幕間1-1 大きければいいというわけじゃないと思った
建てつけの悪い扉から、僅かな明かりがもたらされている。その明かりを頼りに、カビ臭くて暗い通路を進む。
辿り着いた扉を開け放つと、そこには落ち葉の絨毯が敷き詰められていた。
高校二年の初夏に異世界召喚されてから、三年八ヶ月。
芽吹きを待ち焦がれる季節の日本に、遂に俺は帰ってくることができた。
「山か。慎重に進もう」
前を行くルチアが、盾と剣をマジックバッグから取り出した。
「いらんいらん。だから言っただろ、魔物に相当するような生物はいないんだって」
俺たちがこんな山の中に出てきたのは、新スキル《新世界への扉》での転移条件のせいだ。
転移できるのは、なんとなくでいいのでその星の中での位置を理解した上で、明確に周囲の風景を思い浮かべることができる場所に限られるのである。
それが上手くいくとリアルタイムのその場所の風景が頭に入ってきて、転移が可能になる。
よくある一度行った場所なら跳べるとかではなく、少しややこしいシステムなのだ。これはこれで利点があるのだが。写真でもあれば、行ったことのない場所にも行けるだろうし。
俺は召喚される前に母さんの仕事と俺の都合で引越したばかりで、引越し先で目に焼きついている場所などなかった。
そこで仕方なく、爺ちゃん婆ちゃんの家の近くの秘密基地に飛んだ。
引越し前は近くに住んでいた爺ちゃんの家は、山を持っていた。そこにある防空壕を、俺が改修して秘密基地にしていたのだ。崩れたりしてなくてよかった。
「魔獣がいないというのは覚えているが、危険はないのか?」
「ないな。この辺じゃ危ないのは蛇くらいだ。それも冬眠中だと思うし」
熊なんかも出ないし、出たところでポコっとやればいいだけだ。でも毒はステータスほどには軽減できないので気をつけなければいけない。それでも今の俺たちなら、かなり軽減できるだろうが。
ということで気楽に秘密基地をあとにし、ニケに抱っこされて獣道をかきわけて進むと道路に出た。
ああ、道路だ……アスファルトで舗装された道路だ。
「……本当に帰ってきたんだな」
地球文明を目にして、ようやく実感が湧いてきた。
まさか道路を見て感慨にふける時がくるとは思わなかったな。
……なぜか三人は俺の感慨もなんのその、道路を何度も踏んづけているが。
「なんだこれは!? 石……ではないのかっ」
「ええ、壁などの漆喰よりは硬いですが、石より柔らかいですね。小石を集めて固めているのでしょうか」
「一体どうやってこんなものを敷き詰めたのかしら」
揃ってガシンガシンと踏む度に、靴底の跡がくっきりと形取られていく。やめときなさい……まあ端っこだからいいか。
実は向こうにいるときよりニ、三割程度身体能力は減衰しているが、それくらいは簡単にできてしまう。
俺が向こうに行ったときは身体能力が増幅されていたが、その逆のことが起きているようだ。その理由は、リリスが言ってた世界の位がどうこうというやつだろう。
こっちでも開くことのできたステータスボードをさっき見たが、数値は変わっていなかったんだけど。
「あまり広くはありませんけれど、山の中にこんなものを敷いているなんて……よほど重要な街道に違いありませんわね」
「うん、重要だぞ。爺ちゃんちに来たときは、俺もこの道をよく使ってた」
このなんの変哲もない山道を抜けていくと、アスレチックのある大きな公園へのショートカットになるのだ。
「それで、ここからはどうしますの?」
「引っ越し先まで行かないとな。五十キロくらいあるけど……」
「それなら軽く走ればすぐに着きますね」
「ニケちゃん、だから走っちゃダメなんだよ」
人外の速さで走ってたら目立ってしょうがない。金もないし、のんびり歩いて行くしかないな。
本当は爺ちゃんたちの顔も見たいが……。
それにしても道路一つでこの驚きようである。
そして案の定、三人はそこから驚きっぱなし、質問しっぱなしだった。
歩き始めて一分もしないうちに、爺ちゃんが自分たちで食べるようなものを育ててる畑を見て、早速ニケが驚きの声を上げた。
「これは畑ですか? 山でこんな小規模に……」
「魔物がいないというのは本当なのだな」
そんなことに驚くのも面白いが、確かに向こうじゃ危なくてやれないもんな。
他にも竹林を見て、向こうでまだ見たことのない本物の竹に感動したりしながら山を下っていった。風呂場で使っている鹿威しなどは、俺が作った偽物なのだ。
そしてその途中、少しだけ寄り道することにした。脇道に入ってしばらくすると、木々が途切れる。
見晴らしのいい急な勾配の向こうには、俺が生まれ育った街──静岡県掛川市が広がっていた。
「うわー、なんか泣いちゃいそうだよ」
懐かしむ俺とは毛色が違う感嘆の声を、三人は漏らしている。
「なんて大きな街ですの……」
「防壁がないぞ……」
「一体どこまで続いているのですか」
日本では至って普通の、いや、どちらかと言えば田舎寄りの街ではないかと思う。人口もリースなんかの方が余裕で多いはず。
ただあちらは防壁で囲わなければいけないので、あまり街を広くは作れないのだ。
「というかシンイチさん……歩いてきたのは、重要な街道ではありませんでしたの」
張り巡らされている道路を見た、セラのジットリとした視線。それから逸らした目に、ちょうど飛び込んできたのは──
「おお、富士山! 俺は帰ってきたぞ!」
ここからはそれほど大きく見えるわけではない。それでもはっきりと、冬の澄んだ空に浮いている富士山が見える。
見慣れていたはずのその姿。
でも、昔より一層美しく感じられた。
「あれがリビングに描かれていた山ですのね」
「驚きました。てっきり誇張して描かれているとばかり思っていましたが」
「ああ……なんて壮麗な」
雪化粧を施された霊峰富士に敵う山など、そうはない。みんなでたっぷりうっとり見とれた。
しばらくして街の方に視線が戻ると、ルチアが指を差す。
「主殿、あの大きな建物は城か? あまり飾りっ気はないが」
「ちょっと違うが似たようなもんだな。あそこには工場長っていう、王様みたいな偉い人がいるんだ」
要するにただの工場である。
「あっ、城はあれではありませんの? ほら、あの山の中腹の」
「あれは闘技場ではないでしょうか。同じようなものを、あちらの世界でも見たことがあります」
「二人ともちょっと違うが似たようなもんだな。あそこにはキングが戦いに来たりするんだ」
キング◯ズがな。要するにただのサッカーとかやれるスタジアムである。
「王が闘いに来るのか!?」
「……マスター、私たちが知らないからといって嘘ばかりついていませんか」
俺を抱っこするニケにむぎゅっと締めつけられていると、セラが声を裏返した。
「なっ、なんですの! あの白くて長い魔物は!?」
「大きい! しかもあの速さだと!? なんて化け物だっ」
セラとルチアが言っているのは、高架の上を三百キロとかで走り抜けた白いアイツのことだ。
「だから魔物はいないぞ。あれは神神閃という、人々を極楽に連れて行く神の使いだ」
「主殿……こちらの世界では、神の存在は不確かだと言っていたと思うが」
そういえば、以前ちょろっとそんなことを話したような。
三人の視線が痛いので、本当のことを教えた。
「えっと、あれは人が作った新幹線という乗り物だ」
「あれが乗り物!? ……言われてみれば、確かに人工物に見えましたわ」
「人があんな乗り物を作ったというのか! 凄いな!」
二人は今度は素直に驚いているが、乗り物嫌いのニケは鼻で笑っている。
「なにを馬鹿なことを。あのようなわけのわからない危うい物に乗る者など、いるはずがないでしょう」
俺は無言でマジックバッグから取り出した望遠鏡を渡す。
訝しみながらも、ニケが俺を片手で抱え直して望遠鏡を覗く。今度は逆方向から来た新幹線を見て、愕然とした声を漏らした。
「……まさか、こんなことが」
「くくく、見えただろう乗客が。そしてニケよ驚くがいい。新幹線はな、開業以来列車の過失による死者が一人もいないという奇跡の乗り物だぞ。歩くよりもなによりも安全な移動手段なんだからな」
「そんな……私の抱っこよりあれを選ぶというのですか」
「それは話が別だ」
抱っこの幸福感は、安全とかそういうものとは違う次元にあるのである。
後頭部を包む幸せの感触を堪能していると、ルチアが望遠鏡を片手に大興奮していた。
「主殿主殿! あれを操ってみたいのだが!」
「うーん、こっちじゃ無理だが……向こうでいつの日かな」
俺たちは寿命長いし、いつかなんとかなるだろ。
最悪テーマパークとかで子供が乗る、ミニトレインみたいなのでも作ってあげればいいよね。
新幹線など言語道断、絶対反対と荒ぶるニケをなだめつつ、眺望するのを終えて山を下りた。
その俺たちの前を、軽トラが横切る。
「マスター……今のは」
「自動車だな」
「あれが自動車なんですわね! クリーグから話は聞いていましたけれど、本当に馬なしで走りますのね」
「ううむ、しかしダグバと比べるとずいぶん頼りないな」
「ええ、まるで別物ですね……自動車は信用と実績あふれる乗り物だから安心しろとマスターは言っていましたが、あれこそが自動車なのでしょう。ダグバなどではなく。ねえ……そうなのでしょう?」
恨みがましい低い声と共に、またしてもむぎゅうと締めつけられる。どうやらニケとこちらの世界は、いまいち相性が悪いようだ。
そう思っていたら、テレパスとして目覚め始めたセラのジト目が飛んできた。
「相性うんぬんではなく、貴方がいい加減なことばかり言っているせいではありませんかしら……」
自動車のことはともかくとして、確かにちょっと浮かれ過ぎているかもしれない。
俺にとっては普通のことでも、みんなはなにも知らないのだ。ちゃんと教えてあげるべきか。ニケがこっちの世界を嫌いになっても困るし。
そう心に決めて、しばらく進んで市街地に入った。
駅近くまで来ると、さっき話題に上がったアレが見えてくる。心を入れ替えた俺はちゃんと教えることにした。
「見ろ三人とも、あれこそが城だ! この街の誇り、掛川城であるぞ!」
俺が指差したのは街中にピョコリと現れた、漆喰の白が青空に映える天守閣。本物の掛川城である。
ただ……なぜかみんな、困った子を見る顔を俺に向けている。
「ハァ、主殿……それは無理があるだろう。そう何度も騙されはしないぞ」
「立地は良いと思いますが、こんな大きな街の城だと嘘をつくのであれば、もっと大きな建物を選べばいいでしょうに」
「でも趣があって素敵ですわね。あれはなんの建物ですの?」
もう誰も信じなかった。俺はオオカミ少年の悲しみを知った。
いやまあ実際、掛川城は小さいけどね……そこも含めて好きなんだけど。
それからもあれこれ説明しては疑われることを繰り返しつつ、俺たちはのんびり進んだ。




