幕間1-9 閑話 ドキッ!女だらけの潜水大会 2
話を聞いたところ、お兄ちゃんは寿命の長いニケさんたちを残して死なないために、人間をやめたんじゃないかということだ。
自分がそうさせてしまったのだと、ニケさんは悔やんでいた。
お風呂に入る前にお兄ちゃんは、人間をやめて強くなって寿命も延びたってあっけらかんと言っていた。色々聞いて興奮していた私は深く考えずに、ちょっと羨ましいと思ってしまった。
でもそれは、そんなに単純な話ではないよね……。
「この世界に来て、私たちの世界とはなにもかもが違うと思い知りました。あちらでのマスターの苦労が偲ばれるとともに、痛感しました。この世界には、本当に人の種族は人間しかいないのだと。私たち、そして……マスターは、この世界では生きられないのだと」
そんな……そんなのって……。
せっかく帰ってきたのに…………。
お兄ちゃんもそう思ってるのかな……だから重婚の話をしたとき、あんなサバサバしてたのかな……。
「私は貴女方から、息子を、兄を奪ってしまいました。恨まれても当然です」
姿勢を正したニケさんは、正座をして湯船の底に手をついた。
「ですがどうか……どうかこれからも、私があの人の側にいることを許ビベビババベバビベボブバ」
…………ここで土下座したら、そりゃ沈むよね!? 肝心なところが聞き取れないよ!
パッと見クール系にしか見えないけど、この人やっぱり変だよ!
「ニケ殿……」
良かった、ルクレツィアさんがニケさんを止めてくれるようだ。しっかりしていて真面目そうだし、頼りになるウン勘違いだった。
ルクレツィアさんまで、私たちを向いて姿勢を正したのだ。
「私もニケ殿と同罪です……いや、私の方が罪が重い。ニケ殿は人間をやめようとする主殿を止めようとしたのに、そのことを軽く考えていた私は賛同してしまったのですから。お二人にはどう償えばいいかもわかりません。本当に、ボブビバべバビバベンベビバ」
……もしかして二人してフザケてるのかなと一瞬思ったけど、そうじゃないんだろう。
二人とも必死なんだ。
自分が周りからどう見えるかなんて忘れちゃうくらい、本気でお兄ちゃんが好きなんだ。
この人たちをまだ疑ってた私が、なんだかバカみたいだ。
「あの、いいからとにかく顔を上げてちょうだい、ね?」
「溺れちゃいますよ!?」
潜り続ける二人に困ったお母さんと私が訴えても、全然浮上する気配がない。肺活量凄くない!?
「まったく……しょうのない人たちですわね」
良かった、セレーラさんが二人を止めてくれるようだ。大人だし、落ち着いていて頼りになるイヤやり方!
水中の二人の頭上に手を置いたセレーラさんは、こともあろうかワシッと髪の毛を掴んで引っ張り上げたのだ! 荒過ぎるよ! この人絶対、落ち着いた大人の女の人なんかじゃないよ!
「ぶふぁっ、いたたた、いたいたいっ」
「……なにをするのですか、セレーラ」
「なにをするじゃありませんわ。見なさい、困らせるどころかむしろ怯えさせてしまっていますわ」
それはアナタにです。
そうだよね……お兄ちゃんを好きになるんだもんね。まともな人たちじゃないに決まってるよね。
「む、そうか。しかしだからといって、髪を掴まなくてもいいではないか」
「どうせ貴女たちは、これくらいしないと動きませんもの」
「マスターのためにあるこの髪が抜けてしまったらどうするつもりですか」
「髪の五本十本、どうということはありませんわ」
「セレーラ殿、髪は女の命と言うだろう。女を捨てるにはまだ早い……か?」
「なんで疑問形なんですの! 貴女シンイチさんに影響され過ぎじゃありません!?」
言い合っている三人を見て、お母さんがこらえきれずに吹き出した。
こんなに楽しそうに笑うお母さんを見るのは、もしかしたらお父さんが死んでしまう前以来かもしれない。
「あの子は幸せね、こんな素敵な人たちに出会えて。私もとても嬉しいわ」
「ですが……」
なにか言おうとしたニケさんに、お母さんは首を振った。
「本当よ? 確かにあの子がこの世界では生きづらくなってしまったのは寂しいことだけど、あの子がそんな選択をすることができたというのが嬉しいの。それほどまでに大切な人に出会えたんだもの」
確かにお兄ちゃんの性格とかを考えれば、驚くべき進歩なのだろう。
私はまだ、お母さんみたいに素直に喜ぶ気にはなれないけど……やっと帰ってきたお兄ちゃんが、こっちで暮らせないなんて。
「陽介さん……この子たちの父親のことは聞いているかしら」
「なにかの事故で亡くなったということだけは」
一番付き合いの長いニケさんにも、それだけしか言っていないようだ。
事故、かぁ……。
「そう……陽介さんはね、水害で亡くなったの。それもただ水害に巻き込まれたというわけではなくて、巻き込まれていた子供を助けてね」
それは私が中学二年のときの七月六日、七夕の前日のことだった。
三日続いた大雨のせいで増水した川が、堤防を崩してしまった。そして川の様子を見に来てしまっていた子供が、濁流に飲まれ流されかけた。
市の職員を勤めていたお父さんが、見回り中にそれを発見。
子供を救うことは出来たが、お父さんは流されて帰ってくることはなかった。
どこにでもあるような子供の過ち。
それを命がけで救った、どこにでもあるような美談。
「立派な方だったのだな……」
「そうね。正義感が強くて、良い人だったわ。でも──」
みんながお父さんのことをたたえてくれた。
だけど、残された私たちの気持ちはどこにも行けなくて。
「──悪い人でもいいから、生きていて欲しかったと思ったわ。特に当時はね」
正直に言ってしまえば、見ず知らずの子供なんか見捨ててしまえばよかったのにと何度も思った。
だけど今は、最期までお父さんらしく生きたんだなって思う。
もし私が同じ状況でも、きっとお父さんと同じことをしてしまう気がする。私にその勇気があれば。
「私は駄目な母親だったの。陽介さんが逝ってしまってから、ずっと泣いてばかりで」
お母さんが弱々しい笑みを浮かべる。それは後悔に彩られていて、見るのがつらかった。
「そんなの私も同じだよ。でもお兄ちゃんだけはそうじゃなくって、すぐに立ち直って笑ってて……私たちを笑わせようとしてて。平気なはずなんてなかったのに」
「そうね……あの子に励まされてなんとか立ち直った頃には、あの子はもう疲れてしまっていて……私はそんなことにも気づけなかった」
なんで笑えるのって、お兄ちゃんに当たってしまったこともあった。
それでもお兄ちゃんは笑顔を崩さなかった。苦しい思いも全部隠して。
「きっとわからなくなってしまってもいたと思うわ。父親が他人を助けて、私たちを泣かせていることをどう思えばいいのか。あの子は、私たち家族のことみんなが大好きだったから……」
お兄ちゃんは、ただ事故だとニケさんたちに伝えていた。
まだお兄ちゃんは、お父さんの最期の行いを認めることができていないのだろうか。
「ほんと、うざいくらい好きだったもんね……それでそのあとは学校も休みがちになって、家に閉じこもるようになっちゃったんです」
中学は休みが多くても卒業できたし、なんか悔しいけどお兄ちゃんは勉強もできたから高校にも入れた。
だけど高校が始まってからも、しばらくは全然行かなかった。そのせいで、なんとか通うようになってからもクラスに馴染めなかったのだ……性格のせいもあるけど。
「なるほど……主殿の排他的な気性は、その出来事で形成されたのか」
「うん……多少は」
「……多少なのか」
お兄ちゃん自身、お父さんのこととか引きこもりで排他的になったと思い込んでるかもしれない。けど性格は昔から、十分排他的だったと思うのだ。
「ま、まあ昔から我が道を行く子だったのは確かだけれど、でも陽介さんのことがあの子に影を落としていたのは間違いなかったと思うわ。だから私は心配していたの。あの子が私たち家族以外に、心許せる人を見つけることができるのかって」
そう言って、お母さんが三人を見渡して微笑む。
「でも今、皆さんがいる。そのことを本当に嬉しく思うの。それにね、皆さんも親になればわかるわ。それが当たり前になってしまうと忘れてしまって、もっともっとって望んでしまうけど……生きていてくれる。それだけで、親としてどれだけ幸せなことか」
「そういうものですか……」
「そういうものよ。だからニケさんもルクレツィアさんも、自分を責めないでいいの」
「そうそう。お兄ちゃんだって、後悔なんてしてるわけないんだから」
一緒に暮らせないかもしれないことに複雑な思いはある。
だけどそれは、二人を責めるようなことじゃない。
私たちの言葉で、背負っていた重荷を下ろしたように、ニケさんとルクレツィアさんの体から強張りが抜けた。
「……寛大な心に感謝します。二人とも」
「主殿に尽くすことで、必ず報いてみせます」
「そんなに堅苦しく考えなくてもいいけど、これからもあの子のことを支えてあげてね」
しっかり頷いた二人を見て満足そうに笑ったお母さんは、今度はセレーラさんに顔を向けた。
「セレーラさん、あの子には貴女のような人が必要だと思うの。あの子が道を間違えそうなときは、どうか正してあげてください。もし間違えてしまったときは、目一杯叱ってあげてください」
厳しそうなセレーラさんが必要というのは、なんとなくわかる気がする。お兄ちゃんにはブレーキがないから。
ニケさんとルクレツィアさんはお兄ちゃんが調子に乗り過ぎても、なんだかんだで許しそうだし。
「心得ましたわ。お任せ下さいませ」
そして姿勢を正したお母さんは、湯船の底に手をついた…………待って。
三人も呼応して姿勢を正さないで。
「ニケさん、ルクレツィアさん、セレーラさん。真一とまた会わせてくれて、本当にありがとうございました。これからも息子のことを、どうかボボビブボベバビビバブ」
「こちらこそボボビブボベバビビバブ」
…………そして私だけが残った。
これみんな本気なの? さすがにふざけちゃってるとしか思えないんだけど?
ハア、もういいや。私も潜ろ。
どれもこれも、全部お兄ちゃんが悪いのだ。
だから異世界でもなんでも、またどこにでも行っちゃえばいいんだ。
「ボビビバンボババー!」
…………グスン。