5-23 帰ってこなければよかった
「かっ、帰ってきたぞー!」
帰還した俺たちを出迎えたのは、中年冒険者の太い声と冷たい大気だった。潜っているあいだに季節は移り、とっくに冬になっていたのだ。
おっさんの声に釣られて、ギルドの入り口にはワラワラと人が集まってきている。
太陽の位置から考えればお昼どきだと思うが、それにしてはやたら人数が多い。冒険者じゃなさそうなのがかなりの数いるけど、俺たちを待っていたのだろうか。
水晶ダンジョンの塔は、攻略された階層数を炎を灯して周囲に報せるようになっている。百階層攻略を示す炎が灯ってから何日も経っているはずなのに、こいつらはご苦労なことである。
問い掛けや歓声を上げて取り囲もうとする彼らを、俺を振り回して遠ざけ、ニケがギルドに歩を進める……マスターとは一体。
己の意義について悩んでいると、なぜか人だかりの奥の方から静かになっていく。静けさはすぐに俺たちの周囲にまで到来する。荒れ狂っていた海が、そのまま急速に凍りついていくようだ。
そして響くは、処刑人の靴音か。
示し合わせていたかのように、凍りついた海が割れる。
その先には──とても会いたかったけど会うのが怖かった、靴音の源たる人が。
「皆様、お帰りなさいませ」
輝く金髪縦ロールを揺らし、微笑みをたたえたセレーラさん……その心情は推し量ることさえ不可能である。
「はっはい、ただいま帰ってまいりました」
「ご無事なようで、心より安堵いたしましたわ。そして早速ではありますが一つお伺いします。水晶ダンジョン百階層まで踏破したのは、皆様で間違いありませんか」
そうか、他にも水晶ダンジョンあるから、一応俺たちとは断定できなかったのか。俺たちずっと帰ってこなかったから進捗具合もわからないし。きっと他の水晶ダンジョンの情報とか集めたりしたんだろうな。
別にもったいぶる必要もないので素直に頷く。
それを見て周りからワッと声が上がったが、セレーラさんが口を開くとすぐに静まった。
「やはりそうでしたのね。水晶ダンジョン完全攻略おめでとうございます。まさかこのような日がくるなど、夢にも思っておりませんでしたわ」
「あの、ありがとうございます」
「お疲れのところ恐縮ですけれど、ギルドマスターも皆様の帰還を心待ちになさっていましたの。ご一緒して頂けますかしら」
「もちろんですっ」
俺の返事を受けて、セレーラさんは俺たちを奥へと誘う。
その顔にはずっと完璧な副ギルマススマイルが貼りついていて、静まっていた者たちも拍子抜けしたようにざわつきだした。俺たちのいないあいだのセレーラさんを知っている彼らは、一体どうなると思っていたのだろう。
それにしてもセレーラさんの微笑みは完璧過ぎて……俺にはどうにも他人行儀に感じてしまう。
「セレーラさん、えっと……その前に説教部屋には行ったりしないのでしょうか」
「……そのような必要はありませんでしょう?」
セレーラさんは表情を変えないまま首を傾けた。
説教はセレーラさんの愛情表情だったはずだ。これはまずいのではないだろうか……。
「何度も言うけど、本当に信じられないよ! 君たちならもしかして攻略階層の更新をしてしまうんじゃないかって思ったりしていたけど、それがまさか! まさか百階層まで潜っちゃうなんて!」
「はい……」
「でも本当に無事でよかったよ。百階層攻略の炎が灯ったのに、なかなか帰ってこないから心配してたんだ」
「はい……」
「色々話を聞きたいところなんだけど、君たちが戻ってきたら侯爵閣下に連れてくるよう頼まれてて……疲れてるとは思うけれど、一緒に行ってもらってもいいかな?」
「はい……」
「あのさ……僕の話聞いてないよね?」
「はい……」
ギルマス部屋で向かい合って座ったゼキル君が騒いでいるが、俺としてはそれどころではない。
どうしよう……どうしよう……怒りすらしないなんて、ひょっとしてセレーラさんに嫌われてしまったのではないだろうか……。
やはり四ヶ月は長すぎた……そんなにあったら男女が運命的に出会ってスピード結婚、からのスピード離婚なんてこともザラにありそうだ。セレーラさんの俺への愛も、時の狭間に消えてしまったのだろうか……嫌だ、そんなの嫌だぁ!
「とてつもないことを成し遂げて凱旋したとは到底思えない絶望的な顔をしてるんだけど」
「そちらにも一人、表情が固まっている人がいるようですが」
「そうですわね」
「セレーラ殿……そんなにぴくりとも動かない笑顔でいられても、少し怖いというか」
「そうですわね」
「……こっちも聞いてないみたいだね」
「そうですわね」
「うーん……セレーラ。セレーラ!」
うわ、びっくりした。ゼキル君が突然大きな声を上げたのだ。
呼ばれたセレーラさんもびっくりしている。
「なっ、なんでしょう」
「僕は閣下を訪ねる前の先ぶれを出すように言ってくるから、ここは任せるよ」
「それでしたら私が」
「いや、実は少しお腹も痛いんだ。ということでしばらく席を外すから、話でもしていてくれるかな」
そう言ってゼキル君は、なおも止めようとしたセレーラさんに構わず部屋を出ていってしまう。スタスタと歩く姿は、とてもお腹が痛そうには見えなかった。
扉の閉まる音が重々しく響く。
束の間の静寂の中、何度かセレーラさんと視線がぶつかったが、すぐに逸らされてしまう。
やはりこのままではまずい。
ゼキル君は俺にチャンスをくれたのだろう…………よし、ここは一発土下座で謝って──
「申し訳ありませんでした」
──なぜか機先を制されてしまった。セレーラさんが深々と頭を下げる。
俺が困惑していると、ややあってセレーラさんは頭を上げた。
「皆様がアダマンキャスラーを撃退してくださったのに、私はそれも知らずに酷い態度を取ってしまいましたわ。本当に申し訳ありませんでした」
再び頭を下げようとするセレーラさんを慌てて止める。
罪悪感を持たせようとしたのは計画通りではあるのだが……謝らなければいけないのはこっちなのだ。侯爵やゼキル君に口止めさせてまでセレーラさんに誤解させて、しかも四ヶ月も放置したのだから。
俺としては攻略再開から二週間くらいで戻れば、セレーラさんの罪悪感が俺への想いに変換されて大爆発する計算だったのに……。
というかこの計画自体が焦り過ぎていたのだろう。転移スキルを得ていつでもここに戻ってこられる今は、そう感じる。
「やめてください、セレーラさんが謝る必要なんてどこにもありません」
「やはりそうなのですわね……もう私のことになど興味がありませんのね」
「えっ?」
「私のことなどお嫌いになられたのでしょう?」
どうしてかそんな結論になってしまったセレーラさんが、弱々しい笑みを浮かべた。
「そんなわけないじゃないですか! 僕がセレーラさんを嫌うなんて」
「だったら! ……だったらなぜ一度も戻ってきてくださらなかったんですの」
「それは──」
それ以上言葉が出てこなかった。言い訳のしようがないということだけではない。
セレーラさんの目に光るものを見てしまったからだ。
「私が……」
これ以上言うべきではないと考えたのだろう。震える唇が一度強く結ばれる。
だがその自制と理性は、堰を切った思いに押し流された。
「私が、この四ヶ月どんな思いでいたかわかりますかしら。水晶に新しく灯る炎は、きっと貴方がたが灯しているのだと信じて……毎日毎日、幾度も水晶を見上げ、灯っている炎を数えましたわ。新たな炎が灯らない日は不安で一杯になって……灯った日には胸を撫で下ろして、きっと戻ってきてくださると。でも……」
ついには溢れた涙を拭い、セレーラさんは一度大きく息を吸って吐いた。
セレーラさんにとって、水晶の塔に灯される炎は俺たちの快進撃の証ではなかったのだ。それは俺たちが無事である証、そして贖罪の機会を待つためのものだったのだ。
「……ごめんなさい、そんなこと言われても困りますわよね。私のために戻らなければならない義理などありませんものね」
無理して笑おうとするセレーラさんを見て、俺は自分の罪を痛感する。
俺が軽い気持ちで仕掛けた駆け引きは、効きすぎてしまったのだ。セレーラさんの心を掻き乱し過ぎてしまったのだ。
以前長いこと潜ったときはたまに顔を見せに戻ってきてたのに、今回は戻らなかったし……。
どんな言葉をかければいいのか、どう詫びればいいのかわからない。それでも、少しでも苦しめてしまったセレーラさんの心を癒やしたい。
そして、俺の想いを届けたい。今までどれだけセレーラさんの存在が励みになってきたことか。
ローテーブルに乗り上げた俺は、その一心だけで手を伸ばす。止まらぬ涙が伝う、セレーラさんの頬に。
俺の手を見て、セレーラさんは体を引きかける。
だが、それは一瞬。
セレーラさんは受け入れてくれた。
ゆっくりと伸ばした俺の右手。その人差し指が、セレーラさんの左頬に触れる。
セレーラさんの左目の下には、二連の泣きボクロがある。その間を流れ落ちる涙を、俺は人差し指の背ですくい上げた。
どうか馬鹿な俺が流させてしまった涙が止まってくれるように。
「タチャーナさん……」
少しだけでも届いたのだろうか。
見つめ合うセレーラさんの強張っていた体の力が抜け、瞳には柔らかさが戻ったような気がする。
そんなセレーラさんに俺は──
「お前を殺す」
デデン!
…………。
……………………あれ? デデンちゃうよ? 今、俺はなんて言った?
「……………………は?」
言われたセレーラさんは、ポカンと口を開けている。
当然だろう。言った俺ですらポカンとしているのだから。
「なぜですかマスター……」
「いい所でなぜそうなる主殿……」
後方から上がる声はB級、いや、どうしようもないC級映画のエンディングを見たあとのような響きだった。
そして前方は、ついにキレた。
「なっ…………なんですのそれは!? なんで私が殺されなければいけませんの!」
シャーッと牙を剥く縦ロールの威圧感は、百階層の巨人にも勝るだろう。
「ちっ、違うんです! 今のは僕の意思ではないんです! なにか大きな存在に言わされたっていうか」
いやまあ、途中でWの憧れのあのシーンを思い浮かべてしまったせいなんだけど。
仕方ないと思うのだ。今以外であの名言を口にできる機会など、この先死ぬまでにあるとは思えない。そう考えたら、ついポロッとこぼれ出てしまった……。
「そんな言い訳が通用すると思っていますの!」
「ごっごめんなさい! ……でも涙は止まったみたいでよかったです!」
「ビックリしすぎて止まるに決まってますわよ!? ああもう、色々考えていたのが馬鹿みたいに思えてきましたわ!」
「ならば考えるのはやめて、素直な感情のままに僕の胸に飛び込んでくるのはどうでしょうか」
今回のことは本気で申し訳なく思ってはいる。いるのだが……駆け引きがセレーラさんに効きすぎたというのは、つまりそういうことではないのだろうか? きっとそうに違いない。そうであって欲しい。
机の上で小さな腕を目一杯広げて待ち構える俺の前で、なんと! セレーラさんも応えるように腕を広げた!
やはりそうだったのだ!
だがそうではなかった!
セレーラさんの広げた腕は勢いよく閉じられ、俺のほっぺを手のひらでべちんと挟み込んだ! 痛いぃ。
「ええそうですわね。素直な感情のままに貴方にぶつかってみますわ。今までのことを思い返したらムシャクシャしてきましたの。本当にいつもいつも、貴方という人は好き勝手言って好き勝手やって」
「ひょういうことひ(じ)ゃなくてでひゅね」
「大体今回なんで侯爵閣下やゼキル様に口止めまでさせたんですの! 納得のいく説明が欲しいですわ! ああもう、なんでこんな柔らかいんですの!」
わー、やっぱ口止めバレてますよねー。
万事休す……ならば最後にダメ元であのことを確認しておこう。
俺のモチモチほっぺを伸ばして遊ぶセレーラさんに、上目遣いで聞いてみる。
「あのー、その前に一つだけいいですか。アダマンキャスラーを撃退した報酬というのは」
「どの口が言いますの! こんなタイミングで! もうっ、本当にこんな口!」
むぎゅうとほっぺが挟み潰され、タコの口にされた。
「でひゅよねぇ────あ痛っ」
突然、ガチンと歯に硬いものが当たる。歯と歯がぶつかったのだ。
…………歯と歯?
「おおっ」
「まあ」
後ろの二人から驚きの声が上がる。
それもそのはず……俺の前歯にぶつかったのは、俺のものではない歯だったのだから。
あまり上手くいかなかったそれは、すぐに終わってしまった。そのせいもあって現実感がなく、自分の中に浸透するのに時間がかかった。
そうして驚いて正面の顔を見てみれば……その顔はなぜか俺より驚いているようで、目と口を真ん丸にしている。
ややあって、白い肌が急速に朱に染まっていく。
「ちっ…………ちち違いますわ! 違いますのっ! 今のは私の意思ではありませんわ!」
セレーラさんも大きな存在に動かされてしまったのだろうか。
投げ捨てるように俺を離したセレーラさんは、勢いよく立ち上がった。
「いっ今のはあれで、その、ほら…………そうっ、ただの撃退の報酬ですわ」
「報酬はほっぺという契約でしたけど……」
「それは……遅くなってしまったお詫びですわっ。とにかく……失礼しますっ」
今まで見た中での最速で駆け、セレーラさんはピューっと部屋から出ていってしまった。
遅れて響いた重い扉が閉まる音のあと、ルチアとニケはなにか呟いている。
「難儀な人だな……」
「素直にさせないマスターにも原因はありますが」
「まあ確かに。そもそも今更駆け引きなどする必要もなかっただろうにな」
俺はと言えば、二人に構ってなどいられなかった。悔やんでも悔やみきれない後悔の只中にいたのだ。
「くぅっ、畜生!」
「マスターはなにを残念がっているのですか。喜ぶべきところでは?」
「だって遅くなったら報酬が上がったんだぞ。もっと遅く帰ってくれば、もっと良い報酬になったに違いないんだ!」
「馬鹿な人だな……」
「それについては異論ありません」
結局そのあと一緒に侯爵のところに行ったりしたが、セレーラさんは目も合わせてくれなかった。
ニケとルチアは大丈夫だと言ってくれたけど、やっぱり嫌われたんじゃないかと凄く心配だ……。




