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隣にいる人  作者: iliilii
7/20

07

 基さんと玄関の前で別れ、お風呂を洗ってお湯を溜める。歯を磨きながら、お風呂にお湯が溜まっていくのを何気なく眺めていた。

 この部屋の造りが全体的に余裕があるのは、基さんに合わせたからかと不意に納得した。ユニットバスも一般的な賃貸サイズより大きい。浴槽は私が足を伸ばせるほどだ。天井高も二千七百と高め。トイレだって狭くはない。全て一般住宅並みに余裕がある。


 ゆっくりとお風呂に浸かっていると、急に右手首が痛んだ。見ればうっすらと赤くなっている。あの時の気持ち悪さが蘇り、薄ら寒くなる。今まで誰かに触れられてあんなに気持ち悪いと思ったことはない。そもそもあんな風に腕を掴まれたことなんてない。


 それ以上湯船に浸かっている気にもなれずに、早々にお風呂を出るも、お気に入りのモコモコパジャマを着るも、スキンケアするも、髪を乾かすも、一度思い出してしまった不快感がいつまで経っても消えてくれない。意味もなく手首に目がいってしまう。

 お風呂で暖まったはずなのに妙な寒さを覚え、もう寝るだけだからと部屋を暖めなかったことを後悔する。


 ピンポーン、と鳴ったインターホンの音に飛び上がるほどびっくりして、もしかしてと慌ててモニタを覗けば基さんの姿。急いで玄関の鍵を開け扉を開けると、するっと大きな体が入り込んできた。


「今日は寒いなぁ、湯冷めする。柚、一人で平気……じゃなさそうだね」


 余程情けない顔をしていたのか、指の背で頬をなぞった後、ぎゅっと抱きしめてくれた。その温もりにじんわりと体が温まり始める。


「お風呂入ったよな。鍵だけ持ってうちにおいで。一人で居るの嫌だろう?」


 頷くもどうにも離れがたくてそのままくっついていたら、私をくっつけたまま基さんが部屋に入り、「鞄開けるよ」と鞄の中からキーケースを取り出し、そのまま基さんの部屋まで連れて来てくれた。

 基さんの部屋はちゃんと暖められていて、基さんの体温と、部屋の暖かさに、ようやく基さんから離れることが出来た。


「ほら、これ羽織って」


 ブランケットをぐるぐると巻かれ、ベッドと大きなテーブルの間にあるスペインの都市の名前がついた椅子に座らされた。手渡されたのはホットミルク。口に含めば独特の甘さが隠れていた。


「ハチミツ?」

「ああ、俺喉が弱いんだよ。だからハチミツは常備してるんだ」


 近くにある椅子の上に積まれた本を退かし、基さんが目の前に座る。手にしているのはグラスに入った琥珀色の液体。それを口に含み、ごくりと飲み込むときに上下に動く喉仏。なんだかそれが妙に男の人を感じさせて、どうしてかそわそわしてしまう。


「で? 何があった?」


 その言葉に喉仏から視線をその瞳に移す。基さんの茶色がかった瞳に映っているすっぴんの自分が、なんだか妙に恥ずかしい。


「えっと、山本さんや河野さんが言う通りのことです。少し大げさでしたけど」

「それは分かった。そうじゃなくて、トイレの前で何があった?」


 それは話してなかった。ぎゅっとホットミルクの入ったマグカップを握りしめて、その甘さを口に含んでから話し出す。


「お手洗いから出てきたら、彼が通路を塞ぐように立ってて。『当てつけか』みたいなことを言われて。意味が分からなくて。通り過ぎようとしたら腕を掴まれて……。すごく気持ち悪いって思っているときに基さんが来てくれて……」


 言葉にするうちに再び気持ち悪さまで込み上げる。お手洗いがお店の入り口近くでよかった。思わず手首に視線をやれば、それに倣って視線を動かした基さんは、少し赤くなった右手首を見た瞬間、眉間に皺を寄せた。


「痛む?」

「ん、さっき少し。お風呂で暖まったから痛みが出たのかも」

「湿布貼る?」

「そこまでじゃないです。きっと明日になれば消えていると思うから」


 ホットミルクを一口飲めば、じんわりとした温かさが喉から胸を通りお腹に染み込んだ。


「柚は、男の人が苦手?」

「少し苦手です。でも恐怖を感じる程ではないと思うんです、けど……さっきはすごく気持ち悪くて……。あっ、怖かったのかも」


 きっとそうだ。元々苦手だと思っている人にあんな風に立ち塞がれて、いきなり腕を掴まれて、怖かったんだ。

 思わず手を伸ばせば、しっかりと握ってくれた。


「掴まれたのが右手でよかった」


 指輪もブレスレットも基さんに握られた左手にしている。基さん以外の誰にも触れられたくはない。


 ことりと音を立てて自分の持っていたグラスをテーブルに置き、私のマグカップもその隣に並べ、目の前に膝を突いた基さんがぎゅっと抱きしめてくれる。いつもはその胸に当たる頬が、肩の上に乗る。間近に真っ直ぐに顔を合わす事なんて滅多にない。いつだってそれは見上げた先にあった。


 初めて自分から基さんの唇に触れにいった。軽く触れるだけで離れたそれは、追いかけてきた基さんのそれに簡単に捕らえられてしまう。基さんの唇から伝わる濃いお酒の香りにくらくらする。ただでさえ深い口付けは頭がくらくらするのに。


「柚、今日は一緒に寝よう。大丈夫、まだ何もしないから」

「まだ?」

「それとも、もう覚悟は決まった?」


 分からない。でも、基さんじゃなきゃ嫌だ。

 そうだ、基さんじゃなきゃ嫌なんだ。

 気付いた途端泣きそうになる。いつの間にこんなに好きになっていたのだろう。


「基さんだけがいい」


 おでこがくっつくかと思うほど近くにある好きな人の顔。恥ずかしすぎて目を合わせられないまま、吐息とともに言葉が零れた。


「俺だけにしてもいい?」


 視線が絡めば愛おしげに目を細められた。それだけでもう自分の全てを明け渡したくなる。小さく頷けば、もっとくらくらする口付けが与えられた。




 微かなコーヒーの香り。

 基さんはいつもどこかコーヒーの香りがする。基さんの家も何となくコーヒーの香りがする。

 なんだかあまりに幸せな気持ちで目が覚めたからか、微睡みの中、嬉しくてつい声に出したくなってしまう。


「基さんちみたい」


 なんだかお腹が痛いような、気怠いような気がする。寝過ぎたかも。でも幸せ。基さんの匂い。


「俺んちだけど」


 一気に目が覚めた。

 目の前にくつくつと笑っている基さん。基さんの腕を胸に抱え、肩におでこを付けて寝ていたらしい。

 昨日のことを一気に思い出し、あまりの恥ずかしさにぐりぐりとおでこを目の前にある肩に擦り付けた。なんて言うか、なんて言うか──。


「基さんがあんなにエッチな人だったなんて……」

「エッチな人って、あのくらいはエッチなうちには入りません」


 あれがエッチなうちに入らなかったら、みんな一体どんなことしてるわけ? あんなに生々しくて、あんなに恥ずかしいことだなんて思わなかった。漠然ともっとふわふわしたものかと思っていた。

 基さんの顔が見られない。ぐりぐりが止められない。色々恥ずかしくて死にそう。


「柚、コーヒー飲む?」


 昨日初めて耳にした熱の籠もった湿った声。それとは異なるいつも通りの穏やかな声にぐりぐりしながら頷けば、頭をぽんぽんと撫でられた。

 ふと見た自分の姿に戸惑う。パジャマを脱がされた記憶はあっても、着た記憶はない。どうしようもないほど疲れたことしか覚えてない。それなのにちゃんと着ているってことは……基さんに着せられてたってこと? もうやだ。全部が恥ずかしくて叫びたくなる。

 ぎゅっと抱える腕に力が入り、ぐりぐりがごりごりになる。恥ずかしい。でも離れたくない。今までより一層その気持ちが強くなった。


「柚、コーヒー淹れようと思うんだけど……そっか。もしかして恥ずかしい?」


 どうして聞いちゃうのかな。ごりごりしながら頷く。


「コーヒー淹れてる間、ベッドに潜ってていいから」


 抱えていた基さんの腕がするっと抜かれて、途端に寂しくなる。ベッドから抜け出る直前に軽く落とされたキスにまた恥ずかしさがぶり返した。今度は抱えた自分の膝におでこを付けてぐりぐりする。


 基さんは恥ずかしくないのだろうかと、布団から少しだけ頭を出してコーヒーを淹れている基さんを盗み見る。

 パイル地のルームパンツを履いて、カットソーを着ている全身真っ黒な基さんは、綺麗なブラウンの髪が寝癖で少し跳ねている。なんだかそれを見たら少しほっとした。いつだって格好良く見える都会の人の基さんだって寝癖がつくのかと思ったら、なんだか普通の人に思える。

 そう言えば、顔を合わす前の基さんは都会の格好いい人ではなかった。自分と同じような感覚の人。そう思っていた。

 背の高い基さんにひょろりとした印象はない。かと言ってごつい感じでもない。引き締まった感じはするけれど、所謂マッチョとは違うような。ガリガリと豆を挽く腕はそれなりに筋肉がついているように見える。お腹は凹んでたし……そこまで思い出して、その先まで思い出しそうになって悶える。もう本当に、エッチってこんなに恥ずかしいものだとは思わなかった。なんだか熱が出そうだ。


「柚、たまにはカフェオレにする?」

「あっ、じゃあ、朝ご飯の支度します。パンとサラダと野菜スープでいいですか? あっ、卵もあります」


 急に現実味が増し、頭が切り替わる。


「いいけど、起きられる?」


 何を言ってるのかと思い、体を起こそうとして呻いた。まさか……これって筋肉痛? 確かに昨日変なところにたくさん力が入った気がする。おまけになんだか色々感覚がおかしい。お腹が痛いと思っていたのは気のせいじゃない? どうして基さんが私も知らない私の状態を知ってるの?


 ……これが経験の差というものなのだろうか。何だか落ち込む。


「これ飲んでゆっくりしているうちに楽になると思うから。なんか映画でも見る?」


 豆を挽き終わって、お湯が沸くのを待っている基さんにじっと見られて焦る。

 その前に顔を洗いたい。何となくお手洗いにも行きたい。歯も磨きたい。ヨダレの跡とかないよね。さっきしっかり見られちゃってる。やだもう。


 二人で初めて迎える爽やかうふふな朝なんて、少なくとも私の現実にはない。現実は色々恥ずかしいことばかりだ。


 顔を背ける私に気付いた基さんが、コーヒーを淹れる手を止めて、ベッドから私を立ち上がらせてくれた。

 何なの? この生まれたての子鹿状態。膝が笑うってこういう事?

 体を支えられ、よろよろと洗面所まで連れて行かれ、洗濯機の上に取り付けられたウォールシェルフからタオルを取り出し渡してくれる。基さんちの洗濯機はドラム式だ。羨ましい。

 とりあえず顔を素洗いし、お手洗いを借りて、部屋に戻る頃には、子鹿状態からは抜け出せた。何も付けてない顔が突っ張る。

 部屋に戻ると、ヘッドボードを背にベッドに座らされ、カフェオレを手渡された。お腹まで布団を掛けられ、またブランケットを巻かれる。


「寒くない?」


 頷けばにこりと笑顔を向けられて照れる。


「これ飲んだら一度部屋に戻ります」

「なんで?」


 心底不思議そうに聞く基さんに、何となく情けなくなりながらも、顔が突っ張ることや、きちんと身支度したいこと、朝ご飯の用意をしたいことを告げる。


「そっか。女の子はそういうの必要か。うちにも柚の着替えや化粧品置いておきなよ。歯ブラシはこないだ買った新しいのがあるけど……あれ柚には大きいか。柚は超コンパクトとか使ってそうだよな」


 確かに超コンパクトを使ってる。それよりも──。


「着替えとか、置いてもいいんですか?」

「もちろん。さすがに柚の部屋のベッドは二人で寝るには小さいだろう?」


 またそういうことをさらっと言う。確かに私のベッドはシングルサイズだけれども。


「あとで色々買いに行こう。あ、そう言えば、今週の野菜は何だって?」

「今週はサツマイモです」

「ひと箱?」

「ひと箱」

「マジか。さすがに芋はキツイな」

「でも芋系は日持ちしますから。年明けには栗きんとんにした残りが干し芋になって送られてきます。あと来週は白菜がもう一回来ます」

「サツマイモは蓮の奥さんにスイートポテトでも作って貰う? 蓮のとこの試作として」


 それは嬉しいかも。家で食べるようなご飯は作れるけれど、お菓子は作れない。凝った料理も作れないけれど。


 カフェオレを飲み終わると、ぐるぐるにブランケットを巻かれたまま、基さんと一緒に自分の家に戻る。


「とりあえず今使ってる物みんなうちに持っておいで。朝ご飯の材料も。うちで作ればいいよ。あと着替えは今日と明日の分か。柚、下着だけ自分で用意して」

「でも洗濯もしたいです。掃除もしなきゃ……」

「洗濯はうちですればいいよ。ほっとけば乾くし。掃除は、うちのコを貸そう。持ってくるから柚は用意してて」


 基さんが自分の家に戻った。うちのコってなんだろうと思いながら、ひとまず部屋着に着替え、スキンケアをして、言われた通りシャンプーや化粧品を用意しているとインターホンが鳴る。モニタを見れば渋い顔をした基さんだ。


「柚んちの鍵持ってくの忘れたよ」

「基さん大家さんだからマスターキーとか持ってないんですか?」

「それとこれは別だろう? それやっちゃうと犯罪者になっちゃうよ」


 そう言いながら入ってきた基さんは、お掃除ロボットを床に置いた。


「とりあえず掃除はこれで良しと。準備出来た?」


 一応毎日フローリングワイパーで埃は取っているけれど、週末掃除機をかけるとそれなりに埃は取れるから埃が溜まっていると思う。どことなく挙動不審に動き出したお掃除ロボットが集めた埃は、出来れば基さんには見られたくない。あとでゴミの捨て方を聞いてこっそり捨てよう。


 こそこそと洗濯物を紙袋に入れて、着替えをボストンバッグに詰め、シャンプーや化粧品などはワイヤーのカゴに詰める。朝ご飯の材料をエコバッグに詰めたところで、お財布の中から予備の鍵を取り出し基さんに渡す。


「いいの?」

「はい。その代わり閉め出されたときは助けてください」

「うちの合い鍵も渡すよ。勝手に入ってきていいから」


 たくさんの荷物を持って基さんの部屋に移動し、洗濯をさせて貰う。


「あの、嫌じゃなかったら基さんのも一緒に洗います?」

「柚は嫌じゃないの?」


 頷けば、じゃあよろしく、と洗濯機の上のタブトラッグスを指差した。全部そのまま放り込んでいいらしい。言われた通り放り込み、自分の洗濯物もこそこそと放り込み、教えられるままに操作して洗濯は終わりらしい。干さなくていいと言うのはすごく気楽だ。


「楽すぎる」


 思わず呟けば、笑いながら「これからはうちで洗濯すればいいよ」と言われ、一瞬躊躇するも基さんの分も一緒に洗うからそうさせて欲しいと頼めば、むしろ喜ばれた。基さんはうっかり溜めてしまうらしい。


 朝ご飯と言うには遅い時間に一緒に食べて、今日はどこにも行かずのんびり家で過ごす。ゆっくり色んなことを話しながら、再び淹れて貰ったコーヒーを飲む。

 基さんのご飯の食べ方やコーヒーの飲み方に違和感がない。話すときの間やその速度にも。自分と同じリズムが一緒にいて心地いい。


 漂うように流れている音楽に時々耳を傾けながら、寄り添うように近くに二つ並んだ椅子に座り、とりとめのないことを話しているうちに日が傾きだした。

 一緒にいるとあっという間に一日が終わる。一人で居るときは一日があんなに長いのに。


「忘れてた。荷物取りに行ってくるよ」

「あっ、私も忘れてました。洗濯物乾いてますよね」


 郵便受けの鍵の番号を教えると、慌てて出ていった。私も洗濯機から洗濯物を取り出す。基さんが戻ってくる前に自分の下着は隠したい。ネットに入れてあるからぱっと見分からないだろうけれど、やっぱり恥ずかしい。

 重そうなダンボールと一緒に戻ってきた基さんが、鍵を一本渡してくれた。「うちの鍵」と言って手の平に握らされたそれに、嬉しくて思わず頬がゆるむ。


「嬉しそうだね」

「嬉しいです。憧れてましたから、合い鍵」

「他に憧れてたことは?」

「んーっと、大抵叶えて貰ってます」


 例えば? と聞かれ、貰った合い鍵をキーケースに付けながら思い付くまま挙げていく。指輪を貰ったり、助手席に乗せて貰ったり、手を繋いで近所を散歩したり、家でまったりしたり、一緒にスーパーで買い物したり──。


「ちょっと待って。何でスーパー?」

「えっと、お洒落なお店よりスーパーは、何って言うか、関係が深いって言うか、夫婦っぽい感じがしていいなって」


 言いながら照れる。

 お洒落な街を一緒に歩くより、自分の住んでいる家の周りを一緒に歩くことの方がなんだか素敵に思える。懐に入れて貰えたような気になる。自分が作ったご飯を食べて貰えて、こうして洗濯物を畳ませて貰えて、そういう生きていくことに必要なことを任せて貰えるのがすごく嬉しい。

 ベッドの上に洗濯物を広げ、畳みながら思い付くまま話す。話しながら頬が緩むのは仕方がない。基さんに背を向けていてよかった。


「柚は、本当に……」


 突然背後から抱きしめられた。


「柚、一緒に住まない? 春になったら結婚しよう?」


 いきなり言われたことに驚いて、振り返って基さんの顔を確認する。びっくりするくらい真面目な顔をしていた。


「嫌?」


 嫌じゃない。慌てて首を横に振る。嫌じゃないけれどいきなりすぎてびっくりする。


「近いうちにご両親にご挨拶に行こう」

「どうしたんですか? 急に」

「柚を逃したら俺、一生結婚なんて出来ない気がした」

「逃げませんけど、私でいいんですか?」

「柚がいい。柚は俺でいい?」


 じっと心の奥まで見透かすかのように見つめられ、恥ずかしくなりなからもしっかりと頷く。


 恋はおちるものだと誰かが言っていたけれど、愛は気付くものなのかも知れない。唐突に、何かの瞬間に、自分がどれほどこの人が好きなのかに気付く。どれほど想っているかに気付かされる。それは綺麗なだけの感情じゃない。何もかもを独り占めしたくなる。過去の経験にさえ嫉妬する。


「基さんがいいです」


 湧き上がる醜さを隠してそう答えれば、抱きしめる腕にぎゅっと力を入れながら基さんが呟く。


「俺、焦りすぎてるかな?」

「そうかも知れません。でも、私も焦りすぎてるかも。嬉しいって思いますから」


 初めて言葉を交わしたのは八月の終わり。名前を知ったのは十一月の始め。顔を合わせたのは十一月の終わり。昨日初めて結ばれたばかり。

 でも、その心の在り方を最初に知っていたのは大きい。

 最初はきっとお互いに下心もなく、独り言に答えてくれるような存在として話していたからか、とりとめもないことを話しながらも、その言葉は素直なものでしかなかった。もし最初から顔を合わせていたら、きっと格好付けたりして思うままのことは話せなかったのではないかと思う。普通に出会って会話を重ねるよりも、ずっと濃い時間を過ごしたような気がする。


「早すぎるでしょうか?」

「俺には遅すぎるって思えるんだけど」

「私もです」

「ご両親に反対されるかな?」

「いえ。きっと諸手を挙げて喜びます。問題は──」

「妹さん?」


 少し不安混じりの声に、見上げた基さんの眉が心なしかいつもより下がって見える。


「多分。香ちゃんは結構厳しいので」

「俺のこと話してある?」

「いえ。なんだか照れくさくてまだ話してません」

「年末、時間取れるか聞いてみて? 俺のことはまだ話さなくてもいいから」

「いえ。話した上で会って貰います」


 いきなりは怒る気がする。ちゃんと手順を踏んだ方がいい。香ちゃんは私のふたつ年下の妹だけれど、確実に私よりしっかりしている上に、彼女の方が姉のようだ。


「あのさ、隣のマンションもエレベーターないんだよ。で、今最上階が空いてるんだけど、四階まで毎日階段上って貰ってもいい? 隣が蓮の家なんだけど」


 情けない顔の基さんに笑ってしまう。頷けば、ほっとしたようにその表情を緩めた。






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