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貴男を想う  作者:    
2/9

 古ぼけた机の引き出しに大切にしまった採用通知を取り出し、私は内容をもう一度よく確認した。集合場所、集合日時に間違いは無い。やっとだ。やっとここまで来た。何回も何回も見直した採用通知は端が少しくたびれたようになってしまった。


 出発の日はどんよりとした曇り空だった。汽車を待つ地元の駅のホームで両親に出発前の最後の挨拶を告げた。


 「お父さん、お母さん。行って参ります。」


 「あぁ、気を付けて。達者でな。」


 「お手紙書くのよ?身体に気を付けて。」


 両親は私の手をしっかりと握り締めると目に涙を浮かべ、母の刺繍入りの綿製のハンカチで目元をそっと拭った。私はしっかりとその手を握り返すと心配をかけないようににっこりと微笑んだ。ホームの脇にはポピーの花が風に揺られている。私は今日、生まれてから15年間住み続けたこの町を出る。


 汽車の姿が遠目に見えてきて、いよいよここを去るのだと実感した。曇った空に蒸気機関車の蒸気が溶け込んで灰色に空を染め上げる。初めて乗る汽車は揺れが酷く、とても快適なものでは無かった。殆どの乗客は1人客で、無言で目を閉じている。

 私は着替えなどが入った大切な鞄を胸に抱えるように持ち直すと、窓の外に目をやった。どこまでも草原と畑とぽつんぽつんと佇む家が広がるのどかな景色が後ろへ後ろへと流れていき、段々と建物の密度が高くなっていくのを窓越しにずっと見つめた。

 半日揺られて降り立ったその街は、所狭しと建物が密集し、沢山の店が軒を連ねて人々が往来する。それは、16年前と何ら変わらない印象だった。


 胸元から懐中時計を取り出して、時刻を確認するとまだ日が暮れるまでには少し時間がある。私は少し迷って、とある場所へと足を向けた。

 お店の看板や外装は変わっていても、街の雰囲気は大きくは変わらないし、かつてあった道はやっぱり存在している。迷い無く足を進めて辿り着いたそこは、以前と全く変わりない様子だった。茶色い煉瓦造りの建物にグレーの木製扉が幾つか並んでおり、その1階の端から3番目の扉にはボロボロになった表札がかかっていた。かつて私が作った表札だ。

 何をするわけでもなく、遠目にその扉を眺めていると後ろから声をかけられて私はビクリと肩を揺らした。


 「お嬢さん、うちに何か用かな?」


 「え?」


 振り向くと、そこには中年の男性が立っていた。茶色い癖毛に茶色の瞳、背は高く、紺色のコートで身を包んでいてもがっしりとした体付きが伺えた。目元に刻まれた皺は年齢を重ねていることを示していたが、立ち姿はかつての彼を彷彿させるものだった。


 「ロン・・・」


 思わず口から出た私の呟きに彼は怪訝な顔をして眉間に皺を寄せた。いけない。私はもうナーシャでは無いのだから彼が判るわけは無いのだ。


 「すみません。私はオリヴィエ・クルーニーと申します。陸軍病院で看護助手として働くためにこの街に出て来ました。ロンバートさんの亡き奥様と母が昔の知り合いでして、時々話を聞いていたので親しみのようなものを感じてこのようなところにまで来てしまいました。」


 私は咄嗟に考えた言い訳を並べて彼を見上げた。


 「貴女の母君とナーシャが?」


 目の前の彼は益々眉間の皺を深くした。そんな話は聞いたことが無いと言う様子がありありと表情に出ていた。実際にはナーシャと私の母は知り合いでも何でも無いので当然だろう。


 ロン、ロン、ロン!

 歳を重ねても見間違う筈も無い、私の愛した人。

 その広い胸に飛び込みたい衝動を必死に抑えつけた。

 溢れそうになる想いを打ち明けるとこを留めたのは大好きだった筈の彼の笑顔だった。


 「そうか。それはご足労だったね。この街には来たばかり?なにか面白いものはあった?」


 彼は私を見下ろすと年相応の柔らかな微笑みを浮かべた。でもそれは私の知っている慈愛に満ちた笑顔では無くて、まるでモデルのように綺麗な微笑みだった。そう、()()()みたいに。



***



 私の勤務する陸軍病院と彼の所属する陸軍は同じ基地の敷地の中にある。


 働き始めたその日から私は機会を見つけては彼の姿を探した。お昼休みの食堂だったり、健康診断の書類を陸軍基地にわざわざ届けに行ったり、何かお遣いがあるときは必ず私は手を挙げた。基地を歩き回っていれば、彼に会えるかも知れないと思ったから。


 彼は陸軍の隊員で、生え抜きで大佐の位にいた。16年前に起きたクーデター事件でめざましい活躍を見せて出世コースに乗ったと陸軍病院の噂好きな先輩が教えてくれた。ナーシャ(わたし)が死ぬきっかけにもなったクーデター事件だ。


 ナーシャは小さな食堂で働いていた。14歳で働き始めたその食堂は陸軍基地のすぐ目の前にあって陸軍の隊員が頻繁に訪れていた。2階建ての建物の1階にあり、客席数は20席ほどしか無い。そこによく客として訪れていたのがロンだった。

 ナーシャがお水を出して注文を聞くと、ロンはいつも優しく見上げてなにか一言二言世間話をしてくれた。だから、ナーシャがロンがお店に来てくれるのを楽しみにするようになるのもすぐだった。

 店員と常連客としてよく会話を交わすだけの関係の2人の転機はナーシャが15歳になった頃だった。仕事終わりに帰宅しようと店の外に出ると、寒空の中でロンが立っていた。コートを着込んで冷たくなった手をすり合わせていた彼は、私を見つけるとにっこりと笑って近付いてきた。そして、迷惑でなければ交際して欲しいと言って恥ずかしそうにはにかんだ。

 まさかそんなことを彼が言ってくれるなんて夢にも思っていなかったナーシャは天にも昇る気持ちだった。


 付き合い出して一年程したナーシャが16歳の時、ナーシャとロンは結婚した。食堂の店員のナーシャと陸軍の一般兵のロンは安月給をやりくりして郊外に小さなアパートメントを借りて2人の愛の巣にした。私が見に行ったあのアパートメントだ。

 ナーシャとロンは貧しいながらも寄り添って幸せだったと思う。食堂が終わったらまっすぐに家に帰り温かい料理を作って大好きな彼を待つ。ささやかな晩餐を囲んで二人で笑い合った。少なくとも、ナーシャ(わたし)はとても幸せだった。


 しかし、そんなささやかな幸せは長くは続かなかった。結婚生活が4年目を迎える頃、陸軍の一部で不穏な動きが見られ始めたのだ。一部の幹部が国の政策に不満を持ち、軍で国を掌握しようとしたあのクーデター事件が起きた。軍自体も統率がとれていなかったようで内部分裂した陸軍の内紛は2ヶ月に及んだ。

 ナーシャはその事件が起きた日、いつものように食堂で働いていた。開店準備をしているとやけに外が騒がしいと疑問に思い様子を伺いに外に出たのがまずかった。流れ弾に当たり負傷し、やっと授かった我が子は流産した。そして、負傷した傷口から感染症にかかり衰弱し、命を落とした。


 まだナーシャは20歳、ロンは23歳の時だった。


 ナーシャが居なくなった後のロンの様子は回りの人から聞いた話でしか知らない。

 ナーシャが死んだあと、ロンはクーデター事件の征圧でめざましい活躍を見せたという。もしかしたら、ロンはナーシャとまだ見ぬ我が子を亡くしたことで自暴自棄を起こして死にたかったのかも知れない。命を落とすことを恐れなくなった人間は戦闘でも恐怖しない。その自暴自棄の結果、ロンはただの一般兵士から出世コースにのった。


 陸軍の幹部は通常、陸軍学校を卒業したエリート達がなる。そこを卒業していない一般兵で出世コースに乗るのはほんの一握りしかいない。死のうと思ったらそれが成果になるとは、なんとも皮肉な話だ。そして今、ロンは陸軍の大佐の地位に居る。




 

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