29話 まさかの出会い
吾輩たちが屋敷を飛び出してから、もう二時間ほどが経っただろうか。
「なんだかすっごい禍々しいところにきちゃったね……」
「ん? ああ。そうか、そうであったな」
カリファに呆然としたように呟かれ、そこでようやく吾輩は正気に返った。
空を飛んでいるうちに無意識のうちに魔族領の方に飛んできてしまったようだ。
地平線には刺々しい城がいくつか立ち並び、頭上は分厚い灰色の雲が覆っている。
人間にとっては中々見たことのない光景であろう。
「すまんなカリファ、つい癖で魔族領の近くまで飛んできてしまった」
なにせ吾輩元々邪神であったからな。
今は人間の身となった吾輩だが、それもまだ一年足らず。
邪神として数万年単位で生きていた吾輩にとっては、邪神としての精神に引っ張られてしまうのは些か仕方のないことなのだ。どうしてもそちらの方が馴染みがあるしな。
しかしこれも失態には違いない。
なにせ失意のカリファを危険な魔族領近くに連れてきてしまったのだから。
咎められてしかるべきであろうな……そう思う吾輩に、腹部に抱き着いているカリファは優しく告げる。
「でも、ジョナスの暮らしてきたところが見れてちょっと嬉しいかも? えへへ」
天使!
もし本物の天使がカリファを天使ではないと断ずるならば、それを不服として天界に戦争を挑むのもやぶさかではないほどには天使。
なんと健気で、なんと愛おしい女性であることか。
吾輩カリファが愛おしくてたまらん。
「カリファ、大丈夫であるぞ。心配するな、其方には吾輩が付いている」
「うん、心配してないよ。わたしにはジョナスがいるもんね?」
……なんだそれは。なんだそれは。
形容しがたき愛おしさに、思わずギュッと抱きしめてしまったではないか。
元邪神である吾輩をここまで心惑わせるとは、やるなカリファ。
と、腹部のカリファにばかり気がいっていた吾輩に、背中側から声がかかる。
「ジョナス、私の嫉妬の炎が発火しそうです」
「おいやめろ、吾輩のマントをゴシゴシこするな!」
ネズフィラ貴様、思い切り物理的に発火させようとしておるではないか!
それのどこが嫉妬の炎なのだ!
「もちろんネズフィラのおかげでもあるよ。ネズフィラがいなきゃ、私もこんなに落ち着いてられないもんね」
「カリファ様……!」
そんなネズフィラが何をしているのか視認できないカリファは、ネズフィラを労わる。
たしかに吾輩がカリファに会うことができたのも、忌人として虐げられていたカリファをネズフィラが長年守護していたからに他ならない。その点は吾輩もネズフィラに感謝している。
吾輩も感謝しているのだから、其方も吾輩に感謝しろ。これが等価交換という物だ。
そんなことを思っていると、ネズフィラが再び吾輩に声をかけた。
「聞きましたかジョナス、今カリファ様は私に愛の言葉を囁きました」
「愛の言葉は囁いてないよ!?」
「照れ隠しは無用ですカリファ様」
カリファの態度は照れ隠しとは違うと思うのだが……。
「……ネズフィラ。其方、どんどん壊れていくな」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「吾輩のせいなのか?」
「当たり前です。カリファ様とイチャイチャするなんてなんて羨ましい。屋敷から出て行くべきです」
嫉妬が凄いな。
其方は本当に従者として適格なのか? 段々と確信が持てなくなってきたのだが。
「まあ、もう三人揃って屋敷を出ちゃったわけだけどね」
「ハッハッハッ、ナイスジョークだなカリファ……ん?」
自虐的な言葉に笑っていると、ふと眼下に気になるものが見えた。
目を凝らしてみる。あれは……。
「ジョナス、どうかした?」
「いや……子供が泣いている。ほら、あそこだ」
吾輩が指差した先では、平原でぽつんと子供が泣いていた。
平原といっても、ここは魔族領のほど近く。人間の街ほど治安も良くないし、放っておいたら誰かに連れ去られてしまう危険もある。
「本当だ! ねえ、降りようよジョナス。なんで泣いてるかわかんないけど、話だけても聞いてあげよ?」
「カリファがそう言うのならば、吾輩は従うが……ネズフィラも、それでいいか?」
「はい、かまいません。カリファ様のご決断は神の啓示に等しいですから」
「そ、そうか。ならよい」
コヤツ、将来カリファを祀り上げて宗教とか始めないよな……?
吾輩そういうのは許さんぞ?
まあそういうわけで、吾輩たちは件の子供の元へと降り立つことにした。
段々と高度を下げ、子供の元へと近づいていく。
まったく、見ず知らずのものを助けようとは慈悲深い。天女のごとき慈悲深さだ。
しかし、吾輩の時もこうして助けてくれたのだものな。そう考えると自然と頬が緩む。
「どうしましたジョナス、気持ちの悪い顔になっていますよ」
「うるさいぞ」
放っておいてくれ。
そして、とうとう吾輩たちは子供の元に降り立った。
カリファとネズフィラに衝撃を与えぬよう、ゆっくりと着地する。
ネズフィラはそんなことをしなくても平気かもしれぬが、カリファは完全に一般人の身のこなしだからな。慎重には慎重を期さねば。
それに、こういうのを人間界では『レディーファースト』といって、真摯な男性の振る舞いとして考えられているらしいからな。
「ありがとね、ジョナス」
「ありがとうございます、ジョナス」
何気なくかけられた、久しぶりの感謝の言葉。
それはまるで砂漠に沸いたオアシスだった。
「おおぉ……!」
体全体を言いようもない充足感がつつんでゆく。
全ての心地よさの源流。それが今吾輩の身体を蹂躙していた。
暴力的なまでの心地よさだ。頭から足の先まで全ての細胞が喜びの産声を上げている。全身が細胞分裂して、まるで分裂でもしたような爽快な気分である。
「いつまで感動しているんですかジョナス。もうカリファ様はあの子供に声をかけていますよ?」
「むっ?」
どうやらいくばくかトリップしてしまっていたようだった。
ネズフィラの言う通り、カリファはすでに子供に声をかけている。
それにしても、近くで見て分かったがあの子供は魔人であろうに、カリファは気にも留めずに声をかけるのだな。
魔人特有の二本の角は、人間からすると畏怖の対象であると聞き及んでいたのだが……。
「カリファ様が外見のことで色々と苦労されてきましたからね。他者の外見を気にされるようなことはいたしません」
「ほう……さすがカリファだな」
「ええ、自慢の主です。ジョナスには渡しません」
結局着地点はそれなのか。
ともあれ、吾輩たちはカリファが子供に声をかけるのを見守る。
「えーん、えーん!」
魔人の子供は両手を目の近くに当てて、泣いていた。
子供がよくする仕草だな。
魔人でも人間でも、子供が涙もろいというのは変わらぬ事象だ。
子供というよりも、幼児といった方が適切であるかもしれぬな。
見た目も五歳児程度であるし。
そんな子供改め幼児に、カリファは優しく話しかける。
「大丈夫? どうしたの? どこか痛い?」
「えーん、えーん! 違うのです、違うのです~!」
中々特徴的な喋り方だな。
そう言えば昔、吾輩がまだ邪神であった頃、そんな喋り方の魔人と交友があったのを思い出す。
……ん?
「……その喋り方、もしかして其方……!」
吾輩は幼児の方へと一歩近づく。
そして確信した。
コヤツは、アヤツだ。
「ジョナス、知っているのですか?」
「ああ、知っている。よぉくな」
そして、吾輩は些か乱暴な手つきで幼児をひょいと持ち上げる。
「えーん、えー――うわっ!?」
驚いた幼児が顔の前の手をどかす。
そこから出てきた顔は、やはり既知の顔だった。
吾輩はそんな昔馴染みに声をかける。
「久しぶりだな、魔王」
「じゃ、邪神様!? なんでこんなところに!?」
「それはこっちの台詞だ」
平原で一人泣いていた子供。
それは本来魔族領を束ねているはずの魔王であった。




