第14話 蛇蝎―”Poison”―
♯14
※※※
ひどい”飢え”と”渇き”を覚えている。
ガラとセラ。
”人買い”によって、便宜上、そう名付けられた、幼い兄妹は、どこから入ったかもわからない洞窟の闇の中を、数週間に渡り、彷徨っていた。
”売られる”直前に、兄ガラが”人買い”の喉笛を噛み裂き、鮮血とともに、暗道へと転がり落ちた、この”逃避行”は、いよいよ文字通りの”袋小路”へと迷い込んでいた。
もはや誰も辿り着けぬ程の、洞窟の深部まで立ち入った兄妹は、”もはや誰も追い付けぬ”と同時に、”もはや何処にも戻れぬ”状況に陥りつつあった。
――糞ったれだった。
この世は”奪われる”事が常。”与えられる”ものなど、微塵もないに等しい。
ならば、奪い、自らの手で”掴んでやろう”と、兄妹はまず”人買い”という、己の”持ち主”へと”叛逆”を開始した。
まずは自分達を”奪った”ものから、一番大事なものを”奪って”やった。
睾丸を蹴り潰し、喉を噛み切り、唾を吐きかけてやった。
”奪われる前に奪い、殺される前に殺す”
生まれてからの僅か数年間で、少年はそう学び、世の理をそういうものだと理解した。
連中に奪われるのはもう飽きたし、連中への”恨み”もまだまだ晴らし足りない。
俺はこの、糞溜めのような世界で存分に愉しみ、嗤ってやる。
衰弱の激しい妹を背負い、洞窟の闇の中を這い進むガラの口元に、凶暴な笑みが浮かび上がる――。
蝕まれ、膿んだ心に、確かな”毒”が育まれていた。
――また、数日が過ぎる。洞窟の中を這いずり回る鼠や蛇、蟲までも喰らい、何とか命を繋いできた兄妹は、”希望”と”絶望”を同時に味わう事となっていた。
”天”から差し込むのは、紛れもない陽の光――。
外界へと通じる”希望”そのものである。
だが、同時に、周囲を囲うのは、十数メートルはあろうかという、高い岩壁であった。
――それは、とても、衰弱しきった子供に登れる類のものではなかった。
「ああ……うぁ……」
怒りで喉を掻き鳴らそうとしたが、疲弊しきった体が、ガクンと膝を折っただけだった。
岩壁を登るどころか、汚泥の中に、尻餅をついたガラは、ずっと背負い続けてきた妹の顔を見つめる。
もはや自力で歩けぬどころか、命を繋いでいる事自体が不思議な程に衰弱……いや死にかけている妹。
――嫌だ、嫌ダ、嫌ダァッ…!
慟哭と憤怒が歯をガチガチと震わせていた。
……いや、終われない。ここで終わるわけがない。
俺たちは”ボニーとクライド”だ。
こんな場所、とっとと抜け出し、住処に棄てられていた、あの無駄にぶ厚い本に記されていた咎人達のように、すぐに”世界を向こうに回しての乱痴気騒ぎ”だ。
そうだ。
そうに決まってる。
……決まっている。
(あ……ァ……)
ただ……どうしようもなく腹が減った。
五臓六腑が空腹に咆哮し、動かない体を小刻みに震わせる。
(必要だ……)
体を動かすための”食い物”が。
朦朧とする意識の中、凶暴な”生存本能”が糧を探す。
どこだ。
どこだ。
「兄ィ……」
……あった。
白濁とする思考が、絶望に黒く染まる。
そこにあったのは、これから共に時代を駆け抜けるはずの、妹の可憐な笑み。
自分に”促す”、妹の可憐な笑みだった。
――フザけるな。
これでは、”目的”と”手段”が彼辺此辺だ。
その”手段”を選べば、俺は”目的”を――、
「いい、よ……兄ィ……」
「……」
だが、妹は告げる。今際の際に、その言葉を。
”わ た し を ”
呪術のように、言葉が脳髄に溶け出し、身体は――、
※※※
【愚かな……】
誕生した群青色の怪物に、”王”の喉から溜息にも似た音が零れていた。
”首級”を掲げ、朱い光を帯びた黄金の眼を”信仰なき男”へと向ける怪物の名は、”骸鬼・悪喰”。
”畏敬の赤”を人体に直接摂取した響の、新たな”鎧醒形態”である。
「ヴゥ……アァ……」
「響……さん」
響の、群青色の”骸鬼”の肩が上下し、不穏な吐息が凶相の仮面、その口顎から漏れ出ていた。
周囲に散乱する”深きものども”の残骸から立ち込める、生臭い”臭気”が鼻孔にこびり付く――。
視る者の精神を侵し、後退させるような惨憺たる情景がそこにはあった。
鋭く尖った五指が手にしていた”首級”を投げ捨てると、背部から伸びる先端に鋭利な刃を宿した触手達が、それを斬り裂き、赤黒い残骸へと変える――。
(あ……あ……)
悪魔。
それも数多のそれを率いる”魔王”の如き、異貌と異能。
その、概念的にも”人間を棄ててしまった”かのように見える彼の容貌に、ガブリエルの声は否応なしに震えていた。
視界を蹂躙し、埋め尽くすような大群の蝗の幻像も、どうしようもなく不安を掻き立てる――。
その様はまるで、世界の”終焉”を告げる”奈落の王”である。
そして、
「まったく……”奇蹟”には事欠かぬ状況ではあるが、貴様は少々”いきすぎ”だな、響=ムラサメ」
「………」
その群青色の怪物へと、”信仰なき男”は嘆き、謳う。
己の舞台を穢された舞台役者のように、”憤り”を綴る無機質な声音は、剃刀のように聴く者の聴覚に”意志”を刻み込む。
「その”異端”ぶりは、一欠片の容認も出来ん。”深きものども”程度では不足……という事であれば、更なる”幻想”を召ぶまでだ――」
「………!」
また、”現実”が歪み、撓む。
フェイスレスの五指が液状化した”畏敬の赤”を滴らせ、響の足場となっている”海面”が波打つとともに巨大な”蛸足”のようなものが、響の全身に絡みついていた。
絡む吸盤が群青色の鎧装を軋ませ、”海面”の奥底に在る”本体”から漂う瘴気が、響の精神を蝕んでいく――。
更なる破格の”幻想”が、そこに潜んでいるのは間違いなかった。
「おとなしく虚神への供物となるがいい、響=ムラサ―――」
だが、
「ったく……”苛つく”もんだよなァ……”蚊帳の外”ってもんはよォ……」
「………!」
その刹那、己の中に溢れ、零れ落ちるものに喘ぐような恍惚とした声が、聴覚を撫でていた。
不穏な足音が”海面”を叩き、耳障りな嗤い声が周囲へと響き渡る――。
「……”毒蠍”……」
我羅・SS。
突如、周囲に立ち込めた黒い”霧”とともに現れ、隔離されていたはずの”海面”を踏みしめた男は、凶暴な笑みを満面に浮かべ、響が投げ捨てた”深きものども”の生首をその手で弄んでいた。
そして、
「……! 蝗が……!?」
黒い”霧”が、響の周囲に満ちるとともに、視界を埋め尽くす程だった蝗の大群、その幻影がまるで腐食するかのように歪み、跡形もなく消え去っていた。
それだけではない。
同時に、響を捕らえる”蛸足”も”霧”に触れた瞬間、もがくように蠢き、その拘束を緩めていた。
まるで、ソレに怯えたかのように――。
「グゥ……離、れろ……」
「わっ!?」
ドン、と。
”霧”の危険性を察知し、響がガブリエルを”海面”の外へと突き飛ばした瞬間、状況を注視する麗句とシオンの表情もまた、蒼白となっていた。
二人とも瞬時に飛び退き、”霧”から距離をとると、一種の防護膜のように、”畏敬の赤”の光を全身に纏わせる――。
「愚かな……! こんな更地で”毒”を解放するなど……貴様、正気か!?」
「ハァァ……」
気怠げな、だが高揚に満ちた息が漏れる。
麗句の叱責に、”霧”の発生源である我羅は不穏に嗤い、凶暴な笑みを浮かべたその大口で、手にしていた”深きものども”の生首を齧り、咀嚼していた。
「なっ……」
その常軌を逸した行動に、麗句の憤りもすぐ諦観へと変わり、暴挙を常とする、縛られぬ同胞へと溜息と苦笑を送っていた。
この男の行動を予測する事など――不可能だ。
「不味……腐った鯖みてぇな味だな、おい……」
咀嚼していたものを吐き捨て、我羅は”お前も喰うか……?”と生首を響へと差し出す。
応えない響に一しきり嗤うと、我羅はそこでようやく、麗句達への解答を言葉とする――。
「仕方ネェだろ……俺を渇かせやがって。俺を渇かせたら、どうなるか……同胞なら理解るよなぁ……」
”阿修羅毒”。
この惑星の”害毒”とその”抗体”を司る”羅剛石”に蓄積された、その”毒素”は、適正者の”感情の先にある”あらゆるものを腐食させ、壊死させる”猛毒”である。
純金製の首輪に繋がれたアンプル――それに貯蔵された鎮静剤が枯渇した瞬間、その”毒素”は”羅剛石”から溢れ、我羅の暴走する感情とともに世界を腐食させる。
いまは、己を隔離した、フェイスレスの強力な”概念干渉”を腐食させるに留まっているが、ここから先はわからない――。
我羅は黒衣から替えのアンプルを取り出すと、それを指先で弄ぶ。
「俺の欲求は単純だ、フェイスレス。闘らせりゃあいいんだよ、”天敵種”と――。”ぶちまけ”られんのは、手前だって困るんだろう……?」
「………」
傍若無人な”提言”である。
その”狂人”からの脅迫に、フェイスレスは顔面を覆う包帯の下で何事かを呟いていた。
――それは、悪態の類いであったかもしれない。
「まぁ良い……”度し難いもの”同士、潰し合わせるのも効率が良かろう――」
「Haa……感謝する」
フェイスレスの冷めた応答に、我羅の渇いた嗤いが重なっていた。
骨を鳴らすように首を回すと、我羅は”鎧醒器”であるバックル、”蛇蝎錠”を腹部に翳し、バックルから飛び出した鎖でそれを腰へと巻き付ける――。
奏でられる”言霊”は――、
「『鎧醒』ォッ‼‼」
「………!」
”現実”が硝子のように叩き割られ、超常の鎧装が現世に姿を顕す――。
言霊の発生と同時に”畏敬の赤”が爆裂し、禍々しき黒の鎧装が、我羅の全身を瞬く間に覆っていた。
”死と戯れる毒蠍”。
そのような呼称を持つ鎧装は、随分と”傾いた”鎧装だった。
『鎧醒』前と同様の特攻服を想起させる黒衣はそのままに、各部を捻じれ、尖った禍々しい鎧装で覆ったその異貌は、機能性よりも”対峙する者への精神的影響”を重視したもののように見えた。
……”喧嘩装束”。そんな言葉が響の脳裏を過ぎる。
顔面を覆う機械的な仮面には、白骨化した蠍が意匠として張り付いており、蠍の尾を思わせる長い蛇腹状の武装が、辮髪のように背部へと垂れていた。
足裏に厚底のように張り付いた”鉄塊”も、”凶器”と見て間違いはない――。
そして、
「Haa……GoddamnoraEHHHH――ッ!」
「――!」
意味の掴めぬ罵声とともに、格闘技術的な裏打ちなど何もない、強引なフォームで繰り出された”ケンカキック”が、響を直撃し、群青色の鎧装を後方へと弾き飛ばしていた。
鉛を直接、内臓に叩き込まれたかのような衝撃が響を襲う――。
「ぐ……が……?」
……技術的に優れた要素など何もない。だが、その”蹴り”はどうしようもなく強烈に、響の内臓を揺らしていた。
それは、この我羅という男が単純に”強い”という事の証明でもあった。
”畏敬の赤”を体内に満たす”骸鬼・悪喰”すら凌駕する、”狂気”と”力”が、我羅という男を起点として黒の鎧装に満ち満ちていた。
それに群青色の鎧装は蠢き、騒ぎ出す――。
「きょ、響さん……!」
「大、丈夫だ……」
駆け寄るガブリエルに応えた響の、”骸鬼・悪喰”の額に、眩い”光輪”が輝く――。
「俺は”まだ”俺のまま……闘えるッ!」
「ヌゥ……!?」
開戦。
全身の筋肉の制限を振り切るようにして躍動した、群青色の鎧装が、”死と戯れる毒蠍”へと躍りかかり、肘から腕部鎧装を仰々しく飾り立てる”黒獣棘”による斬撃を振り落とす――!
「フン……!」
舞い散る火花と鈍い金属音。
我羅の兜から伸びる蛇腹状の武装が、斬撃と鍔迫り合い、拮抗する。
だが、響の――”骸鬼・悪喰”の着地と同時に、蛇腹状の武装は弾かれ、我羅の仮面には、一筋……薄い傷跡が残されていた。
両者の眼光が交差し、舌舐めずる気配が、我羅の仮面の下から漂う。
「……危ねぇ、危ねぇ。愉しみすぎると、”真っ二つ”だな、こりゃあ……」
「………」
響の、”骸鬼・悪喰”の額には、村雨の刀身が融け、変形したものと思われる球状の”精神感応物質”が輝いていた。
それは”畏敬の赤”に飲み込まれかけていた、響の精神と”共鳴”する事で、彼の意識を安定させ、”骸鬼・悪喰”の制御を補助していた。
”アルファノヴァ”における”三位一体の魂石”に近い役割を果たすものなのかもしれない――。
”天敵種”でありながら、同じ存在の裏表であるように、両者の成り立ちは酷似しているように、ガブリエルには思えた。
――ただ一つ、”畏敬の赤”を摂取した響の身体が、鎧装の”餌”である事を除けば。
そして、
(あ……)
何かが繋がった感触があった。
得た印象は、ガブリエルの脳裏に一つの閃きをもたらしていた。
”アルファノヴァ”にあって、”骸鬼・悪喰”にないもの。
それは――、
「……響さん」
「……?」
対峙する我羅へと集中していた響の意識が、ガブリエルの声に、ガブリエルから漂う、思い詰めた”気配”に振り向く。
その気配が、響の五感を刺すように刺激し、”骸鬼・悪喰”の凶相の仮面はいま、ガブリエルの小さな体躯に釘付けとなっていた。
――響を見据える幼竜の表情。そこには、重い”決意”が滲んでいた。
「……響さん。体内の”畏敬の赤”を制御する方法が、一つだけあります。たった、一つだけ――」
「な、何……?」
予期せぬ言葉に惑う響へ、ガブリエルは己の意志を伝える。
「……を――」
「――――――――――!」
吹き荒ぶ”朱い”衝撃。
告げられた”手段”に、響が絶句した瞬間、轟――!と。
地鳴りの如き足音を響かせた”王”を起点として、円状に放たれた”朱い”光が、大地を割り、粉塵を巻き上げ、過剰な”奇蹟”で、現実に虚ろな”穴”を穿っていた。
――従来の”王”の力である”蒼い光”とは異なる、揮獣石の”畏敬の赤”としての力の顕現である。
それも、極めて高濃度の。
「なっ……」
「”獣王”……」
”獣王”の巨躯が漂わせる、”これまでとは異なる”気配に、一同の意識が再び、この”王”へと集中する。
戦闘を開始した我羅と響の視線さえも、この”王”はものの数秒で独占していた。
いま――その”王”の咢が、”信仰なき男”へと向け、開かれる。
【……余所見の時間は終いだ、”壊す者”よ……】
「ほう……?」
響へと向きかけていたフェイスレスの意識もその数瞬で、完全に”獣王”へとその照準を戻していた。
”……ああ、そうだ。卿はそうだろうとも”
最も、油断ならぬ”敬愛すべき”敵へと――虚無を湛えた両眼が細められる。
”些末事”など、もはや視界にすら入っていない。
【――”お前達の真似事”をしてやろう――】
『鎧醒』。
”王”の喉が囀った言霊に、誰もが耳を疑い、息を呑む。
”奇蹟”を必要とせず、”奇蹟”すら捻じ伏せる、絶対の”王”。
その”獣王”の顔が、いま機械的な仮面に覆われていた――。
NEXT⇒第15話 覇竜-”Gigantis”-