15話 儚げな花とゾンビ
翌日。
「ジョナス、起きてください」
吾輩を起こしたのは、ネズフィラの固い声だった。
「む……?」
寝ぼけ眼を擦りながら、吾輩は上体を起こす。
体感的にはおそらくまだ四時か、五時か。
邪神であった当時の吾輩ならともかく、人間の身体となってしまった吾輩にとっては少々きつい時間だ。
いままではこんな時間に起こされたことなど一度もなかったはずだが……。
「何かあったのか?」
「でなければこんな早朝に起こしたりはしません。手伝ってほしいことがあります」
そう言うと、ネズフィラは手を引いて吾輩を屋敷の外へと連れ出す。
未だ太陽も顔を見せない中、吾輩は示されるがままにネズフィラが指差す方向を見た。
そこには、屋敷の壁一面に落書きがされていた。
「……これは、酷いという他ないな」
中にはかなり下劣な言葉や品性を疑いたくなるような文言もあり、吾輩は眉を寄せる。
「おそらくバルハルド様の手の者の仕業と見て間違いないでしょう。カリファ様が起きてくる前に、作業を終えねばなりません。なんとしてもです」
そう言って、ネズフィラは両手に布とスプレーを用意した。
「手伝ってくれますね、ジョナス?」
「うむ、勿論である」
吾輩は強く頷く。
「吾輩はカリファの騎士であるからな。心の傷を負う様なものからも、守ってやらねばならぬ」
「よくわかってきたじゃないですか、花丸をあげます」
「苦しゅうない」
吾輩はネズフィラから布とスプレー、それに花丸を渡され、屋敷の壁を掃除し始めた。
「むむ……」
掃除を始めた吾輩は、すぐに顔を曇らせる。
スプレーで書かれたものは、まだ良い。こちらも洗剤の入ったスプレーをかけ、布で擦れば消すことができる。
しかし、魔法で壁を傷つけられてできたような文字などは消しようがない。
どうしたものかとしばし悩んでいたが、吾輩には答えが出せなかった。
手を煩わせるのは悪いが、ネズフィラに問うことにする。
「ネズフィラ、少しいいか?」
「はい、なんでしょうか」
「魔法で作られた傷で描かれた文字はどうすれば良い?」
「ああ、それなら――」
ネズフィラは壁に手を当てる。
すると、傷ついていたのが嘘だったかのように壁は綺麗に元通りとなった。
「――これで問題ないかと」
「回復魔法、か? 凄いな其方」
たしかに回復魔法は物体に使うこともできる。
しかし人に使うのと物に使うのでは、勝手が天と地ほど違うのだ。
ネズフィラが回復魔法を人に使えるとは聞いていたが、物にも使えるとは思っていなかった。
それも、人間としてはかなりの練度……まこと、凄まじい女だ。
「いえ、それほどでも。これでなんとか間に合いましたね」
涼しい顔で言うネズフィラ。
しかし吾輩はそれに疑問を持つ。
「む? 吾輩はまだ一割も仕事を終えていないが……」
二人で分けたのだから、壁の量は半分ずつのはず。
吾輩はその半分の内の一割を、今やっと終えたところだ。
未だに壁は落書きだらけのはず……と、改めて壁を見てみたところ、壁は完全に昨日までと同じまっさらな状態に戻っていた。
「残りはすでに全て私が掃除を終えました。作業は終了です、帰りますよ」
相も変わらず涼しい顔で言うと、ネズフィラは屋敷の中に向かって歩き始める。
冗談であろう? まだ掃除を始めてから五分経ったかどうかであるぞ。
これほど広い屋敷の外壁を、たった五分で掃除するだと……? しかも、一人で?
そんなことは魔族にはもちろん、吾輩にだって不可能である。
一体どれほど熟達した技術の持ち主なのだ、其方。
「……感服したぞ、ネズフィラ」
「カリファ様の従者ですから、当然です」
と、そこまで言ってネズフィラは立ち止まる。
「ジョナスが手伝ってくれたおかげで手早く済ませることが出来ました。礼を言います」
それだけ言うと、再び歩き出すネズフィラ。
共に働く者の新たな凄まじさを知った吾輩は、その後を追うのだった。
そしておよそ二時間後。
朝食の時間となり、吾輩たちは部屋に集まる。
「では、カリファ様、ジョナス。朝食を作ってきますので、しばらくお待ちください」
「待つのはあなたよ、ネズフィラ!」
と、厨房へ向かおうとしたネズフィラを、カリファがピッと指差して制止させた。
「……どういう意味でしょう、カリファ様」
「今日は代わりに私が料理を作るわ!」
「で、ですが……」
あまりに突然のことに何とも言えぬ顔をする吾輩とネズフィラ。
それを見て、カリファは「二人とも、朝から働いて疲れてるでしょ?」と付け足した。
その言葉を聞いたネズフィラが、一気に顔を神妙なものに変える。
「……気づいてらっしゃったのですか」
「えへへ、まあね。気を使ってくれたのは嬉しいけど、貴族になるならあのくらいは耐えられるようにならないとだから」
たしかにカリファの言うことも筋が通っている。
しかし、いざそれを実践できるかというとまた別の話だ。
吾輩はカリファに儚げな花のような印象を持っていたが、芯の強い一面もしっかり持ち合わせているらしい、と自分の中で印象を上書きした。
「しかし、カリファ様のお手を煩わせるわけには……」
主であるカリファが従者である自分に料理をふるまうということに抵抗があるのか、ネズフィラは尚も渋る。
すると、カリファは悲しげに俯いた。
そしてまるで涙を流す寸前かのように声を震わせる。
「……もしかして、私が作った料理は食べたくないってこと? そうだとしたらごめんね、ネズフィラ。わたし、余計なこと言ったよね……」
「い、いえ、是非とも食べたく! 私は是非とも食べたく思っております!」
「じゃあ、私が作るので決まりね」
カリファはそう言って部屋を出る。
去り際に、こちらに向けてチロリと桃色の舌を出した。
それを見てやっと、今の傷ついたような表情と声色が演技だったということに気がつく。
貴族だけあって、世渡りの技術も一般人とは隔絶したものがあるな。
部屋に残されたネズフィラは、やれやれと言った雰囲気で肩をすくめる。
しかしその顔はうんざりという風なものではなく、むしろ嬉しそうなものだ。
「まったく、カリファ様は……。あんなお顔をされたら、例え演技でも認めない訳にはいかないではないですか。カリファ様はいつも私たちのことばかり優先して、もう少し自分のことも考えてほしいものです。ねえ、ジョナス?」
「ん? ああ、そうだな」
「? どうかしましたか?」
「いや……良い主従の関係だな、と思っただけだ」
従者が主人を労わり、主人もまた従者を労わる。
こういう双方向の関係が構築できている主従は実は珍しかったりするのだ。
そんな関係を見事作り上げた二人に感嘆の感情を抱きながら、吾輩は料理が運ばれてくるのを待つのだった。
それから数十分後。
ついにカリファがつくった料理が運ばれてくる。
「おまたせー」
いつもと違うエプロン姿のカリファ。
庶民的な衣装を着ても高貴なオーラがにじみ出ている。
そのアンバランスさは、見る者によってはカリファをより魅力的にみせることだろう。
吾輩は料理に口をつけ、そしてすぐさま二口目を口に入れる。
カリファは見た目のみならず、料理の腕もかなりのものなのか。
カリファとネズフィラ、この二人とずっといると、知らぬ間に吾輩の中での人間というものの基準が高くなってしまう気がするぞ。
黙々と料理を口に運ぶ吾輩に、カリファが視線を向けてきた。
「ねえジョナス、私の料理とネズフィラの作る料理、どっちが美味しい? あ、もちろんひいき目はなしでだよ」
「ふむ……」
吾輩は一瞬考えるが、すぐに答えは出た。
「カリファのものもたしかに美味しいのだが、やはりネズフィラには勝てぬな」
決してカリファの料理が下手という訳ではない。
むしろかなり上手い方だ。今まで食べた料理の中でも上位に入る。
しかしネズフィラの料理は今までで一番美味い。
比べる相手が悪すぎる。
「むぅぅ~。くっそー、ネズフィラに負けちゃったかぁー」
カリファは悔しそうに両腕を広げる。
「ば、馬鹿を言わないのですジョナス! カリファ様、私の料理よりもカリファ様の料理の方が百億倍美味しくございます!」
「いやいや、それはないって。自分でもネズフィラに勝ってるとは思ってないもん」
カリファはそう言ってネズフィラに首を振る。
そして楽しそうに笑った。
「でも負けたままでいるつもりもないからさ。今度私にお料理教えてね?」
「は、はい、もちろんでございますカリファ様!」
そして、その後も和やかな雰囲気で食事は進んでいった。
「ところでカリファ様、一つよろしいでしょうか」
「うん、なに?」
食事をとり終えたところで、ネズフィラがカリファを呼ぶ。
そして、完食した自らの皿を見ながら言った。
「これらの料理、味自体はとてつもなく美味ではあったのですが……材料に野菜が何一つ見当たらないのですが」
「ぎくっ」
「好き嫌いは駄目だと、以前から何度も申していますよね?」
ネズフィラの目線がカリファへと動く。
ジトッとした半目で見られたカリファは、乾いた笑いを浮かべた。
「い、いやー、あはは……ジョナス、私を助けて! 今こそ騎士としての力の見せ所だよ!」
「ジョナス、余計な手出しはやめてくださいね。今から私はカリファ様とオハナシしなければなりませんから」
どちらの言うことに従うべきかと考えた結果、吾輩はネズフィラの言うことに従うことにする。バランスの良い食事は健康にとっても大事だからな。
それに、なんかネズフィラが凄く怖い。逆らってはいけない気がする。
「悪いなカリファ、今回の吾輩はネズフィラの味方だ」
「うぅ、そんなあ……。ネズフィラのお説教長いから嫌だぁ……」
「カリファ様のお体のことを考えて言ってるんです!」
「は、はい……」
怒られてしょんぼりとするカリファを見て、吾輩は思わずクスリと笑ってしまう。
いつものカリファとは大違いだな。こうして見ると、年相応な子供だ。
「あっ! ねえネズフィラ、ジョナスが私を見て笑ってる! 怒られている主を見て笑うなんて、騎士としてあるまじき行為じゃないかな? これはもうお説教じゃないかな!?」
「おいカリファ!?」
其方、自分だけ怒られるのが嫌だからといって吾輩を巻き込もうとするでない!
そんなところまで年相応の子供みたいな考え方をするな!
「ジョナス、何を笑っているのですか。あなたもお説教です!」
「!? む、無茶苦茶ではないか!」
吾輩怒られるのは嫌いなのだ、勘弁してくれ!
たまらず逃げようとした吾輩の足を、誰かがグイッと掴む。
振り返ってみると、そこには不気味な笑みを浮かべたカリファがいた。
「えへへ、逃がさないよジョナスぅ……!」
「性格変わっておらぬか其方!?」
儚げな花でも何でもないではないか!
むしろゾンビだぞ!
「二人纏めてお説教です! 覚悟してくださいね」
「なんで吾輩がこんな目に……」
「えへへ、ごめんね? でも、一緒に怒られてくれてありがとう、ジョナス。大丈夫だよ、二人一緒なら辛さは半分で済むから!」
「いえ、カリファ様。二人分なので、お説教の時間も二倍です」
「!? じょ、ジョナス、助けて!」
「今更遅いであろう……」
それから数十分間、吾輩は慣れない正座をさせられながら、騎士としての心得を叩き込まれるのだった。
そして翌日。
朝起きた吾輩は、カリファとネズフィラの表情が硬いことに気が付く。
「どうかしたか?」
吾輩の質問に、ネズフィラは神妙な面持ちで答えた。
「……バルハルド様が、カリファ様が忌人であることを世間に発表したようです」
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