英雄特別篇Ⅰ 烈光—”Silver”—
#EX1
「はぁ、はぁ……」
時間の経過も、距離の感覚も朦朧と、意識の中に溶け落ちていく。
無限に続く”出口の無い通路”を、少女は息を切らし、必死に駆け抜けていた。
この”白い通路”で目を覚ましてから、およそ一時間。
自らを追う醜悪なる”何か”から、自分と、自らが抱える小さな”友人”を護るために、少女は必死にこの空間を逃げ続けていた。
(終れない――こんなところで止まれないんだ……!)
赤い髪から滴り落ちる汗が、これが”現実”である事を、これが絶体絶命の危機である事を、彼女の五感に宣告し、白い肌を粟立てる。
自らを追う、夥しい”気配”に歯噛みしながら、少女は、色素すら感じさせぬ無機質な床を蹴り、駆ける。
アレは――”彼等”はいったい何なのか……?
少女……サファイア・モルゲンの疑問は、次なる危機に容易く飲み込まれる。
「ギ……ィ」
「……! ダメ! キミはもう”食べれない”でしょ!?」
自らの腕に抱かれた黒々とした生き物が見せた、”食事”の気配に、サファイアは声を荒げ、その生き物をギュッと抱きしめる。
”過食”はどんな生き物にとっても”毒”だ。
けれど、この生き物は、少女が”ギィ太”と名付けたその生き物は、それを何度も繰り返していた。
恐らくは、彼女を”護る”為に。
身を削るようにして、何度でも。
……その様がまた、”彼”を想起させ、サファイアの胸に鈍い痛みを走らせる。
「……キミにもう無茶はさせない! キミはボクが護ってみせる! この手は絶対……!」
”離さない!”
ギィ太を抱き締める腕にギュッと力を込め、少女はその青い瞳をキッと前へと向ける。
――この”通路”がどこまで続いているのか、果てがあるのかはわからない。
だけど、必ず駆け抜けてみせる。
必ず、”みんな”の元へ辿り着いてみせる。
張り裂けそうな心臓も、痙攣しだした脚も、全て飲み込んで、少女は駆ける。
その青い瞳は宝石のように――、
【赤……ア……っか……あカ……】
「……え?」
――輝きを灯し、闇に堕ちる。
突如、消失した”床”が、サファイアとギィ太の身体を、底無しの、伽藍洞の闇の中へと落下させていた。
先程までの無機質な空間が、次々と夢幻の如く消え去り、どこまでも続くような虚無が、少女と一匹の身体を包み、飲み込んでいく。
これは、まるで――、
(宇宙……)
そう意識した瞬間、凍り付くような寒さと、身を焦がすような熱さが、同時に少女の身を襲った。
闇の深淵、”宇宙”の果てから鳴り響くかのような”声”が、聴覚ではなく精神に直接響く。
”赤…朱…あヵ…アゕァ…”
”声”が次第に形をなし、無数の手のようなものが、粘液に塗れた触手のようなものが、少女の身体を絡めとるように蠢いていた。
薄れていく意識の中で、少女は”果て”で蠢く巨大な”塊”を確かに視認した。
それはまるで宇宙そのものであるかのような、この虚無そのものであるかのような巨大さで、虚ろだった少女の意識を完全に奪い、”生”を消失した諦念の彼方へと誘っていた。
それは、人間が”直に視覚して良いもの”ではなかった。
だが――、
(”諦めるな”……!)
「ギッ………!?」
その刹那、虚無に”光”が満ちた。
ギィ太が少女の目を覚まさんと、その小さな体を捩った瞬間、虚無を力強い声が揺らし、蒼い光が視界に弾けていた。
その光に、少女を追っていた禍々しき”声”達が騒めく。
【……赤、あか、朱、アゕジゃ無い……あヵジャなイイイイイイイイイイイイイイイイイイ……!】
【赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤ア――ッ‼‼】
そこにある景色はまさに地獄であり、正視に耐えない”悪夢”そのものであった。
暗闇に浮かんでいた無数の手と触手が、”悪意”が凝固したかのような咆哮とともに光へと殺到する。
だが、
【――――――――――――ッ!???】
その”悪意”の塊は、底無しの闇を照らす輝きに届く事はなかった。
その輝きの中、力強い声が召んだ”何か”が、その輝く”爪”と”牙”が、無数の手と触手を斬り裂き、霧散させていた。
鋼鉄の蒼龍。
自らの視界を覆い流れてゆく、眩く、蒼く輝く鋼鉄を、ギィ太は確かに認識した。
そして、
(”………………………”)
意識を失った少女を抱きかかえた光は、蒼龍の上へと静かに降り立ち、眩いばかりの輝きに覆われていたその全貌を、状況を注視するギィ太の前に現していた。
それは、鎧装を纏っていた。
だが、それは、”醒石”の適正者が『鎧醒』する鎧装とはどこか違っていた。
底無しの虚無と闇の中に、まるで希望を灯すように輝く銀のアーマーとマスク。
それは”畏敬の赤”の”毒々しさ”、”神々しさ”とは異なる、雄大さと温かさを感じさせた。
「”畏敬の赤”……」
意識を失ったままの少女の腰に巻かれたバックルを一瞥した、銀のマスクからその輝きと同様に力強く温かな声が響く。
この、誰にも記憶されず、軌跡にも残らない”物語”はここから始まる。
この英雄の名を我々が知る事はない。
この物語がその名を語る事もない。
だが、我々はこの英雄を既に知っている。
絶望に飲まれた時、心の底に宿る希望を。
我々が挫けながらも願い、焦がれる”正義”を。
故に語ろう。
この英雄と、少女の邂逅の物語を。
絶望に咲く、名も無き正義の物語を。
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