幕間1-2 本物の殺意というものを知った
《研究所》での一泊を経た次の日の午後、目的地である静岡市に到着。
転居先のアパートに近づいたところで、抱っこ係のルチアがため息まじりに呟いた。
「それにしても色鮮やかで忙しない世界だな……目が回りそうだ」
地球二日目にして、驚き疲れてしまったようだ。
静岡はそれなりに栄えてるから、余計に刺激が強いのだろう。
疲れたのは今朝寄った空港とか初めて見た海とかで、興奮しすぎたせいもあるかもしれない。空港ではもちろんジャンボをねだられたが、どちらかと言えば地を行く新幹線の方がルチアは好きなようだ。ついでに重機も好きだ。
「まさかこれほどまでになにもかもが違うとは、思いもよりませんでしたわ」
一番元気なのは、まだあちこちキョロキョロしているセラだ。
道すがらでも、セラが一番あれこれ尋ねてきた。前から思っていたが、やっぱり好奇心旺盛のようである。
ちなみに長いエルフ耳だが、今は外から見えない。
本人はあまり好きではないようだが、セラの両耳には普段小さなピアスがつけられている。こちらに来たとき、それをリング型に変えた。
なにをするのかと思っていたら、それに短い紐をつけて後頭部の方を回して繋げたのだ。そうすることによって、髪の中に隠れて耳が見えなくなっている。
エルフは長寿で若い外見の期間が長いので、変な輩に狙われることも多い。そのため多くのエルフは自分の生活圏から出るときには、そうやってエルフであることを隠すそうだ。
何日もぶっ続けでその状態にしておくようなことでもなければ、痛くなったりはしないらしい。エルフの男女ともに長髪が多いのは、隠しやすいようにするためだということを教えてもらった。
「そうですね、本当に違いますね……」
そしてニケなのだが、少し表情が硬い。
こちらの世界との相性とか、そういうことではないと思う。マンションが近づくにつれ、張り詰めていっている。
さすがのニケも、家族への面通しともなると緊張するのかもしれない。どこか不安そうに右手で、左手の指に光るものを弄んでいる。
それは婚約指輪……とかではなく、懐かしの通訳いらず魔道具『言語理解の指輪』である。
昔、剣聖パーティーから身ぐるみはいだときにいくつも手に入れていたので、みんなに渡したのだ。あいつらはみんな、向こうの言葉を勉強してなかったからな。
っと、今はそんな余計なこと思い出してる場合じゃない。
「そこだルチア。確かそこを曲がって……うん、そうだそうだ」
抱っこ係のルチアに指示して通りを曲がる。
かなり危うかったが、なんとか道を記憶から絞り出すことができた。
「もう少しで着きますのね。それでご家族はお父様はお亡くなりになっていて、お母様と妹さんがいらっしゃるのでしたわね?」
「うん、だけど妹の千冬はただの妹などではないぞ。言うなれば妹の中の妹、妹の鑑であり極みである妹神だ」
「……目が本気過ぎて怖いですわ」
本気とか冗談とかそういう話ではなく、ただの事実に過ぎないのだよ。
この世界に神がいるかどうかなど知ったことではないが、我が家の妹は神であり、神は妹なのだ。
「溺愛しているのはよくわかった。しかし妹君は主殿と一つだけしか違わないのだろう? ならば私とほとんど変わらないが……もう良い年頃なのだし、よそに嫁いでいるのではないか? 行き遅れだった私などが言えたことではないのだが」
自分を行き遅れと言うルチアを、遥かに年上のお姉様方がギロリと睨んでいる。ルチアは婚期の早い貴族だったので仕方ない。
「ルチア、向こうとは違うんだよ。こっちは確か、平均結婚年齢が三十近かったと思うぞ」
「そうなのか……だが、全くありえないことではないのでは?」
俺の中で妹はまだ子供のままで想像しづらいが、実際はあと半年もすれば二十歳になる。そう考えればありえなくはないか……。
「……もしそんなことになってたら、親父の代わりに俺が相手をぶん殴らないとな」
「このステータスで殴ったら死にますわよ?」
「ちゃんと加減するってば」
「だったらいい……のかしら?」
「あ、そこ左。ほんとに家もうすぐだぞ」
そう伝えると、セラが大きく息を吐いた。
「なんだか少し緊張してきましたわ」
「私もだ。失礼のないようにしたいのだが、礼儀作法などはそれほど変わらないのだろうか?」
「一番礼儀正しい挨拶はどのようなものかしら? 教えてもらいたいですわ」
あまり口を開かないニケだけでなく、セラとルチアも緊張しているようだ。
別にそんなにかしこまる必要はないと思うんだけど。
「うーん、礼儀正しい挨拶といえば、やっぱあれかな。ルチア、ちょっと向きを」
クルッと回して高い高いをしてもらった。
「まずはこうホッペを両手で挟む……んで、このまま大きな声で『アッチョンプリケ!』」
本家にも負けないくらい思い切り押し潰したホッペの効果で、セラとルチアから笑みがこぼれる。
緊張も少しほぐれたようだ。
「第一声でこれをやるのが最上級だな。ほら、みんなもやってみ」
「ふふ、誰がやるか。またそうやってふざけて。不思議と魅力的な響きだが」
「もうっ、そんなのには騙されませんわよ。ねえニケ……さん…………」
しかし、セラが顔を向けたニケはというと──
「アッチョンプリケ……アッチョンプリケ……」
──ホッペを両手で押し潰し、繰り返し呟いて練習していた。形の良い唇が突き出されて閉じたり開いたりしてるのが、カワハギみたいでカワイイ。
「に、ニケ殿……」
少し間を置いて、俺たちに注目されていることにニケがやっと気づいた。ホッペを挟んでいた手を下ろす。
「……なんでしょうか」
「ニケ殿、大丈夫か?」
「なんのことですか」
「なんのことって……思い切りシンイチさんに乗せられてましたけれど」
「乗せられて? ……あっ」
俺に騙されたことに気づいたニケは、咳払いを一つついた。今更取り繕っても遅すぎますよ?
「大丈夫です。なにも問題ありません」
目が泳ぎまくってるし問題有り過ぎっぽいが、何度聞いても大丈夫の一点張りだった。やっぱり緊張してるんだろう、心配である。
それから少し礼儀作法について話をしていると、すぐにマンションまで辿り着いてしまった。
まだ思い出もなにもないが、間違いなくここだ。部屋番号も覚えている。
マンションの敷地に入ると、なにがなんだかわからない三人があれこれ聞いてくるが……実は俺もそこまで余裕がない。生返事しかできなかった。
そしてエントランス前のインターフォンまできた俺は、少し震える指で『302』と押した。
少しして、俺たちはマンションの前で立ち尽くしていた。
「まさか引っ越してるとはなあ」
302にいたのは、今年越してきたばかりの家族だった。一応聞いてみたが、彼らの前に住んでいた人のことは知らないそうだ。
そしてこのマンションに橘という名字の人は住んでいないとのことなので、部屋間違いというわけでもない。
「どのように探すのだ?」
励ますように、ルチアが俺を抱え直して後頭部を強めに挟んでくるが…………うん。
「これで、良かったかもな」
「どういう意味ですの?」
「探さないって意味だ」
帰れることになってから、実はずっと悩んでいた。
元の家族のところには、顔を出さない方がいいのかもしれないと。
もう死んだと思っているだろう俺が現れたら驚くだろうし、俺の今の姿や種族のことはどう説明したものかとは思う。ただ、そこは大した問題ではない。
それよりは今後もあちらで行動することについて、心配をかけたくないという思いの方が強い。
そしてなによりも、この世界の人々の目に俺たちという存在はどう映るのか、ということだ。
もし俺たちの存在を、世界が知ってしまえばどうなるのか。間違いなく母さんや妹を危険に晒すことになってしまうだろう。
そういったことを考えれば、母さんたちとは会わない方が良いのではないかとも考えていたのだ。俺は死んだものとして、今はもう穏やかに暮らしているだろうから。
まあ結局は結論を出せないまま、ここまで来てしまったが。
「マスター!? なにを言って──」
ニケが反論しようとしたそのときだった。
ドサリと、物を取り落とす音。
それに続いて──
「しん、いち……?」
──俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
見なくてもわかってしまう。
どれだけ久し振りでも、聞き違えることはなかった。
抗うことのできなかった首が横に向けば、そこにいたのはやはり橘響子──俺の母さんだった。
お互いしばらく黙って見つめ合っていたが、ハッとして母さんが買い物袋を拾った。
「ご、ごめんなさい。その子があんまり私の息子に似ていたから……」
最後に「そんなはずないのに」と小さく呟き、歩き始めた。
そして会釈とともに、名残惜しそうに俺を見てから通り過ぎる。なぜか、もう住んでいないはずのマンションへと向かって。
「主殿……」
彼女が誰なのかわかったのだろう。ルチアが俺を揺する。
でも、俺は静かに母さんを見送り──
「待ってください!」
懸命な、悲痛にも聞こえる声に母さんが振り向く。
ニケ……。
「どうか、どうか少しだけ話を」
ルチアを抜かし、ニケが前に出ようとする。俺はその腕を掴んだ。
「マスター!」
その声と、止めるなと訴えかけてくる目を見てわかった。ニケはなにか変な思いを抱え込んでしまっているようだ。
馬鹿だな。お前が気にすることなど、なにもないのに。
でも……そうだな。
やっぱり違うか。
「ニケ、いい」
「ですがっ」
「そうじゃない。自分で言うから」
そうだ……この帰郷はニケと、今も俺を強く抱きしめているルチアが、命を懸けて俺にくれた贈り物だ。
ならば俺が目指すべきものは、無難な次善の策ではないのだ。最高の結末を目指さなければ嘘なのだ。
俺の決意が伝わり、手を離すとニケは後ろに下がった。
母さんは胸に手を当てて困惑している様子だが、その表情にはなにかしら期待のようなものも見える。俺の気のせいでないといいのだが。
さて、なんと言ったものかな。
「あー、んーと……貴女のかわいいかわいい息子さんについて話があります」
「真一、の? あの子についてなにか知っているのですか!?」
「はい。もし知りたければ、少し時間をいただけますかね」
敬語を使うべきか悩んだりしてたら、なんか誘拐犯みたいになってしまった。こらセラ、笑うんじゃありません。
そして母さんの返答には、それほど時間がかからなかった。
「……はい、お願いします」
我ながら、どう考えても怪し過ぎると思う。だがかわいい息子そのものである俺という物証がそんなことを言えば、聞かないわけにはいかないだろう。
一度マンションに振り向いた母さんが、また向き直る。
「どうしましょう、どこでお話をしますか? もし良ければ、家に上がってもらって話を聞かせてもらうということでいいかしら? 家族も今、家にいますし」
空港で知ったが、今日は土曜だ。そのお陰で千冬も家にいるようだ。
頷いた俺たちは、母さんに続いてマンションに入った。
「まずは第一段階突破だな、主殿」
「ああ。ありがとな、ニケ」
「いえ。それよりも信じてもらうのは大変かもしれませんが……」
「ま、全身全霊誠心誠意説明するさ」
ナイショ話が終わると、ちょうどエレベーターが降りてきた。
震えるニケにしがみつかれながら到着したのは、五階だった。そして母さんがノブをひねったのは『503』……どういうことだ?
「どうぞ入ってください。ただいまー」
俺たちを招き入れた母さんの声に、奥から返事がくる。
ああ、この声……。
「お帰りー。どなたか連れて来たの? ……うぇっ!?」
リビングから顔を覗かせ、俺を見て声の主は固まった。
……全体的に、俺の記憶より垢抜けた印象だ。
長かった髪はミディアムヘアになっていて、染めているのか髪色が少し明るくなっている。顎のラインも、昔よりシュッとシャープになったか。
女らしくなったな、千冬。
ああ、やばい。涙が────
「どうしたんだい、千冬ちゃん。どなたがいらっしゃったのかな?」
綺麗になった最愛の妹に、親しげにかけられる声。
そして妹の横から顔を出した、いやらしそうなタレ目の男。
ほー……ほーほーほーほー。そうかそうか、ふーん、そうかそうか。
ならば俺の成すべきことは、ただ一つ。
ルチアの手を振りほどき、降り立った床をそのまま蹴った……もちろん拳を振りかぶりながら!
「きえぇぇえぇ! 死ねええぇぇえ!」
廊下を一飛びで抜けた俺の全身全霊を込めた拳が、全く反応できていない間抜け面にめり込む────寸前。
「もうっ! 危ないですわねっ!」
セラに襟首を掴まれ、止められてしまった。ぐるじい。
「えっ……ひぇっ!」
届かなかったパンチの風で髪をなびかせた男が、遅れて驚く。ひっくり返って尻餅をついた。
男だけでなく、妹と母さんも驚きの声を上げている。
普通の人間には、俺たちが瞬間移動したくらいに見えたのかもしれない。そんなことはどうでもいいが!
「離せセラ! 離せぇ!」
「離したら殴りますわよね、思い切り。死にますわよ?」
「当たり前だ! そのために殴るんだ! 千冬にたかる蠅は潰さなきゃ! 違う! それじゃあ千冬がまるでウンコみたいじゃないか! えっと……とにかく潰すんだ!」
「ハァ、だいぶ錯乱してますわね……なにが加減するですの。一応気をつけておいて正解でしたわ。ルクレツィアさん、しっかり捕まえていてくださいませ」
「す、すまない。気を抜いた」
玄関まで戻ってルチアに渡された俺は、ガッチリホールドされてしまった。
「よくやりました、セレーラ。私もつい気を抜いてしまいました」
「まあ貴女たちが命を賭してここまで導いたんですもの。感動の場面になりそうだったから、仕方ありませんわね……台無しになりましたけれど。でも、怪我の功名かしら」
セラが顔を向けたのは、並んで俺を見る千冬と母さんだ。
それにしても、うぎぎぎ……ルチアのホールドが外れないぃ。
「……ねえ、お母さん」
「……うん」
「あれって……お兄ちゃんだよね」
「そうかも……」
ようやく近くに帰ってきたお兄ちゃんを、なぜ二人してそんな遠い目で見ているのだ。
でもやっぱりそれよりも!
「とにかく離せルチア! これじゃあ殺せないのぉ! 離してよ! うわぁぁぁん!」




