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私は看護助手なので、普段は正規の看護師に付いて仕事を見ながら業務を覚えていくことが多い。看護助手は正規の看護師の元で2年間の経験を積むと正規の看護師になれる仕組みになっていて、つまりは今の私は修行中の身だ。
今日も私は指導役のリタさんに付いて病院をまわっていた。リタさんは正規看護師歴10年の周りの人からの信頼も厚いベテラン看護師だ。黄色味の強い茶髪の癖毛を一つにまとめていつも低い位置でお団子にしている。二重まぶたの垂れ目は優しい印象で、初めて会ったときに私はリタさんのような人を白衣の天使と呼ぶのだろうと本気で思った。
性格も穏やかで面倒身がよく、リタさんの下につけた私はとても幸運だと思う。
「オリヴィエ。そろそろ見回りは一人で行ける?午後の見回りはお願い出来るかしら?」
「はい。」
午後はリタさんはこなしたい雑用があったようなので、私は入院する受け持ち患者さんの検温と様子見を初めて一人で回ることになった。体温計と患者さんの管理簿を手に静かな入院病棟へと向かった。
「あぁ、オリヴィエ。今日も可愛いね。」
私が入室するなりベッドの上で起き上がり、満面の笑みを浮かべたのはビリーさんだ。逞しい体躯に甘いマスク、碧い双眸は吸い込まれそうなほど透き通っていた。
「ビリーさん、検温ですよ。」
男性に褒められる事などない私は若くてハンサムな彼にそんなことを言われるとつい照れてしまう。どう対応すればよいのか判らなくて体温計を渡すとすぐにビリーさんから目を逸らした。ほんのり赤くなった私を見てビリーさんはククッと楽しそうに笑った。
「はい。36.5℃。」
ビリーさんが体温計を見て私に手渡した。目盛りを見て私は頷き、手元の管理簿に記載した。ついでにビリーさんの今日のこの後の予定もチェックする。
「2時からリハビリです。頑張りましょうね。」
「そうだな。元通りに歩けるようになったらオリヴィエとデートに行かないといけないしな。」
「えっ!?」
狼狽える私を余所にビリーさんはまた楽しそうにククッと笑った。ビリーさんは陸軍の兵士で、訓練中の事故で両足を複雑骨折した。足を切りおとすかどうかという瀬戸際だったらしいが、何とか切りおとさずに済んでいる。しかし、長らくベッドの上で過ごして使っていない足は事故前より二回り以上細くなり、今は歩くためのリハビリをしている。
「今日はよく晴れてる。出掛けたら気持ちいいだろうな。」
ビリーさんは窓の外を見て眩しそうに目を細めた。私もつられて外を見ると、窓の外は雲一つ無い晴天で小鳥達が連なって飛んでいるのが見えた。陸軍基地入口の花壇に花が咲いていた。私は花に詳しくないので何の花かは知らないが、白色とピンク色の花が咲き乱れている。
「お散歩に行くなら付き添いましょうか?」
「いいのか?」
ビリーさんは驚いたように目を丸くして私を見たあと、「じゃあお願いしようかな。」と小さく呟いてちょっと照れたように頭をかいた。いつも余裕そうに甘い口説き文句を言ってくるのに、こんなことで照れるなんて意外だ。
そもそも、ビリーさんのような患者さんが散歩に行くのはいいリハビリになるからお安い御用だ。今日は手が掛かる重症患者もいない。
「きっとすぐに元通り歩けるようになりますよ。」
励ましの言葉を掛けるとビリーさんは嬉しそうにはにかんだ。
私はリハビリが終わった後で時間が出来たら病室を訪れる約束をしてビリーさんの部屋を後にすると他の患者さん達の元へと向かった。
陸軍病院の患者さんは陸軍隊員がメインだ。慢性的な病気の人は少なく、逆に訓練中の怪我が圧倒的に多い。後は健康診断で異常が診られた人だ。
今、私が受け持っている患者さんは6人で、その内4人は訓練中の怪我が原因で入院している。年配の看護師さんの話によると、平和な今はあまり忙しくはないが、16年前のクーデター事件の時はそれはもう廊下まで患者が溢れるような大惨事だったと言っていた。戦争などが起きれば言わずもがな。2度とそんな風景が現実に起こらないように祈りたい。
「リタさん、全員終わりました。」
私は看護師控室に戻るとリタさんに6人の患者さん達の様子を口頭で報告した。
「ありがとう。なにか気になることは無かったかしら?」
「とくには。大丈夫です。」
「そう。巡回はもう一人でお任せしても大丈夫そうね。」
リタさんは満足そうに微笑むと、机の上の書類をトントンと揃えて同じ様な書類の束に重ねた。
「健康診断の結果を届けに行くのだけど、オリヴィエはまた行きたいでしょ?」
「はい、行きたいです!」
「やっぱりそう言うと思った。じゃあ一緒に行きましょ。今週は少し多いのよ。」
急に目を輝かせた私の様子にリタさんはクスクスと笑った。積み重なっている書類をみると確かに今週は多いので一人では運べなさそうだ。
リタさんと書類を持って陸軍基地に向かった私はキョロキョロと辺りを見渡した。いつもロンが居ないかと探しながら歩いているのだ。
私はその日のロンの仕事場所を把握しているわけではないので、会えるか会えないかは完全にその日の運による。そして、今日は運がよかったようだ。廊下の曲がり角でロンらしき人の後ろ姿を見つけた私はすぐに声をかけた。
「ロンバートさん、こんにちは。」
突然若い女性の声で呼びかけられたロンは驚いたように振り返ったが、私の姿を認めるとすぐに表情を崩した。
「やぁ、オリヴィエ。お使いかな?ご苦労さん。」
「はい。事務所に書類を届けに来ました。」
初めて会った日から私は機会があればすぐにロンに話し掛けるので、ロンはずいぶんと私に対して警戒を解いてくれた。初めて会った時のような能面のような笑みでは無く、普通の笑顔を見せてくれるようになった。
それでも、ナーシャに見せてくれたような愛情の籠もった微笑みはまだ一度も見せない。いつかロンのあの笑顔を引き出すのが私の目標だ。
「そちらは同僚?」
「はい。私の指導をして下さってる先輩のリタさんです。」
ロンの視線がリタさんに移ったので私はリタさんをロンに紹介した。ロンは私の同僚と聞いて警戒を解いたのか、私と同じ普通の笑顔をリタさんに向けた。
「ロンバート・グリーンだ。オリヴィエの母君と亡き妻が知り合いだったようで懐かれててな。よろしく。」
「リタ・ホランドです。オリヴィエの指導役をさせて頂いております。こちらこそよろしくお願いします、グリーンさん。」
リタさんはロンににこっと笑いかけると、私達はどちらともなく「仕事中ですので。」とその場を離れた。
遠目に見るだけじゃ無くて言葉を交わせたし、笑顔も見られた。今日はとてもいい日だ。