6.王子様は×××のようです。
その後、オリヴィエのおかげでアシュリーは無事に屋敷へと戻ることができた。
約束通りオリヴィエは夜食の準備とお風呂の準備をしてくれていた。 そして、魔法を解いてくれて、再度着替えを手伝ってくれて、お風呂に入るようにと言ってくれたのだ。
アシュリーは二度目の入浴を済ませ、もう一度お湯を溜め、丁度溜め終えたところでモンスター家族が帰宅した。
謎の【雲英雪の妖精】効果で、継母と継姉たちの不平不満がアシュリーに向くことはなかった。
アシュリーが別人に見えるというオリヴィエの魔法は完璧だったようだ。 けれど、アシュリーは気が気でなかったし、表情がが引きつっているかもしれないと心臓が痛かった。
とりあえず、今は万事休す、だが。
これでは、アシュリーがその謎の【雲英雪の妖精】とばれたときが、やばい。
モンスター家族情報では、舞踏会の会場に戻った王子様は微笑んで、「私の雲英雪の妖精は、急用で帰らざるを得なかったようです。また、改めて父上と母上には紹介させていただきます」とのたまったらしい。
だが、残念だ、王子様。
貴方の知っている【雲英雪の妖精】が、貴方の目の前に現れることは二度と、ないだろう。
屋敷に戻ってきて、お風呂に入って落ち着いて、冷静になったところで気づいたことだが、王子様が見初めた【雲英雪の妖精】なんて、この世のどこにもいないのだ。
あのとき、王子様の目に映っていたアシュリーは、オリヴィエの魔法が作り上げた偶像なのだから。
王子様が求めたのは、アシュリーであって、アシュリーではない誰か。
そう考えると、胸の奥がチクリとするような気がしたが、きっと気のせいだ。
男のアシュリーが王子様の妻になる必要もなく、王太子の妃だなんて重責を背負わされる必要もなくなる。 実は男だと知られたときのことに怯えて、生きることもないのだ。
あの王子様にだって、アシュリーではない誰かのほうがいいに決まっている。 王子様の隣に似合う容姿の、魔力のある、由緒正しき家柄の女性。 その女性なら、身辺調査などされることも、きっとない。
ほら、お互いにとっていいこと尽くしではないか、と思い直したアシュリーは、満面の笑みを浮かべてぐっすりと眠りにつくことができた。
のだが。
「アシュリー、知っている?君、ゴシップ誌の一面を飾っているよ」
アシュリーは、朝が早い。
日付が変わってから帰ってきた継母と継姉たちは、恐らく昼近くまで眠っていることだろう。 けれど、アシュリーは昼まで眠っていることなど許されない。 今日もいつもと変わらず同じ時間に目を覚まし、彼女たちのために、いつもの如くブランチの準備に取りかかったところで、煙のようにオリヴィエが現れた。
もちろん、屋敷の警報は今回も鳴っていない。
だから、問題は、オリヴィエがここにいることではなく、オリヴィエがぴらぴらと振ってアシュリーに見せてきた折り畳んだ紙面だ。
「!!!」
アシュリーは目を剥いてあんぐりと口を開いた。
今、オリヴィエは、アシュリーがゴシップ紙の一面を飾っていると言ったのか。
よりにもよってゴシップ紙。 なんてものが出回っているのだろう。
アシュリーがオリヴィエの手にしていたゴシップ紙をひったくろうとすると、料理途中の手で紙面に触れられるのを嫌がるかのように、オリヴィエは一歩退いて紙面を開いて見せてくれた。
その紙面には、『オキデンシア王太子・クレイディオ殿下ご婚約』、の文字がでかでかと躍っていて目眩がする。 アシュリーと王子様のダンスの現場が押さえられていないことだけが幸いだ。
「大丈夫だよ、プライバシーの問題があるから、君の顔は映ってないないよ」
「そういう問題ではないです…」
にこ、と微笑んだオリヴィエに、アシュリーは膝から崩れ落ちそうになる。 というか、崩れ落ちて床に膝をついた。
顔面を手で覆おうとして、思いとどまったのは、ついさっきまで刻んでいた玉ねぎの臭いに「ウッ」となったからだ。
そして、アシュリーは不可思議なことに気づく。
「というか、どうしてオリヴィエはここに?」
わざわざ、アシュリーにゴシップ紙のことを教えるためにやって来るほど暇なのだろうか、オリヴィエは。
アシュリーが問うと、オリヴィエはアシュリーが今までに見たことがないくらいに苦い顔をする。
きっとあれは、苦虫を噛み潰しているのだろう。
「面倒なことになってね。ちょっと避難してきたんだよ。男の嫉妬ってどうしようもないよね」
苦い顔をしていると思ったのだが、最後は鼻で嗤っている。
結局オリヴィエが何が言いたいのかはわからない。
そんなこんなでオリヴィエにも朝食を振る舞い、いつも通り洗濯をし、人目につくところの掃除をし、起きてきた継母・継姉たちにブランチを出す。
そして、アシュリーもささっとお昼ご飯をいただいて片づけをし、人目につかない奥の掃除を始めたときだ。
従者を引き連れた王子様が現れて、「あっやべっ」と言ってオリヴィエが姿を消したのは。
ということで、冒頭――1.サンドリヨンは×××です。――に戻る。
捕まったら大変なことになる。
その確信が、アシュリーにはある。
アシュリーは犯罪者でも何でもないのだが、「捕まったら」という言葉が無意識に浮かぶほどの心境だった。 追い詰められている。
ああ、冷汗と動悸が止まらない。
アシュリーは別室の物陰で可能な限り息を潜める。
さて、継母の中では、王子様の【雲英雪の妖精】とアシュリーがイコールという図式が成り立っていない。 それゆえに継母は、王子様の要求を突っぱねてくれているし、自分の実の娘たちを王子様に売り込もうとしているらしい。 アシュリーが淹れた紅茶を継姉その一が運び、アシュリーが作ったクッキーを継姉その二が運び、王子様へ猛烈アピールをしている。
この辺の神経は、流石としか言い様がない。
だが、ここでアシュリーはふと気づいた。
昨夜も思ったが、王子様が気に入って婚約者にすると言ったのは、オリヴィエが魔法をかけたアシュリーなのだ。
今の魔法を解かれたアシュリーを見ても、【雲英雪の妖精】と気づかないに違いない。
例えば気づいたとしても、王子様が見初めた【雲英雪の妖精】とアシュリーが違いすぎることに失望して、百年の恋も冷めるのではないだろうか。
むしろ、会ってしまった方がよいのでは…!?
そんな考え事をしていたせいで、一瞬意識が逸れた。
手に持っていたケトルを流しに置く際に、こつんと小さな音が立った。
普段ならば気にも留めないような、音。
だが、この日は、「やってしまった」と思った。
「殿下、どちらへっ…!?」
「そちらはキッチンで、殿下の興味を引くようなものは、何もっ…」
継母と継姉の慌てふためいた声が聞こえる。
逃げなければ、と思ったのは本能。
考えるよりも先に身体が動いた。 移動魔法には敵わないが、自分でも驚くくらいの速さで裏口の扉に駆け寄り、そのドアノブに手をかけたときだった。
アシュリーが背を向けている、客間へと続く扉がばんっと音を立てて開く。
「見つけたよ、私の【雲英雪の妖精】」
甘くて、甘くて、昏くて、深い声に、全身の血の気が、ザッと音を立てて引くのがわかった。
金縛りに遭ったように、身体も動かない。
それが、アシュリーの意識の問題なのか、王子様が何か魔法を使ったためなのかはわからなかった。
言うまでもないと思うが、振り返ることなんて、とてもとてもできない。
嫌な汗が、肌に滲む。
背筋を、冷たいものが流れたような気がした。
重くて、甘い香りが近づいて、呼吸が辛くなるような気がする。
目の前が、昏くなって、崩れる、ような。
ああ、そう、貧血に似ている、と思ったときだ。
ふっと自分の身体が浮いた。
昨晩、舞踏会のあと、お手洗いまで連れて行かれるときの感覚と同じで、アシュリーはすぐに、自分が横抱き――姫抱きとは言いたくない――にされていることに気づいた。
「昨晩ぶりだね」
目と鼻の先で微笑む王子様に、アシュリーは自分の心臓が鼓動を止めるかと思ったほどだ。
断じて、恋だの愛だのといった、甘やかな感情のためではない。
どうして、なぜ、この王子様は、アシュリーを【雲英雪の妖精】と認識したのか、という驚きのためだ。
だが、アシュリーもいい加減往生際が悪い。
遠くの王子様より、王子様の向こうからアシュリーを物凄い形相で睨んでいる継母と継姉たちの方が怖かったとも言える。
「あの、何か、誰かとお人違いをされているようです」
ほとんど反射でその言葉が出た。 自分でも、よくしれっとその発言をぶちかませたと思う。
王子様はというと、一度きょとんとした顔をした後で、ふっと微笑んだ。
その笑みに、またもやアシュリーはぞっとする。
王子様の赤鉄鉱の瞳は、全く笑っていない。
「私を甘く見てもらっては困るよ。私が君を間違う訳がないだろう?」
「っ…!」
愕然とした、としか言い様がない。
けれど、「オリヴィエどういうことですか!!?」と叫ばないだけの理性はアシュリーにもまだ残っていた。 ここでオリヴィエの名を呼んだら、話が更にややこしくなるような気がする。
誰に助けを求めれば救われるのか…!?
アシュリーが混乱の極みにいると、思わぬところから援護があった。
「殿下、昨晩の舞踏会には、この娘は参加しておりませんのよ」
「サンドリヨンになどお触れになっては、殿下が汚れてしまいますわ」
モンスター家族だ。
彼女たちの言う通りなので、早く下ろしていただきたいです!
声を上げかけて、アシュリーはぎくりとした。
「…灰かぶり?」
低く、小さな呟きが、耳に届いたからだ。
ほとんど、唇の動きだけ、吐息のような声だった。
だから、王子様に抱きかかえているアシュリーにしか届かなかったのだろう。
まだ何か言っているらしい継母や継姉たちに向き直って、王子様は優雅に笑む。
「いや、彼女に間違いないよ。私にはわかる」
優雅なのだが、有無を言わさぬ圧はさすが王子様だ。
そして王子様は、微笑んだままで、びっくりするようなことをまことしやかに語り始めたのだ。
「例えば、彼女がどうしても城の舞踏会に行きたかったとして、協力者がいたとして、貴女がたの目に彼女が彼女として映らないようにすることなど、朝飯前なんだよ」
王子様が言っていることは、半分が嘘で、半分が真実だ。
城の舞踏会になんて行きたくはなかったが、あの素敵なドレスに食指と興味が動いたのは事実。 協力者がいたし、アシュリーをアシュリーとして認識されない魔法だってかけてもらった。
だからアシュリーは咄嗟に反論できなかったし、殺気立って血走ったモンスター家族の視線を受けて言葉に窮したのである。
アシュリーは、優雅な微笑みをアシュリーに向ける王子様を、呆然と見つめ返すしかない。
どうして、そんな、火に油を注ぐようなことを仰るのか。
ここで、この家で、アシュリーは生き続けるしかないのに。
継母と継姉たちを敵に回して、どうやって生きて行けと?
そう思って、アシュリーは気づく。
ああ、なるほど。
この王子様は、アシュリーから帰る場所を奪おうとしているのか。
王子様は策士様のようです。




