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年が明けてから職場に戻ると、肺炎の患者さんは急増していて私は目の回る忙しさになった。リタさんによると、ピークは毎年1月中旬から2月中旬頃らしいので、そろそろ患者さんの数がピークを迎えつつあるのだと思う。
その日、新たな入院患者さんのリストに知っている名前を見つけて私は目を疑った。名簿には『ロンバート・グリーン』と書いてあった。
焦る気持ちを抑えながら病棟に向かうと、既にロンは外来の看護師から引き継ぎを受けて入院病室に入っているという。急いでそこに向かうとロンは病室のベッドで目を瞑って横たわっていた。
近づいて見ると凛々しい顔は少しだけ頬が痩けたように見えた。そっと触れると火傷しそうな程の高熱だ。
「ロン・・・」
私はとてつもない恐怖を感じた。ロンはただ肺炎を起こしただけなのに、このままロンを失ったらどうしようと指が震える。
ロンは私が死ぬとき、逝かないでと泣いて縋っていた。たった一人の家族が目の前で命の灯火を消そうとしていたその恐怖は、ロンにとってどれほどのものだったのだろう。
「ロン、先に逝ってごめんなさい。」
私は眠る彼の手を握ると小さな声で謝罪した。
ロンはバリバリの現役軍人なだけあって、体力がある。私の不安を余所に2、3日入院した頃には嘘のように元気になってきた。
「グリーンさん、明日の午後に先生の診察があります。そこで異常が無ければ明後日の朝には退院出来ますよ。」
リタさんがロンの診療記録簿を見ながら説明していくのを私はリタさんの後ろで静かに聞いていた。すぐに回復してよかったと胸をなで下ろす。でも、ロンは曖昧な表現を浮かべてあまり嬉しそうじゃ無かった。
「グリーンさん、嬉しくないのですか?何か心配ごとがあったら相談して下さい。」
リタさんはロンの様子に怪訝な表現を浮かべた。
「妻に・・・」
「え?」
「このまま死ねば、先に逝った妻と子供に逢えるかも知れないと思ったんだ。」
私はロンの言葉が信じられず、目を見開いた。死んだら私に逢える?ここに居るのに、逢えるわけがない。
「奥様は貴男を待っていると言って亡くなったのですか?」
狼狽える私に対して、暫くの沈黙の後にリタさんは落ち着きを払ってロンに問いかけた。
「いや。だだ笑っていてくれ、俺を見てる、幸せになれ。そう言った。」
「なら、貴男はまだ死ぬべきじゃ無いわ。奥様が見ていらっしゃいますよ。」
立っていたリタさんはしゃがんで、ベッドに座るロンより目線が下に行くようにするとロンを見上げたが、ロンはリタさんを見ようとはせず視線を外した。
「俺はあのクーデターの時、何人もの元同僚を殺した。命乞いするやつもだ。がむしゃらに銃を撃ち、拳を振るって全身が血に濡れた。あいつらにも家族が居たはずだ。俺が幸せになって良いはずが無い。」
「グリーンさん。それでも、貴男に救われた人も居るはずです。今の平和はその時に戦った人達の犠牲のもとにあります。
貴男が幸せになってはいけないなんて、そんな筈がありません。
グリーンさんが彼らのことを思い、忘れられないなら、丸ごとそれを抱えて生きていくのはどうですか?
私はグリーンさんに幸せになって欲しいですよ。」
ロンは何も言わずに顔を片手で覆った。リタさんは立ち上がるとロンの背中をそっと撫でた。
「グリーンさん、今は休みましょう。体調を崩すと人は弱気になるものです。」
リタさんに促されて退室する間際、俯いたまま動かないロンが見えたけど私にはかけるべき言葉が何も浮かばなかった。リタさんを見ると、私の視線に気づいたリタさんは困ったように笑った。
「ここの病院に長く居るとね、彼みたいに悩む患者さんは多いの。意図せずに相手を傷つけて自己嫌悪を陥って心を病んだり、大怪我して自暴自棄になったり・・・。
でも、グリーンさんが亡き奥様ととても愛し合ってたことはわかったわ。きっと素敵なご夫婦だったのでしょうね。」
リタさんの言葉を聞き、私は「そうですね。」と曖昧に微笑んだ。
***
「どうした、オリヴィエ?浮かない顔してるな。仕事で失敗でもしたか?」
今日は月に一度のビリーさんの外来の日だ。あの日以来、ビリーさんは外来に来ると必ず私に声をかけてくれる。
ビリーさんの回復は目覚ましく、歩くのはほぼ問題なくこなしている。このまま行くと、もしかしたら走れるようにもなるんじゃないかと思う。
その日、私はロンの事を考えて気分が落ち込んでいた。
「そういう訳じゃ無いんですけど、何が正解か色々とわからなくなって。」
私は相当困り果てた顔をしていたようで、ビリーさんも困った顔をして私の頭にポンと手を置いた。
「うーん。よくわかんないけど何かに悩んでるんだな?よし、息抜きしよう。今日は仕事の後は空いてる?」
「へ?」
「だから、仕事の後だよ。終業ベルの30分後にここに集合。決まりな。」
返事も聞かずに笑顔で手を振って去っていく私はビリーさんを呆然と見送ることしか出来なかった。
ビリーさんは終業後、私を基地近くの飲み屋に連れて行ってくれた。一応もうお酒を飲んでよい歳になっているが、飲む機会に恵まれずここまでいる。ビリーさんに手渡された発泡酒は苦かった。
「苦っ!」
「ははっ。飲んだの初めてか?」
ビリーさんは私の反応をみて陽気に笑った。彼とのお喋りで私の悩みは解決しなかったけど、気分はだいぶ軽くなった。