第13話 悪食-”Abadon”-
♯13
「ハハッ……堪らねえ、堪らねえよ! お前は……俺と闘れ」
響の身体から溢れ出す群青色の”壊音”を見据え、我羅の唇から渇いた、脳内物質に酔いしれた声音が零れる。
目の前にあるのは、体内に”畏敬の赤”を持つ生物――。
他には存在しない、一点物の”原種”だ。
そうだ。
あの”獣王”でさえ、己を制御・抑制するために”畏敬の赤”を利用しているに過ぎない。
響のように生体へ直接摂取、循環させているわけではないのだ。
響のケースは――”畏敬の赤”を、”醒石”を喰らう性質を持つ”天敵種”ゆえに、成せる”異常”と言えた。
【……ぬぅ。”喰らう者”か……】
そして、全生命の頂点、”王”たる”獣王”も、その新たな”生物”の誕生を認識し、その白濁とした目を、響へと向けていた。
”動かぬのなら滅さぬ”
響の行為は、この警告の一線を越えるものである。
”調停者”として認識した、新たな”標的”の出現。
それに、”王”の尾が揺らめき、動く。
その刹那――、
「余所見をしている暇はないぞ、”獣王”――」
【……!】
信じ難い事が起きる。
自らを跳ね飛ばさんとした”尾”を踏み付け、”王”の間合いへと踏み込んだ、フェイスレスの掌打が、その巨顎を撃ち抜き、信じ難い事に――”王”の巨躯を僅かに”グラつかせ”ていた。
――”獣王”に肉弾戦を挑む。
その愚行とでも呼ぶべき暴挙に、麗句達の舌は語るべき言葉を失う。
まして、それを成す、存在があるなど――。
【ヌゥゥ……】
「どうした? ”王”よ。"大男総身に知恵が回り兼ね”――か?」
弾幕の如き、拳の連打が"獣王”の顔面を打ち続け、その”圧”に屈したかのように、崩れた足場の岩盤が”獣王”の巨躯を飲み込み、生き埋めのような形で”獣王”の巨躯を一時的に”捕獲”する――。
すぐ様、その上に馬乗りになり、嗤うのが――不遜なる”信仰なき男”である。
まるで遊戯に興じるように、その目は愉し気に細められる。
「フン……元来、卿を封じるならば、氷山の一つも必要であろうが――」
”いまはこの一瞬で充分だ……”
そう告げるとともに、鉛のような、否、彗星が地表に衝突する衝撃を想起させるような拳の雨が、再度”獣王”へと降り注ぐ――。
息を呑み、見守る他に術はなし。
麗句もシオンも、その光景に目を釘付けとされ、すぐ傍で起きている”天敵種”の異変からも、その意識を遮断されていた。
一方的な、あまりに一方的な惨状であった。
……その、”声”が響くまでは。
【戯れるな……”下郎”】
「……!」
フェイスレスの瞳に、蒼が閃く。
太い弦を皮手袋で擦ったかのような、”王”の声が響くとともに、”獣王”の開かれた頸部から蒼い光が、熱線が迸り、その噴射力で”王”の巨躯を崩れた岩盤の中から、”宙”へと推し上げていた。
”空を飛んだ”に等しい、その業に。直撃を受けた熱線に。弾き飛ばされた”信仰なき男”を、轟音とともに着地し、苛立たし気に尾を大地へと叩き付ける”王”の白濁とした両眼が睨み付ける――。
「フフ……”調停者”ではない、”素”の卿が垣間見えたな。愉しいぞ、”王”よ――」
【…………】
この二人の”決着”までの道程はあと、どれ程のものか――。
予備動作一つなく、まるで”見えない糸に引っ張り上げられる”ようにして、身を起こした”信仰なき男”の不遜なる声に、”王”が発した”唸り”が重なる。
恐らく、まだ一合目にも達していない”死闘”。
だが、一つの”異変”に、傍観者達は既に、言葉という概念を根こそぎに奪われつつあった。
こんな事は、あり得ない、と。
「やはり……生身で”遊興ぶ”には荷が勝ち過ぎるな……。卿の、身体は」
彼方此方だった。
”王”の身体には、僅かな損傷も、出血も認められない。
だが、対して”信仰なき男”の身体は、その状態は異なる。
彼の四肢は例外なく、あらぬ方向に折れ曲がり、捻じ曲がり、彼が掲げて見せた掌は、あろうことか全ての指が明後日の方向を向いていた。
”攻撃を加えていた”のは、彼だったにも関わらず、だ。
「フ……これではフォークすら満足に使えぬ」
フェイスレスはそう告げると、映像を巻き戻すように、己の四肢を”復元”して見せる。
その様に、”王”の唸りがより”深く”なるのを、麗句の聴覚は確かに探知した。
”王”は、何かを”察知”している――。
【やはり……”通らぬ”か】
疑念が言葉となり、”王”の喉を鳴らす。
”熱線”を至近距離で浴びせたにも関わらず、フェイスレスには”損傷”がない。
”王”を殴った事によるダメージはあれど、”王”の攻撃によるダメージはないのだ。
「フフ……そうだ。”創世石”の加護を受けた私の身体は、常に高度な”概念干渉”で護られている。”概念干渉”を伴わぬ攻撃では、私から触れぬ限り、毛ほどの傷もつけられぬ――」
フェイスレスは嘲り、”復元”した己が腕を、その指の関節を試すように、パキリと鳴らす。
「先程のように腕を吹き飛ばせる”幸運”は、二度とは訪れんよ」
”王”の牙がギリ、と軋む。
それは、”概念干渉”で己が力を抑制する――すなわち、”概念干渉”と”鎧醒”を解除する事で、その真価を発揮する”獣王”にとっては、大幅に不利な条件と言えた。
対抗策と成り得る”奇蹟”。”概念干渉”を無効化する”魔女の吐息”も、現在の消耗した麗句では、満足な効果を発揮・維持する事は困難である。
……あらゆる状況が、”信仰なき男”に有利に働いていた。
全てはこの男の計略通り。
掌の上なのか――。
「……嘆く事はない。幸い、時間はまだ、たっぷりある。じっくりと、濃密に――”遊興ぶ”余地は充分にあるのだ」
不穏な昂揚が、両眼の”虚無”の中に満ち、包帯の隙間から微かな嗤い声が漏れ聞こえる。
「故に、興を醒ますような”異端”には、早々にご退席頂こう――」
「……!」
フェイスレスの声音に、不吉な残響が満ちていた。
何か、おぞましい事が起こる。
その予感が、麗句の、傍観者達の肌を粟立てる――。
「……”幻想召還”……」
「……!」
一滴。
一滴の液状化した”畏敬の赤”が岩肌へと滴り、”現実”の中に不穏な波紋を広げる。
「な……!?」
”異変”はすぐに響の足元に起きていた。
”水”が地面を浸し、大きな水溜りを響の足元に作っていた。
ベトつく肌触りや臭気から察するに、これは”海水”――。
突如として、”海面”が響の足元に顕れていた。
【…鐚醐執鐚…%…※…ア…】
「――!」
あまりの事にガブリエルの息が詰まる。
続いて妙な声が響いていた。
人間の聴覚では聴き取れぬ”声”であり、”言語”だった。
海面から伸びた”手”が、響の足首を掴み、やがて、その暗く湿った”おぞましき”面を覗かせる――。
「……人間の創造が生み出した虚神。人間が創り出した”怪物”を屠るには相応しかろう――」
海面からその全貌を現したのは、灰緑色の体表を持つ、名状し難い”何か”。
その群れであった。
人間に似た四肢と体格を有しているが、その顔部は蛙とも魚ともつかぬ不気味な形状をしており、その首には鰓が確認できた。指と指の間には水かきがあり、水棲の存在である事を窺わせる――。
群青色の”壊音”が、響の足首を掴む手首を切り刻むが、さしたるダメージも受けた様子もなく、その"本体”は体液を海面に滲ませながら潜水し、再浮上。
響を包囲する群れ、その隊列に加わる――。
そのおぞましき光景に重ねられるのは、フェイスレスの不遜にして、不穏な声音である。
「フ……その”深きものども”は一体一体が、お前達”人柱実験体”と同等の力を備えている。おとなしく虚無への供物とされるがいい――”天敵種”」
響の姿を一瞥する事もなく、そう告げて、フェイスレスは天に翳した指を静かに鳴らす――。
「失せろ、”異端”――」
「くっ……! 響さん……!」
”信仰なき男”の号令とともに膨れ上がる、”深きものども”から漏れ漂う”殺意”の悪臭を察知し、ガブリエルは響の”目”となるべく、彼の右肩に飛び乗る。
――”餌”に反応し、群青色の”壊音”が騒めくが、幼竜に躊躇の余地はなかった。
”畏敬の赤”を五感に取り込んだ現在の響は、初めてサファイアが『鎧醒』した時と同じく、五感に溢れ、掌の上に握られた”未知なる”感覚に溺れ、制御できずにいる。
響が語った通り、五感の暴走によって”見えない”目を、ガブリエルが補助する必要があった。
"力”の奔流に飲まれ、早まる響の呼吸と鼓動が、肩越しに生々しく伝わってくる――。
「……み、右ですッ!」
撃鉄が起こされ、引き金が弾かれる……!
”深きものども”の群れが右サイドから響へと雪崩れ込み、ガブリエルの指示に従い、躍動した群青色の”壊音”が、芝を根から刈り取るように迎撃する――。
鞭のようでもあり、触手のようでもある形状となった”壊音”が、百足のような節足と牙をチェーンソーのように絶えず蠢かせながら、”深きものども”を切り裂いていく。
だが、高い再生能力を持つ群れを完全に蹴散らす事は出来ず、360度、全方位から絶え間なく襲い来る、”深きものども”を、響はガブリエルの声を頼りに迎撃し続ける――。
「うっとう、しい、な……」
「え……?」
”畏敬の赤”を大量に摂取した影響からか、荒み、罅割れた声音が、響の喉から零れ落ちる――。
赤く染め上げられた目が、ぐるぐると動き、唇が歯の隙間から飢えた獣のような息吹を微かに漏らしていた。
幸い、響と”闘りたがって”いる我羅は、海面から生じる”概念干渉”の影響で、響の傍には近付けないようだった。
だが、それはフェイスレスが”本気で”響を始末しようとしている証明でもある――。
そして、
「ヴヴヴ……オオオオオオッ!」
「ほう――」
示された響の”力”に、フェイスレスの目が興味深げに細められる。
振り上げた響の腕が”解放”した、群青色の”壊音”は細く連なる刃の縄となって、大気中に満ち、”深きものども”をズタズタに斬り刻んでいた。
無意識の”概念干渉”を伴った一撃は、”深きものども”にとって感知できるものではなかっただろう。
それは、単体で”概念干渉”を駆使する”人類”の誕生した瞬間であったかもしれない――。
……”それ”が、”人類”と呼べればの話だが。
「私を”殺めたい”か……? 私を”誅したい”か……? ”異端”。 お前に定められた、”喰らうべき”忌み子。”神”の申し子はここにいるぞ――」
”顔のない男”が包帯の下で嗤っていた。
”挑発”するように、不敵に指を鳴らすフェイスレスに、響の”畏敬の赤眼”が向けられる。
海面からは、その異貌を黒い鎧装と”畏敬の赤”の粒子で覆った、半ば”鎧醒”した状態と言える、新たな”深きものども”が浮上し、響を包囲していた。
”創世石”の分身たるガブリエルが感知した、それら一体一体に秘められた”力”は、正に”破格”だった。
”神の子”からフェイスレスに流れ込む、”創世石”の加護は、彼等にも注ぎ込まれていると見て間違いない――。
だが、
「響……さん?」
「もう……大丈夫、だ」
響の手は、”目”の役割を果たすガブリエルを下がらせるように、その柔毛に覆われた腹部をポン、と押していた。
……その掌を固く握り、響は己の中に溢れるものと、己の中から溢れ出さんとするものを噛み殺すように、歯牙を噛み合わせ、軋ませる。
同時に多量の”畏敬の赤”の粒子が、響の身体から噴出し、その赤く染まった目が”信仰なき男”から周囲を取り囲む”深きものども”へとその目線を移していた。
「ああ……”殺して”やるよ。お前等が何だろうと……俺が、どうなろうと」
抑え、溜め込んだものを解放するように、歯牙が剥かれ、掌が開かれる――。
誰もが息を呑み、その情景を見守っていた。
新たなる”何か”の誕生を。
「ヴゥオオオオオオオオオオオオオオオオオッ! 『鎧醒』ッ!」
「――――!」
瞳の”赤”が円輪を描き、煌々と輝く――。
響の喉が、”言霊”を発すると同時に、群青色の”壊音”が響の全身を覆い、鎧装を形成していた。
……異様な『鎧醒』だった。
鋭く尖った群青色の”壊音”が、”餌”に食らいつくように、響の全身へと食い込み、禍々しくその形状を鎧装へと変貌させる様はまるで――、
(……共食い、か)
その麗句の呟きと認識は、正しかった。
”畏敬の赤”を人体に摂取した響の身体は、”壊音”にとって至上の”餌”である。
いま、響は己の体を”餌”とする事で、”壊音”と己を密接に繋ぎ、制御している。
……己の命を食わせる事で、響は”畏敬の赤”を喰らう獣の全容を、その掌中に収めているのだ。
「ダメです! 響さん! そんな事――絶対にダメだっ!」
ガブリエルの叫びも、変貌した”標的”へと躍りかかる”深きものども”のおぞましき声で塗り潰される。
群青色の”壊音”で形成された鎧装が、その群れへとゆらりと反応し――、
「鐚醐執鐚……ッ!?」
”恐怖”が、響く。
人間には聴き取れぬ言語である。
だが、”怯え”ている事は良くわかった。
響の――群青色の”骸鬼”の五指が、迂闊に間合いに入った一体の下顎をとらえ、それを覆う黒の鎧装を軋ませていた。
同種を捕らえ、”畏るべき”気配を纏う群青色の”骸鬼”の異様に、”深きものども”は一瞬で”恐怖”し、その動きを封じられていた。
これは決して、”触れてはならぬ”ものだと。
「ヴゥウ……ヴァウッ!」
「……!」
響の叫びとともに、”深きものども”の下顎は鎧装ごと引き千切られ、大きく肥大化した”黒獣棘”が、”深きものども”の上半身と下半身を切断! 人ならざる臓物が膿の汁のような体液が撒き散らされる――。
(な……)
戦慄が、静寂を呼ぶ。
あまりの暴虐に、場の言葉が喪われると同時に、数体の”深きものども”が、群青色の”骸鬼”の背後から奇襲を仕掛けていた。
だが、駄目だ。
”彼”の背部から生え伸びる触手の如き突起によって、それらは瞬時に刺し貫かれ、無残にその肉と骨を抉られ、潰され、ただの”塊”へとバラバラに解体されていた。
そして、
【イ タ ダ ギ マ ス】
背部鎧装の中央から伸びる大口を備えた触手――"悪種の罪牙”が、奇襲を仕掛けたはずが”畏れ”に立ち尽くす一体を、頭からバリバリと喰らっていた。
響の意志からは独立しているのか、その食い様はどこまでも悪辣で、残忍だった。
歴戦の兵達の、肌を粟立てる程に。
「フン……どこまでも”異端”なのだな、貴様は……」
その様に”信仰なき男”は眉を顰め、指令を出すかのようにその指を鳴らす――。
同時に”海面”に”畏敬の赤”が満ち、”深きものども”はそれに繰られるように、雪崩れ込むように群青色の”骸鬼”へと殺到する。
その情景に、群青色の”骸鬼”の黄金の眼が”朱い”光を帯び、その鎧装が大地を蹴り飛ばす。
「ヴゥオオオオオオオオオ……ッ! ヴァラゥッ!」
高く跳躍した群青の鎧装が、同様に跳躍していた一体の頭頂に鋭い肘鉄を叩き込み、脳髄ごと叩き潰すと同時に、躍動した渾身の膝蹴りがその半身を細切れの肉片へと変えていた。
響は着地と同時に、背から放たれる触手と、"悪種の罪牙”によって、次々と”深きものども”を物言わぬ塊へと変えていく……。
召ばれた”幻想”は、”現実”に踏み躙られ、無残に砕かれる――。
「ヴゥウ……アア……」
「鐔縁……讐鐔鰹……っ‼‼‼」
認識できぬ”恐怖”の言語を吐き出す最後の一体、その喉元に、”骸鬼”の”黒獣棘”が押し当てられ、群青色の右手が頭部をガッチリと掴んでいた。
鋭利な爪が頭蓋を割り、脳髄に達し、凄まじい力が諤々と首を揺らす。
そして――、
「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!」
「……!」
鮮血が弾ける。
群青色の腕が頭部ごと脊髄を引っこ抜き、”深きものども”の体内に満ちていた”畏敬の赤”を、混沌とした闇夜へと噴出させていた。
”決着”である。
”信仰なき男”の手札は無為に帰し、大量の体液と”畏敬の赤”を浴びた、群青色の鎧装は手にした首級を掲げながら、”信仰なき男”を見据えていた。
同時に、フェイスレスが召還した”海面”から湧き出すように、無数の何かが空間を埋め尽くす程に飛び回る。それは――、
「こ、これは……」
「蝗……か?」
手で触れる事もできなければ、衣服に触れる事もない。
だが、フェイスレスが召還した”幻想”を媒介に、その蝗の群れは全員が共有する”幻覚”として、場に確かに存在していた。
それら蝗の群れは、群青色の”骸鬼”の周囲を舞うように乱れ飛ぶ。
”それ”が出現した事の意味を、世界に示すように――。
「……幻想の中に凶兆を呼ぶか、つくづく危険な存在だな。貴様は……」
――”骸鬼・悪喰”。
誕生した群青色の怪物に、”信仰なき男”の気配が澱む。
響の選択は何を呼び、何を掴むのか――。
凶兆の中、解答は”赤”に塗り潰される。
いま、群青色の腕から滴る血の雫の中――凶相の仮面が咆哮を上げる。
NEXT⇒第14話 蛇蝎―”Poison”―