からなかった。どうやら記憶喪失前の私は精神科医ではなかったようだ。

 頭痛がする。片頭痛だ。頭の中心が脈打つたびに浮かぶように痛くなる。ずきん、ずきん。かなり痛い。死ぬほど痛いというわけでは無いが、行動に支障が出ることが予測できた。私は軽く舌打ちをしながら、顔をもうすでに宵闇に差し掛かりそうな天に向けて、三度深呼吸をした。すると、そのズキズキいう痛みも多少収まった。考えると、片頭痛自体悠久の昔に何度か見舞われて以来、一度もなかった気がする。

 気温は、とても高い。このまま雨が降らなかったら、多分熱帯夜となるだろう。高い湿度が私の肌にねっとりと巻き付き、私を絞め殺そうとしてくる。このままじっとしていたら、翌日には山中に一人の死体が転がっているだろう。とにかくそうなる前に動かなければならない。


 起き上がってみる。上体を起こしてみると、小さな河川と鬱蒼とした雑木林が目に入った。水が澄み、土でできた底が見える浅い小川には、ちょうどフナをそのまま小さくしたような魚が群れを成して泳ぎ、緑色の藻のついた石にはタニシのような巻貝がくっついている。その小川の向こうの雑木林はもはや夜の様相で、妖しい好奇心を触発するような闇が支配している。何か虫のようなものが飛んでいくのが目に入った。雑木林の中から、セミの鳴き声が鼓膜をたたく。私の鼓膜はその鳴き声の群れを、一匹一匹ではなく一つの巨大な物体の発する、ちょうどシャーという具合の擬音でとらえた。

 左右を見まわしてみると、そこには延々と続くのではないかというほどの、舗装などされていないまっすぐな道路があった。確認すると、どうやらこの道路はもともと森があったところを切り通してこしらえたものらしい。背後にも前方と同じような鬱蒼とした森があった。赤い光が右手に落ちているところを見ると、どうやら右手側が西であるらしかった。さっき起きた時と比べて日が落ちて周りが暗くなっている。この道路には街灯などというしゃれたものはなく、日が落ちるとすっかり闇に包まれるだろう。

 目を見張るほど大きなトンボが目の前を優雅に通り過ぎた。シオカラトンボの雄だった。それにつられるように私は立ち上がる。背が低い。私は子供であるようだ。それも、ちょうど小学校低学年程度の身長だ。だとしたら、これは笑えない状況だった。暗い夜中の森で孤独になると、大人でさえも簡単には帰れない。子供であるならば、それに体力の無さや視界の狭さ等が加わり、帰還は間違いなく困難になる。土地勘があればいくらかましになるが、私にそんなものがあるはずもない。さらに言えば、この場所からは町明かりが見えず道標もないため、街へのエスケープは絶望的であった。

 水もなかった。これでもかと水もなかった。安全な飲料水が無い。小川の水を飲むのもいいが、生水を飲むと下痢で取り込んだ水分の倍以上は出ていきそうだ。子供の身体でそれをやるとさらに危険だ。死ぬ。

 食料もない。腹は減っていなかった。だが、ただ立っているだけで生気生命気力気合が削られそうなこの森林世界では、ヒダル神に祟られるのは時間の問題だった。

 あらゆる面で八方塞がりだった。このままでは本当に危ない。はてさて、どうしたものか。


 私はとりあえず歩くことにした。いつまでもじっとして無意味に頭を巡らせているわけにもいかない。思考停止してはならないと思考停止したくはない。もう何も手掛かりがない以上、行動するのが最善の策のように思えた。私は西に向かうことにした。もう半ば夜になっている東方の地平線を凝視すると、僅かだが山のようなものが見えた。人の町とは、平野に多く造られるものだ。西方のまだ明るい空に山は見えなかったため、西方に平野があり、町があると踏んだのだ。合っているかは分からないが、これに賭けた。

 ほどなくして、辺りが真っ暗になる。周囲が見えない。草や木の葉の揺れる音や水音が、じめじめとした湿気とともに私の意識を包み込んだ。風が吹き、体感温度が下がっているのが唯一の救いか。

暗闇の景色に飽きて天を見上げると、満点の星空が見えた。夏の大三角形だけではなく、天の川や、名前も知らない小さな星々までくっきりと綺麗に見える。新月であった。天はあんなにも明るく見える。なのに、地は全く見えない。足元が、全く見えない。ふとした瞬間に道端の穴にでもはまってしまいそうだ。ふとした瞬間に、何か変なものに襲われてしまいそうだ。

 私はこの、人に恐怖を与えそうな夜の森林において、不思議と恐怖の感情を感じなかった。それどころか、高揚感すら感じていた。わくわくする。今にも小躍りしそうだ。鼻歌が出そうだった。それは私が暗闇の中の様子がなぜかよくわかることにも起因するだろうが、他の要因も少なからず絡んでいることは確かだった。現に、私は今の状況に軽いノスタルジーを感じている。この一瞬でお陀仏になりかねない状況を、私は懐かしんでいるのだ。楽しんでいるのだ。子供の体なのに。それはこの『子供』がおかしいのか、私が狂っているのか。メンタルセラピストでもない私には、やはり知る由も無かった。

 それにしても、この体には恐れ入った。確かに周りは見えない。黒い絵の具をまき散らしたかのように真っ黒だ。聴覚もくるくるとさざめくようなこの浮世の中では大して役には立たない。しかし、分かる。周りの様子が、なんとなく、直感的にわかる。小川の近くがえぐられて大きな水たまりになっていたところもこれで避けた。本当に、この『子供』は悪魔か何かなのだろうか。

 おっと

 余計なことを考えていたら石に躓きそうになった。予想外の興奮状態に体を着られてしまった。この感情は抑えないと、不測の事態が起きた時、満足に対応できないのは目に見えている。反省しなければならないのに、やめなければならないのに、この高揚感は麻薬のように全身を支配してしまっていた。

 まあ、これでもいいのかもしれない。とても気分がいい。このままこの魄を抱いたまま死んでしまうのも悪くはない。この感情に溺れるのも悪くはない。ああ、だったらいっそ、空回ってしまおうか。空回ってしまおうか。


 哨戒班。回る、回る、何がある。

 ミサイルは幕が上がるまで待っちゃあくれない。


 私は大きな傷跡のようなこの道を、延々西に進む。疲労は体に、感情に誤魔化されて、邪魔にならぬように奥隅に引っ込んでいる。


 のどが渇く? 芯が乾く? 不老科学? 鋭くいななく、夜の蓋。

 そんなもの、気にならない。

 そんなもの、最初から無かった。


 『子供』が、記憶を無くす前の人格が、素敵だ、素敵だとすべてを置き去りにして叫び、身の底から笑い泣きした気がした。


 気のせいか、気のせいか、なあ、夏の世よ、幽世よ。


 いけない万能感をにやけ顔に押し込めて、私は果てを目指す。

 ひたすらひたすら、果てを目指す。


 ああ、


 今宵はとても愉快だ。


 とても、とても、愉快だ。


 ただ歩むだけの『子供』と私の夜は、ゆっくりと更けていった。昇華するように、響くように、霞むように。


※      ※       ※


語り部:百合の花


 私の目の前に、突然変な生き物が降ってきました。

 どしゃんという大きな音とともに地面に打ち付けられたその生き物は、薄暗い所の黒曜石のような色をしていました。その黒はひらひらと風になびき、熊よりもずっと小柄な身体を覆っていました。毛のようなものは一目見るとおそらく頭であろうところにしか生えていませんでした。その毛の長いこと長いこと。一瞬黒いくじゃくが、風にあおられて落ちてきたのかと思いました。

 よく見てみると、顔立ちは猿に似ていました。平坦な顔に、前についている二つの目。その類の顔の猿に見られるように、顔面は全てはげていました。その生き物を、初めて見る生き物と認識して最初に感じたのは、何とも言えない不安感と既視感、猜疑心でした。普通、動物たちを見た時はそのようなことは考えないのですが、なぜでしょう。そのような愚かな感覚でとらえてしまったのです。


 私は、嫉妬心や懐疑心のような感情と自分を切り離して生きてきました。そのようなものを抱えて生を送れるほど私は器用ではありませんし、抱えたままだと自分が『私』に蚕食されてしまうからです。ネガティブな感情に支配されてしまうと、生き物というのは不思議なもので、憎いと思うもの以外のすべてが遠眼鏡を逆から覗いたかのように小さく狭く見えてしまうのです。そんな精神状態ではいい匂いを纏うどころではありません。自分も辺りもとても居心地が悪くなってしまうのです。それに、前に話した通り私には根っこがありますから、そんな状況から走って逃げることや避けることが出来ません。

 なので、私はどんな動物のことも、あえて深く理解しないようにしています。そして、私と彼らは違うものなのだ、と思うようにしています。私にも、彼らにも、いいところも悪いところもあると考えて、羨んだところを意識しないようにするのです。私は百合の花なので他者に嫉妬しやすいそうなのですが、あまり他の存在のことを考えないことで、それなりに平和な生を送ることが出来ています。

 でも、私はこの動物になぜか嫉妬心を感じてしまいました。どこにこんなに嫉妬してしまったのかは、さっぱりわかりません。私は危機感を感じて目の前のそれから意識を背けようとしても、それがうまくできません。何かこの動物から漂ってくる雰囲気というか、オーラというか、見た目ではない何かが、私をこうさせているのかもしれません。


 そんなことをしばらく考えていましたが、この動物はうつぶせに倒れたまま起き上がる気配を見せません。このまま目の前に倒れ続けられても仕方がないので、私はひとまずこの動物に起きてもらうことにしました。

 もしもし、もしもし、と声を掛けました。でも、この動物は起き上がりません。風に黒いひらひらが漂っているだけでした。

 今度は強い口調で声を掛けました。今度はその黒の中の方が少しだけもぞもぞと動きました。さらに呼びかけ続けると、今度はさっきよりも大きくもぞもぞとしています。私はもう少しで起きると思って、起きて、起きてと呼びかけ続けました。するとにわかに、


「申し訳、ございませんでした!」


 その動物が、起きながら絶叫したのです。一瞬私は、その動物が『何度も起こそうとしてくれていたのに、起きられなくて済まない』という意味でそう叫んだのだと思いました。双眸をカッと開き、必死に、乞うように叫びながら、その動物が目を覚ましたのです。いいえ、その様子は目が覚めたというよりも、閉じていた目が何かから解放されたと言った方が正しいのでしょう。その綺麗な青い瞳には潤みがあり、瞳孔の奥にはその青では相殺しきれないほどの恐れ、悲しみ、怒りなど、他者に対する生命の悪いところがほとんどみんな溢れていました。顔面蒼白で、とてもいい夢を見ていたという様子ではありません。今の謝罪は私に向けてではなく、夢の中の何かに向けられたものだったのでしょう。そういえば、さっきから何かにうなされているようにうなっていて気がしました。何か罪を犯したか、冤罪にでもかけられて、殺されそうになってそれを必死に止めようとする夢でも見ていたのでしょうか。

 その動物は、しばしの間息を荒くして安心したように半目になっていました。怖い夢から覚めて、とても安心したのでしょう。でも、しばらくするとにわかに半身を上げ、少し動揺したように辺りを見渡し始めました。きょろきょろとあちらこちらを見て、とても混乱しているようです。驚きで頭が回っていないという様子でした。

「あの」

 私は声をかけました。

「大丈夫でしょうか」

 動物はさらに驚いた様子で一瞬こちらを見ましたが、またきょろきょろとしだしました。必死に声の主を探しているようでした。私は、この動物は起きたばかりでまだ周りをきちんと見られていないのだと思いました。多分、私の背が低いのも、要因に上がるでしょう。

 私は再び声をかけました。

「ここです。大丈夫ですか」

 呼びかけると、動物は今度こそ、こちらをしっかりと見ました。さっきも言ったのですが、この動物は青いビードロのような、美しい透き通った瞳をしていました。その目を心底驚いたように見開くと、瞳の周りの白目があらわになりました。目の構造は、あの空に浮かぶ瞳に似ています。ヒバリは、その空の瞳は人間のものに似ていると言っていました。私は、おそらくこの猿に似た動物が人間なのだろうと思いました。

 その人間は困惑したかのようにじっとこちらを見つめていましたが、ふと何かを思いついたかのような顔になると、途端に納得したかのように頷きました。そして、私に向かって、恐る恐るといった調子でこう口を開きました。

「ああ、大丈夫だ。…あの、すまないが、ここはどこだか、教えてくれないだろうか」

「あら、この場所に心当たりは無いのですか」

 ここに来る動物は、普段からここに住んでいるわけではありません。大抵は、引っ越しや渡りの通り道として使って、すぐ通り過ぎるものばかりです。なので、この場所はその存在を知っているものしか訪れないはずです。それなのに、この場所を知らないというのは妙な話でした。

 それに、私は外のものが呼ぶこの場所の名前を知りません。ここはどこなのか、と聞かれても、どう答えていいのか分かりません。

「ああ、無い」

 人間は、きっぱりと答えました。

「自宅で眠っていたら、急にこの場所に飛ばされた。どうすればいいのか分からない」

「じたく…とは?」

「え?…あ、ああ、寝床みたいなものだ」

 寝床…熊が昔話してくれたあれでしょうか。その寝床で眠っていたら、ここに飛ばされてきた…自分の意思と関係なく、この場所に来てしまったと、その人間は話していました。そんなことがあるのでしょうか。でも、寝床で寝る動物が、寝ながら移動するでしょうか。ツバメなんかは寝ながら飛ぶそうですが、おそらくその人間という生き物は空を飛べそうにありません。上から降ってきたのに、更に妙な話です。

「あの、聞きたいのだが」

 人間が、視線を改めて、こちらと目を合わせました。こうしてみると、その人間はとても鋭い目つきをしていました。それは生来のものというよりは、後天的にそうなったのだという印象でした。何か、膨大な、巨大なものに虐げられながらも必死になって抗い、向かって行っている者の目でした。その悪い目つきでしっかり見据え、

「ここは、夢の中なのだろうか」

 こう、言いました。私は、言い放ったその言葉の真意がつかめず、しばしの間、きょとんとしてしまいました。でも、なんだか可笑しくなってしまい、私は笑ってしまいました。こんなに大声で笑ったのは、随分と久しぶりです。もしかしたら、私の生の中ではこれが初めてかもしれません。存分に笑い、そして気が付くと、人間はさっきの通りに見据えたまま、固まっていました。眉が少し寄って、口が結ばれています。瞳からは、淡い心配の色が見て取れます。私が答えるのを待ち、自分は何か間違ったことを言ったのではないかと心配しているようでした。

「ああ、ごめんなさい。あなたが悪いわけでは無いのです。なんだか急に可笑しくなってしまって。ああ、そうですね。あなたにとっては夢かもしれませんね」

 私は一拍おいて、

「あなたは知らないと思いますが、あなたは今さっき、急に空から降ってきたのです。あなたの身体はおそらく空を飛ぶために造られたわけでは無いのでしょう?ここに飛んできたのでは無いのでしょう?だったら、ここはあなたにとっては夢の世界なのかもしれません。夢に落ちた瞬間に、ここに来たのかもしれませんね」

 もっとも私はこれを現実だと思っていますが、もしかしたら私にとっても夢かもしれませんと、こう言いました。人間は、分かったような、分からないような、今一つつかめないような、そんな表情を見せました。どうやら今の言葉の意味は上手く伝わらなかったようです。当たり前です。私もよく解らないのですから。

「えっと、つまり、この空間は、私にとっては夢の世界で、あなたにとっては現実世界の可能性が高いけれど、実際のところは分からない、ということですか」

「正解です」

 もうこれが正しいということでいいですね。あまりに急な出来事なので、私も知らず知らずのうちに混乱してしまったようです。自分でいうことの整理ができないほどには参ってしまっていたようです。

「なあ、この周辺に人の町か何かはあるか」

 また、人間は質問してきました。

「大変申し訳ないのですが、私には分かりません」

「分からない?」

「ええ。私は百合の花です。御覧の通り、根っこがあります。ここに生れ落ちてこのかた、この景色の中から移動したことがありません。地面が重い分銅のように、私の根をばっくりとくわえて離さないからです。ですので、どの方向に何があるかは知らないので、非常に残念ですがお教えすることはできません」

「…そうか」

「申し訳ございません」

「いや、いい」

「それに、この世界があなたにとっての夢であるならば、きっと朝になったら覚めるでしょう。これが夢であるという確信があるのなら、焦らずともいいと思いますよ」

「…そうか、ありがとう」

 人間は一拍おいて。

「ずっと、この場所に一人なのか」

「ええ。ずっと」

「話し相手はいないのか」

「今はいませんが、時々動物たちが旅の途中でふらりとやってきて、話し相手になってくれることもあります」

「…どのくらいの頻度だ」

「さあ。ここには暦がありませんので、正確には分かりません。今まで動物に会ったのは三十数回といったところでしょうか。でも、この前来た象が、十年前に来た時と全く変わらないねと言っていたので、少なくともそれ以上は生きていますね。私は百合の花にしては大分長い時を生きているらしいです」

「…孤独感に苛まれることは無いのか」

「ありません。私にはいつも風がついていますから」

「風?」

「ええ。いつも私は風とお話ししているのです。風はいつも私の傍にいて、私に語りかけてくるのです。それに私はいい匂いを纏って答えます。楽しい暮らしですよ。風はどんな自慢も聞いてくれるのです」

 優しいそよ風が、私の花びらを撫でました。

人間の長く黒い毛も、それに合わせるようになびきました。

ゆるく、ゆるく、私たちを、包むように。

「…そう、か」

 人間は、そう呟いて目を背けました。風に凪がされるように、綺麗に背けました。その態度に、私は心の杭を外されかけたような、そんな嫌な気分になりました。

「あなたは」

「ん?」

「今度はあなたの出自を教えてくれませんか。私ばかりが質問に答えるのは、あまり面白くありません」

「…それもそうか。いいぞ」

「では、あなたの名前は」

「E」

「あなたはどこから来たのですか」

「日本国、夢咲県夜谷市のはずれだ」

「それは、どんなところですか」

「森がきれいな場所で、そのほとりの綺麗な池の群れも有名だ。あと、市街地から少し外れると、夜には真っ暗になるそれなりに深い谷がある」

「その場所で、あなたは普段何をしているのですか」

「仕事だ。生きるために、身を粉にして社会活動に邁進している。何か他人の役に立つようなことをして、世界で無事生き残るための物資やすべを享受している」

「素晴らしいですね」

「そんなに褒められることじゃない。向こうじゃみんなやっている。私はその中でも、まるで絵に描かれたかような底辺で活動している」

「どのくらいひどい場所なのでしょう」

「…味方がいない、友もいない、どうやら守護霊すらもいない。そんな中で、暗闇の泥の中を這うような、そんな素敵な体験ができる場所だ。あなたも体験したいなら、今すぐ我が社にお電話を。おすすめはしないけどな」

「すいません、我が社に、おで、で、…の下りが少し分からなかったのですが」

 そう私が言うと、彼女は、ああ、そういえばという調子で、彼女の世界の技術やその産物について、教えてくれました。携帯型端末のこと、そしてその中にある遠いところでもお話しできる道具や、文章を共有する魔法のような道具を。そして彼女はそれを頼りに何とか生きているということを。

「大分便利な道具なのですね」

「ああ。これがなかったら、今頃首をくくって死んでいた」

「はあ、そうなのですか」

「私は、こんなところで必死に働いている。世の中には、な、私ほどじゃあなくても、これに共感してくれる人がたくさんいる。そんなひとの共感してくれるコメントを見ると、私は一人じゃあないと思えるんだ」

 この人の鋭い目つきが、この話をしている間は緩んでいるように見えました。

 私は、この人の正確な心境が分からないために共感の言葉を使うわけにもいかず、どんな言葉を使えばいいのか分からず、少しの間、黙ってしまいました。

 すると、Eさんは、僅かに微笑んでこう言いました。

「でも、私、今日あなたに出会えて良かった」

 どういうことでしょう。

「私とあなたは、なんだか似ているような気がするんだ」

 私はその言葉の意味が解らず、理由を教えてください、と体を左右に揺らしました。

 Eさんは、私の仕草に答えようと、口を動かしました。


 その刹那、Eさんは、幽霊であるかのように、空にふっと消えてしまったのです。


 私は、しばらく呆然としていました。当たり前です。いきなり何もなかったかのように消えてしまったのです。維管束に鉛が流し込まれたかのように固まっていました。でも、状況が理解できて、気持ちが落ち着くと、私は直感でこう感じました。

 ああ、Eさんは夢から覚めたのですね。

 そうすると、なんだか私は寂しくなりました。もっと話しておけばよかった、と後悔しました。もちろん、夢から覚める時間は天が定めるものですが、なんだか私が悪いような気がしたのです。さっき、いえ、今も軽い羨みのようなものを抱いているのですが、それと同時にまた会いたいと思うのは、これが初めてです。

 でも、少し引っかかることもあります。今彼女が言いかけたことももちろんですが、それ以上に気になるのは、あの、空の瞳に全く頓着しなかったところです。あんなに大きな、場に閉塞感をもたらすあの単眸を、全く気にせず、全く話題にしなかったのです。いえ、あの様子は、気づいていなかった、と表現した方が正しいのでしょう。起きてきて間もないころには辺りをきょろきょろと見回して、瞳の方に視線を向けたはずです。でも、彼女はそこには何もないかのように、行動していました。その理由を知りたいのですが、当の本人がいなくなってしまったため、その理由を今は知るのは非常に困難でしょう。

 私は彼女と話したいことが山ほどあります。それは彼女もおそらく同じでしょう。私は、これ以上首を突っ込むのは危険だと頭では分かっていながら、心を抑えることはできませんでした。私のこの嫉妬心の根源や、彼女のどこにこんなに引かれているかなどの、このもやもやは次に彼女と会った時のためにとっておこうと思います。


 ふう、と息を吐いて、私は上を見上げてみました。

 そこにはいつも通り、あの三日月模様の瞳が、ぽっかりと浮かんでいました。

 いつも通り、いつもと同じです。

 すると、その瞳が、瞬きをしたような気がしました。


 それと共鳴するように、

 私の中で、

 何か重大な

 『記憶』が、

 瞬いたような気が、しました。


 あら、なんでしょうか、なんでしょうか。

 もう一回思い出そうとしましたが、それは私の心の奥底へと再び潜ってしまいました。

 私は急に怖くなって、再び『それ』を見上げました。

 瞳は、いつも通りに空に浮かんでいました。

 いつもどおり、いつも通り。


※   ※       ※


語り部:???→子供


 もう、疲れた。


 愉快なんて甘い言葉は、とうの昔に砂になっている。今あるのは苦痛のみだ。


 不思議と、喉は乾かない。ヒダル神も祟らない。身体は起きた時よりも軽く、動きづらいと言えば噓となってしまうほどだ。だが、片頭痛が、延々と私に波打ってくる。淡々と、追いやってくる。起きた時のそれよりも酷い頭痛だ。悪化している。

 頭痛に、体の髄まで蝕まれる。私の脳が、そう警戒音を発している。その警戒音すらも、頭痛を悪化させてしまっていた。心臓が、脳の中で鼓動する。それはドクンドクンという生易しい音ではなく、割れ鐘を叩くような崩壊音を伴い、私の脳裏に無数の矛を刺す。断続的に、一定周期で、神経を押しつぶしてゆく。


 私は、そんな状況で歩き続けている。こんなところで止まっても、まったく意味はないのだから。町があるかもしれない。歩き続けなければならない。

 もう幾日積み重ねたか、見当もつかない。もうとっくに歩みは無意識に任せ、何度も気が遠くなりながら、歩み続けている。私は延々と続くこの旅路を、半ば無意識さえも手放しながら歩いている。


 凸凹を増した、私の道。

 歩まねば、進まぬ道。

 私は今日も、歩いている。

 意識の中を、倒れそうに、失神しそうになりながら、歩いている。


 切に願う。

 助けて、くれ


※   ※       ※


語り部:とある『存在』


夢咲県箱峰市、南東

天気は快晴

戦後から続く、歴史のあるイタリア料理店にて

 やつは、私との個人的な会合だというのに、辛気臭い黒スーツを着てきた。そういえば、こいつは古いものを集めるのが好きだったか。少し前時代的な、渋い服装を着込む三十代の男のような姿は、なかなかに様になっていた。

 私は、そんな服など持っているわけでもなく、ラフな服装だった。何かを対決している訳ではないのに、なぜだか悔しい思いがした。

 そんなことはどうでもよかった。今は相方が持って来た『土産』だ。昔預けていたものが面白い事になったので、今から見せてくれるという。

「ああ、君は端末に変えたのか」

 相方が頷く。何でも、最初は昔それを以前の方法で管理していたらしいが、途中でスペースに困り、ついに電子端末による管理へ変更したらしい。合理的な判断だった。

 管理者画面を開きその画面をのぞき込むと、『百合の花』が見えた。それと目が合う。その後、『百合の花』はなぜか震え始めたが、私はその生命に大いなる可能性を感じていた。聞けば、相方はこれの管理者権限を再び私に戻したいのだという。それは、私にとっては最高級の『土産』だった。それの『物語』の結末を、見届けられるからだ。

 バッドエンドは飽きた。私はそろそろハッピーエンドが見たい。相変わらず悪趣味だな、と相方が発言した気がするが、きっと気のせいだろう。今は『こいつら』だ。この先の展開が、楽しみでたまらない。


※   ※       ※


語り部:E


 目が覚めた。

 ぼんやりと覚醒する。身体がかゆい。昨日風呂に入ってないからだ。

 重い頭で考える。ああ、私は夢を見ていたのだ、とてもとても、現実的で超自然的な夢を。目の前には白と黒の景色。鏡合わせのような地面に、その白百合は可憐に咲いていた。妙に淑女的な語り口に、私は、なんというか、ようやく宝物を見つけた時のような、鋭く、鼻の上の方と眉間にじわじわと広がってくるような心地よい喜びを感じたのだ。なんとなく、この人とは、いや、この花には私と似たようなものを感じた。この花とはずっと話していたいと思えた。だが、現実は、そんな風に逃げようとする私を許すはずはなかった。

 時計を見ると、それぞれの針がちょうどきっかり真反対を指していた。昨日寝たのが深夜で、今日起きたのが早朝である。もう体内時計がこんな風に調整されてしまっているのかもしれない。まだ頭はぼんやりしているし、まだ体がだるいが、そんなことで会社を休めるのならば、日本全国ほぼ全員がそうしている。

 そんなことを考えている間に、私の身体は会社に向かって準備を始めていた。まず、風呂に入らなければいけない。着替えなければいけない。最低限の食事もとらなければいけない。これもすべて、会社のためだ。

「ああ、」

 私は思わず呟いた。

「会社、行きたくない」

 私の指も、そう呟いていた。


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