①
カタカタカタカタカタカタ
どこかで軽快なリズムが聞こえてくると思ったら、自分の歯がタップをしている音だった。
心臓も早打ちの太鼓のように鳴っている。
波打つ心臓に追い出されるようにして吐き出される息は荒く、壊れたおもちゃのように手のひらが震えている。
まるでオーケストラを奏でているみたいだと思った瞬間、ふと、足元を見ると指揮者はこのやたらと毛の長い絨毯に転がっているこの男だと分かった。
指揮者が棒を振っている間、演奏者は音を奏でることやめてはいけない。
この男の死が自分の体のパーツを自在に操り、幾重もの音を出させている。 死んでもなお、苦しめるのか。それともまた間違っていたのだろうか。
しかし、このやり方しか方法はなかった。
守らなければならないものまで壊して得た結論だ。
絶対に間違っていないはずだ。
絶対に。
「捜査一課の針金豊だ。入らせてもらいたい」
碁盤の目に沿って建ち並ぶ一軒家で殺人事件が発生したと非番招集を受けて、指示された現場に来てみれば既に野次馬とマスコミで溢れかえって騒然としていた。
そばにいた制服警官を捕まえ身分を伝えると、照会するので少し待ってほしいと言われる。
針金は自宅から急行で現場に向かったため手帳を所持していなかった。
こんな時、手帳の効力がいかに凄いかよく分かる。今の自分はただの一般人となんら変わりはないのだ。
「針金警部補、失礼いたしました。どうぞ、お入りください」
無事に針金の身分が証明されたようで目の前に立っていた制服警官がバリケードテープを持ち上げ向こう側へ入ることを促した。 ブルーシートが野次馬やマスコミ関係者の目に触れないように家の周りを囲っている。
シートの継ぎ目を掴み、そのまま勢いよくシートを捲り上げると同僚の篠原と目が合う。
篠原は玄関付近で待機していたようで何故か眉間に皺を寄せ、目を吊り上げている。
「針金さん。ブルーシートを開けるときは最小限にしてくださいっていつも言ってますよね!?さっきカメラ小僧が無理矢理中に入ろうとしたのを必死で追い出したばっかりなんですから!無駄な仕事を増やさないで下さい!」
「ああ、すまない」
スクープを狙おうと躍起になって節度を守らないマスコミも厄介だが、最近は携帯電話のカメラ機能が異常に高くなってきたせいで、一般人でも立派なカメラマンになれる。残忍な事件現場を面白半分で撮影しSNSに上げてしまうため、時として捜査の妨げになるときがあり、素人はある意味マスコミよりたちが悪い。
のっそりと針金の大きな体が目の前を横切り現場に入っていく姿を篠原が目で追っていく。
捜査一課の中では篠原が一番身長も体つきも小さい。
やたらと背の高い同僚たちの横に並ぶと幾ら成人男性の平均値をもってしても、篠原は小さく見られがちで他の捜査員や制服警官になめられてはいけないと、自然に口ばかりが達者になってきた。
「針金さん、靴!」
玄関を除いていた針金がそのまま現場に入ろうとするのを篠原は慌てて制止する。
針金の視線が宙ぶらりんの足元にいき、そのまま篠原に目線を移す。
瞬時に意味を読み取り、乱暴に溜め息をつくと傍で足跡の採取をしていた鑑識係に声をかけカバーを貰い受けると勢い良く針金に放り投げた。
「おっと。投げるなよ」
篠原からカバーを受け取ると、大きい体には似つかわしくないくらい器用に片足を上げカバーを上手にはめていく。
あのまま部屋に入ってしまっていたら、係長に大目玉をくらい、鑑識課長からは長い長いお説教を食らっていたかもしれない。
「気を付けて下さいね。怒られるのは針金さんだけじゃないんですから。それにまだ入れませんよ」
「今日は堀内さんの班が臨場してるのか」
周りを見渡すと、先程カバーを渡してくれた鑑識係は堀内の班の者だった。
鑑識課長の堀内は職人気質で現場を乱されることを一番嫌い、現場では堀内の許可が下りるまでたとえ捜査一課でも現場に足を踏み入れる事は許されない。
以前、配属されたばかりの篠原が許可もなく現場に立ち入り、証拠品に誤って指が触れて落して傷つけてしまったことがある。
その事が堀内の逆鱗に触れ、捜査一課全員を呼び出し現場保存の大切とは、証拠品の扱いは如何に大事かという講義をろくに休憩も入れず六時間に渡って堀内はしゃべり続け、サハラ砂漠のような説教にメンバー全員が暫くトラウマから立ち直れなかった。
再びシートが動く音がした。
振り返ると、二班のメンバーがこぞって入ってきた。
先頭は班長の柴田、その後ろに加藤、山之内が並んでいる。
「すまん針金。休みの日に呼び出して」
片手を上げ針金に詫びるのは柴田だ。
柴田の祖父はイタリア人で、柴田はクウォーターであるにも関わらず、190センチ強の背丈があり、その顔立ちは彫が深く目は鳶色をしている。
道を歩けば外国人に間違われ、話しかけると驚かれることは今や日常化としている。
「針金さん、手帳です」
頭を短く刈り込んでいる、野球少年のような加藤が駆けより、スーツの懐から警察手帳を取り出して針金に手渡す。
相棒でもある加藤に礼を言ってから手帳をしまい目線を柴田に向け状況を聞いた。
「どうでした?」
招集を受け未だ現場に入らせてもらえない柴田達は周辺の聞き込みや監視カメラの場所を探していたに違いない。
「昨夜のどしゃ降りの雨で目撃情報はなしだ。監視カメラもこの先の大通りまで出ないとなかった」
柴田が、こりゃあちょっと面倒だなとぼやく。
「ガイシャは金融業の男です。首を絞められて倒れているのを出勤した社員が見つけました」
加藤が自分の手帳を広げて針金に報告する。
この建物は自宅兼事務所にしているそうで、数人の社員が出入りしていた。
「出ますかね」
昨日は朝からずっと雨が降っていた。建物周辺の証拠は壊滅的かもしれない。せめて家の中だけでも何かあればと、明るい髪色の山之内が心配そうに尋ねる。
柴田は片手をスラックスのポケットに突っ込みトレードマークの無精ひげを手のひらで撫で付けニヤリと笑う。
「あの人が臨場した現場で何も見つけられなかった事なんてないだろう。大丈夫さ」
必ず成果をあげてくるかつての恩師に柴田は敬意を表している。堀内が出してきた証拠は絶対に言い逃れができない確たるものばかりで、彼の熱意が裁判官の心を動かし犯罪者に正当な罰を下させる。
「おい、一階の事務所は入っていいぞ。-なんだ、今日はお前たちか。相変わらず色男ばっかりだな」
しわがれた声に反し目は鋭い光を放って見渡しているのは陰で捜査本部の閻魔大王と呼ばれている堀内だった。
「堀内さんに自慢の容姿を褒めていただけるなんて光栄です。-ところで、面白そうなもの見つかりましたか?」
堀内は柴田の軽口を鼻であしらい、事務的な事だけを伝えてくる。
「この奥にある社長室の中がだいぶ荒らされてやがった。拾えるもんは拾ったが量が多くて鑑定に時間がかかりそうだ。ホトケさんは解剖に出してみんと分からんが、昨夜の二十二時から二十四時の間に殺されている。恐らく絞殺だ。それ以上は夕方の捜査会議で教えてやる」
「了解です。二階も終わり次第入らせてください」
堀内が奥に続く廊下を進もうとすると、何かを思い出したかのようにくるりと振り返り苦い顔つきのまま柴田に忠告する。
「事務所には部下を一人付ける。何か見つけたらそいつに知らせろ。柴田、絶対に俺の部下を口説くんじゃねーぞ」
そう言うとまた奥の部屋にもどり、複数の鑑識係と共に二階に上がっていった。
堀内の背中を見送ると柴田がため息漏らす。
「また言われちゃいましたね」
肩を落とす柴田に篠原がからかうように声をかけた。
「さすがの俺も堀内さんの部下には手を出さないさ」
相変わらず片手をスラックスのポケットに入れたまま、男らしい眉尻を下げて唇の端をあげる柴田はどこかの雑誌で見かけるモデルのようだ。
「堀内さんのところだけじゃなく、同業者全般に手を出さないで下さい。上司が痴情のもつれで頬を殴られたなんて、俺達部下は聞きたくありませんから」
針金の注文に柴田は肩をすくめただけだった。
外見が派手ならその私生活も煌びやかな彼は、何かと署内の噂に上がりやすい。おかげで二班のメンバーは聞きたくもない上司の噂を常に聞かされ辟易していた。
「殴ったのって広報の子でしたっけ?」
篠原の問いに加藤が答える。
「ああ。あんなに優しそうな子だったのに何やらかしたら殴られるんだか…」
捜査一課の若手ホープを取材に訪れた本部の広報課職員と恋仲になったと聞かされたのはおよそ半年前。
鑑識課から捜査一課へ移動し着任直後に自分の班をもち、班のメンバーも柴田一人で声をかけて回ったという異例尽くしの事態に是非ともインタビューさせて欲しいと広報課からの依頼で柴田に密着していた。広報課も厳密には警察官だが、柴田を取材にきた職員は警察官というよりは役所の相談窓口にいるような朗らかな雰囲気をまとわせ、終始笑顔を絶やさない好青年だった。
「相手が班長じゃ、殴りたくもなりますって」
「それもそうか。目が合ったら男女問わず哺乳類全てに均等な愛を注がねばならないという我々の常識を超えた家訓が班長にはあるんだからな」
「難儀な家訓ですよね。俺なら愛が底をついちゃいますよ」
「班長の愛は底なし沼だからな」
「だから泥沼に発展するんですね」
頷きあう篠原と加藤に「お前らその辺にしておけ。でないと今度の賞与の査定を下げてやるからな」と柴田の呪いが飛んできた。
篠原と加藤にガラスのハートを粉々にされた上司は横暴な手段で話の腰を折った。
「パワハラだ!加藤さん、部長に言って問題にしてもらいましょう!」
騒ぐ篠原と勝ち誇った柴田の間にそれまでずっと黙っていた山之内が割って入ってきた。
「班長そろそろお願いします」
「おっと。そうだな」
柴田の顔が引き締まる。
同時に緩んでいた空気が一変し、緊張感のあるものに変わった。
「さて、俺たちの班の出番だ。お前たちの知恵と経験を全てこの事件に活かせ。そして犯人逮捕に全力を注げ」
柴田の号令で全員が背筋を伸ばし一斉に「はい!!」と空気を震わせて返事をした。
大学を卒業してから二年、両親の経営する「レガーロ」という花屋で働いている中村友太郎は半年前、この店を両親から譲り受けた。
小さい頃から両親の仕事を見て花屋という仕事を熟知しているつもりだったが、まだまだ自分の知らない事が多く、競り市に赴くと顔なじみになった経営者を捕まえては相談を持ち掛けている。
レガーロは商店街の中に入っているため、客層はバラバラだ。その為買い付ける花も多種多様で、競り市の帰りに栽培農家さんのお宅に寄って朝市では手に入らない稀少な花を分けてもらうこともある。
店に父の代から乗り継いでいる軽自動車を横付けし、山積みになった段ボールを荷台から降ろし店内に運び入れる。
切り花が入っている段ボールを開け、予約分と店に並べる用に花を分ける。
次に水揚げという作業に取り掛かる。
水揚げとは、花が水を吸いやすくするための処置だ。花の種類によって水揚げの仕方は変わるのだが、これをすることによって花がより長持ちし買われていった先でも美しい姿を長い間保っていられる。一本ずつ余分な葉や茎を取っていくのは大変な作業だがお客さんに喜んでもらえるために気合いを入れて取りかからなければならない。
「今日の予約は、マチ子さんのクラブと石沼シェフのお店と泉さんの所のお稽古用のお花だけだったよな。あ、田所のばあちゃんの仏花も用意しとくか。確か今日が月命日だったはず」
一人暮らしが板についてくると自然と独り言も多くなる。
水揚げが終わるとバケツの水替え、植木鉢のメンテナンスと水やり。この子たちを最高のコンディションでお客さんの前に着飾って出してやりたいので、開店前はとにかく忙しい。
店内を見渡し一通り終わったことを確認する。開店には幾分まだ早いが、ふと田所のばあちゃんが早く来るかもしれないと思い店のシャッターに手をかける。
だがこの古びたシャッターが曲者で男の友太郎が持ち上げても中々スムーズに上がってくれない。
両親が経営していた頃は父がシャッターを上げる役割をしていて、どうやらコツがいるらしく父は悠々と上げていた。
友太郎が店を譲り受ける際、両親から独立祝いにシャッターを自動に変えてやると申し出てくれたのだが、このシャッターが父の様に軽々と上げられるようになったら友太郎を一人前と認めて貰えるような気がして両親には丁重に断った。
「さて、今日のお姫様のご機嫌はいかがでしょうかね」
シャッターの水切り部分を持ち、脛まで待ちあげると後は重量挙げ選手のように勢い良く上げる。運が良ければ一度で開けられるのだが、全く上がらない日もある。
上手く開いてくれよと祈りながら歯を食いしばり両手で重たいお姫様を担ぐ。指先に力を入れると先日、火傷をしてしまった指先がずきりと痛んだ。
と、その時、重量級のお姫様が魔法にでも掛かったかのように自動でギュギュギュっと上がっていった。
「え?」
気ままなお姫様は友太郎の不器用な腕に愛想をつかし,遂に自分から開け始めたのか。
そんな馬鹿な発想をしていると下から人の指が見えた。それも片手だけ。
まさか、と思っていると商店街中に響く大きな音を立ててシャッターが開くと目の前に黒い大きな塊が見えた。
熊だ。
そう直感で思った。
店の前に巨大な熊が朝日を背負って仁王立ちしていたー。