幕間1-8 閑話 ドキッ!女だらけの潜水大会 1
曇りガラスの引き戸を開けると、湿度の高い熱気が体を包んだ。
もう二月も終わるが、まだ寒い日が続いている。湯気を浴びただけで、少し肩から力が抜けた。
肩に力が入っていたのは、寒さのせいだけじゃないけど。まさかお兄ちゃんが異世界から、しかも婚約者三人つれて帰ってくるなんて。
「凄いわねえ、お家に温泉があるなんて」
後ろに続いたお母さんが、部屋を見回してうっとりしている。
確かにお兄ちゃんのラボというスキルの中にあるこのお風呂はとんでもないけど、温泉ではないでしょ。
「主殿には贅沢な日々を過ごさせてもらっています。感謝の言葉もありません」
染み染みとしたルクレツィアさんの言葉には、本当に実感がこもっていた。
私より少しだけお姉さんらしいけど、信じられないような苦難を乗り越えてきている。私なんかとは比べ物にならないほど大人だ…………心だけじゃなく体も。
裸だとよくわかるけど、背筋がピシッとしていて姿勢がとても綺麗。その張られた胸には育ち過ぎのメロン……いや、スイカが堂々と。
輝くような艶のある褐色の肌に、引き締まった体つき。雰囲気も凛々しくてカッコよくて、こんな風になりたいと憧れてしまう。無理だけど。
「あら、それはなんですの?」
セレーラさんが、私の持っているカゴを指差す。シャンプーとかコンディショナーとかを詰め込んできたのだ。
エルフのセレーラさんは、もうほんと大人ーって感じ。
金髪の巻き髪とか喋り方とか、ゴージャスで成熟している……体も。
ルクレツィアさんの外国人的な縦に厚みのあるセクシーな体つきと比べると、セレーラさんはやや薄めというか日本人的かもしれない。いや、腰とか横幅もほっそいしお尻とかプリンとしてるし大玉メロンは栄養たくわえてるし、絶対こうはなれないけど。
でも日本人の男性が三人の中から体つきだけで選ぶなら、まだ親しみが湧きそうなセレーラさんが一番人気になったりするのかもしれない。
「これは髪や体を洗ったり調子を整えたりするものなんですけど……いつもなにを使ってるんですか?」
使ってるものにケチをつけようというわけじゃない。むしろ逆だ。
みんな羨ましいくらいお肌ツルツル、髪の毛サラサラツヤツヤキューティクルクルなのだ。
おかしいよ。中世なんて髪の毛ゴワゴワか、香油とかでベタベタなんじゃないの?
これを使ってもらって、今度こそ驚いてもらおうと思ったのに……。
「最近では、なにも使わないことが多いですね。マスターが改良した石鹸もあるのですが、それでも洗浄成分が強すぎるとのことで。数日置きか、返り血などにまみれたときだけしか洗ってもらえません」
出た、ラスボス。
圧倒的な強者感と大玉スイカ……女の私でもクラクラしてしまう。
決してムチムチというわけではなく、むしろ全体的には細いと言っていい。
にも関わらず、ほとばしる絶妙な肉感。それでいて満たされている透明感。涼しげでありながらも甘美。そんな怪しげな魅力が、その体に煮詰まっている。
例えるなら……そう、高級和牛味のところてん。ふふ、我ながら素晴らしい例え。
というか返り血……しかも洗ってもらうって、お兄ちゃんになの!?
さっきも鞘がどうこうとサラッと言ってたけど、ニケさんは表情が全然変わらないしなにを考えてるのかよくわからない……正直ちょっと怖い。
「あー、えっとそれだったら、いつもお湯で流すだけなんです?」
「そうだが、主殿が作ったこれを使うのだ」
ルクレツィアさんが向かったのは、入口横にある謎の竹林エリアだった。竹を象った細い柱が乱立していて、壁にも竹の模様が刻まれている。
その側にある、雰囲気台無しの赤くて丸い大きなスイッチをルクレツィアさんが押した。すると竹からかなりの勢いで、霧が吹き出されたのだ。
あっという間に竹林が、濃霧に包まれる。その霧の中に入っていったルクレツィアさんの代わりに、セレーラさんが教えてくれた。
「なんと言ったかしら確か……マイクロナノバブル? こちらの世界の発明なのでしょう?」
「ええ!? そうですけど、うちにもそんなのないのに!」
油性マジックで書いたものが、それのシャワーだけで落とせるとかいうあれだよね。肌にも良いとか。
しかもこんな全身に吹きかけるような大掛かりなやつ、どこにもないでしょ。
これにどうやって勝てと……おのれお兄。
ゆっくり歩いて竹林から出てきたルクレツィアさんの輝きが増したのは、濡れたせいだけではない気がする。恐るべし、マイクロナノバブル。
「ふう、さっぱりした。少し味気ないが、ダンジョン攻略などをしていると一日に何度も体を洗うからな。手早く済むのも助かるのだ」
「本当に贅沢ですわよね。攻略の合間にお風呂なんて、普通有り得ませんわよ」
こちらに帰ってくるためにダンジョンというのを攻略してきたらしいが、相当過酷だったようだ。体を洗ってから、打たせ湯に打たれつつ色々話を聞いた。執筆活動の参考にさせてもらおう。
ちなみにマイクロナノバブルは凄かった。
それからジェットバスを堪能して、みんなで普通の湯船に漬かった。普通と言っても、無駄に八畳くらいありそうな広さだけど。
少し落ち着いたところで、お母さんが不安そうに尋ねた。
「あの子は皆さんや他の方に、迷惑かけて……いたわよね」
聞いたお母さんも、迷惑かけてないとは思ってない。
案の定どう答えるべきか三人も悩んでいるようだったが、少ししてニケさんが私でもわかるくらいに口元を緩めた。
「剣ではなく人の身で振り回されるのは、想像していたより遥かに楽しいものでしたよ」
それを聞いて、二人も笑みを浮かべた。
「はは、そうだな。セレーラ殿やあの街の者たちに対しては、申し訳ないと思うことは多かったが」
「貴女たちには本当に掻き回されましたものね。それに……いえ、貴女たちが成したことが吉であったのか凶であったのか、まだなんとも言えませんわね。これからあちらの世界は、どう変わっていくのかしら」
……世界が変わっていくって、お兄ちゃんたちなにしたの。
「まあそのことは置いておくとして、振り返ってみれば私自身としては楽しかったですわ……悔しいけれど。それに誰かの不利益は、誰かの利益というもの。必要以上に他人を気にすることはありませんわよ」
「そう……そうね、ありがとう。皆さんが受け入れてくれているだけで、喜ぶべきことよね」
お兄ちゃんを受け入れられる奇特な人が三人も。奇跡と言っていいだろう。異世界の人って懐が深い。
でも……漠然と不安も感じる。
強い力を得たというお兄ちゃんが本領を発揮するのは、ひょっとしたらこれからなのではないかと。
もしそうだったとしても、三人がお兄ちゃんを見捨てないことを祈る。
そしてもしそうだったら、頑張れ異世界の人たち。
これからもお兄ちゃんは向こうに行ったりするみたいだし、心の中で異世界人を応援しているとお母さんがまた切り出した。
「それでその、話は変わるけれど……実際はどうだったのかしら? 真一を喚び出した国での日々は。あの子はなんでもないように言っていたけど……晴彦さんの前では聞きづらくて。聞いてもどうせ話さないだろうし。でも母親として、知っておくべきだと思うの」
多分、最も聞きたかったのはこれなのだろう。
だからお兄ちゃんと晴彦さんだけを残してまで、お母さんは一緒にお風呂に来たのだ。
「私も聖国でのことをあまり詳しく教えてもらっていないな……剣聖は主殿に、どの程度のことをしてくれていたのだ?」
ルクレツィアさんとセレーラさんもよく知らないようだ。二人とも険しくなった表情で、ニケさんに顔を向けた。
「そうですね……マスターからの了解を得ずにというのは気が咎めますが、私もキョウコには伝えなければならないと思っていました。とはいえ最初期のことは知りませんし、その後もさほど意識を割いていたわけではありません。それでも私の知る限りで端的に言ってしまえば────よくあの状況で生き延びることができたなと」
私もお母さんも、言葉を失う。
淡々とした口調のニケさんが、嘘や誇張を言っているとは思えなかった。
「……それほど剣聖というのは、シンイチさんに酷いことをなさっていたの?」
セレーラさんの目が据わっていて怖い。私も同じような目をしているのかもしれないけど。
もしかしたら新しい姉になる操さんのことも、受け入れられる気がしない。
……でも、今はなによりお母さんが怖すぎる。
普段は柔和なお母さんの、こんな般若みたいな顔見たことない。今までお母さんが笑顔で怒るのが逆に怖いと思ってたけど、本当に怒ってる顔は比べ物にならないほど怖かった。
しかしニケさんは、怒りを露わにする私たちを見て首を振った。
「そうではないのです。剣聖自身が主導していた行為など、子供のイジメの延長線上に過ぎませんでした。直接的な暴力も中にはありましたが、二、三度加減を違えてマスターの骨が折れたときは顔を青くしていました。所詮はその程度の、なんの覚悟も持たぬ者です」
骨折も十分やり過ぎだと思うけど……でもそいつは遊び半分だったのだろう。
その辺によくいる、自分がやっていることがどれほど相手を傷つけているかもわからない馬鹿ということだ。
「問題は、そのような行いが周囲の者たちの姿勢を決定づけたことにあります。当初から剣聖は、特に武官側から多くの期待を寄せられていました。当然それらの者たちは剣聖に同調して、冷遇されていたマスターを更に邪険に扱いました。それだけでも危うかったと思いますが……」
「そんな中で、主殿が頭角を現してくるわけか……良く思うはずがないな。しかも主殿の能力的に、文官側なのは間違いないしな」
「ええ。マスターを可愛がりだしたのも、文官の上位に位置する者だったと記憶しています。もちろん文官同士にも対立はありますし、マスターは派閥争いの渦中に巻き込まれていきました。その中心だったと言っても過言ではないかもしれません。ですから私は、いずれこの者は謀殺されるか、どこかの一派の暴走で殺されるだろう、そう思っていたのです」
お兄ちゃんはどうやら、権謀術数の真っ只中にいたようだ……。
腹黒のお兄ちゃんには案外似合っているのかもしれないけど、危ない立場だったのは確かだろう。
「ですがマスターはしぶとく生き残りました。先程自分であちこちに取り入るため色々していたと冗談半分で言っていましたが、それは決して簡単なことではなかったはずです。日々薄氷を踏むような思いで過ごしていたのかもしれません」
「そうだと思いますわ……けれどそれでいてのし上がって、この世界に帰るために調べ物をしていたのでしょう? しかも最後には手痛いしっぺ返しを食らわせて。純粋に驚異ですわね」
「あー……お兄ちゃん、なにかやり返したんですか?」
「そのようですわよ。あの国がこのところ焦りを見せているというのは聞いていましたけれど、その大きな原因をシンイチさんが生んだというのには驚きましたわ」
そんなにやらかしたんだ……やられっぱなしで終わらないとか、お兄ちゃんらしいけど。
あとで詳しく教えてもらおうと思っていると、ニケさんが表情を曇らせて俯いている。
心配してお母さんが声をかけた。
「ニケさん、どうかしたの?」
「……本当はわかっているのです。私にミサオを責める資格などないと。私は助けるどころか、マスターのことをずっと嘲っていたのですから。自分をこんな目に合わせている者たちにヘコヘコする、牙を持たぬ情けない者だと。実のところはまるで見当違いだったわけですが」
当時はニケさんはまだ剣だったはずだ。それでもやろうと思えば、なにかできたりしたのだろうか。
「でも……最後はニケさんが助けてくれたんですよね? 逃げ出すときに助けてもらえなければやばかったって、さっきお兄ちゃんが」
「それはそうですが……いえ、私の罪はそれだけではないのです」
伏せていた目を私に、そしてお母さんに向けた。
「私は貴女方に詫びなければなりません。マスターが人間をやめ、あのような姿になったのは、私のせいなのです」
マイクロナノバブルって、実際はどうなんでしょうか? 使ったことがないのでよくわかりませんが、真一君が作ったのは凄いということで一つお願いします。
この作品がヒットしたら、企業様から贈られてきたりしないですかね……無理か。