第07話 迷いと行き先
#9
「う…うぅ…」
生活を彩る雑音もなりを潜め、ただ嗚咽だけが響いている。
電気もろくに点けられていない薄暗い部屋のなか、少年はベッドのシーツに顔をうずめるようにして身体の奥底から突き上げてくるような慟哭に身を震わせていた。
自宅近くの雑貨店で休ませてもらっていた彼は、一時間ほど前にサファイアに連れられて彼女の家に移動していた。サファイアは手早く自分の部屋を片付けると、アルを招きいれ、横になっているよう頭を撫でてくれた。
そのサファイアはいま、アルの夕食用に買い物へ出かけている。買い置きもあるにはあるが、食欲の欠片もなくなったアルにも食べやすいメニューを考えているのだろう。
けれど、その事実が悲しい。本来なら自宅に戻り、母が作ってくれた料理に父と共に舌鼓を打っていたはずであった。なのに、そんな当たり前だった日常はもう二度と訪れない。かつて、一番、身近にあったものが、いまは遠く離れてしまっている。
どんなに手を伸ばしても届くことのない場所へと。その事実に行き着くたび、瞳から涙が零れ、口内から嗚咽が漏れた。
そして、部屋の外からそんな少年の姿をじっと見つめる一つの存在があった。
瞳には悲しみが、痛みが、自らへの怒りが満ちている。
――ガブリエル。首元のプレートに大天使の名を刻んだ、その小さな存在は恩人である少年の痛々しい姿に身を震わせていた。
本当に嫌になる。
わかっていたはずだった。自分のような存在が人のあたたかさに身を預ければ、こんな悲劇を招く。だから、自分はどんなに苦しくても独りであるべきだった。
首につけた血が凝固したかのような赤い石。
憎み、すがり、破棄したいと願いながらも護り続けてきたこの石。お前は、貴方は、貴女はいったい何をさせたい――こんな悲劇ばかりを繰り返して、何をいったい望んでいる!?
激しい憤りが小さな体躯を壊してしまいそうなまでに噴出し、噛みあわせた牙の隙間から低い唸り声を漏れさせる。そんなガブリエルの様子を知ってか、知らずか、アルがベッドから降り、ガブリエルのほうへと近づいてくる。
手の甲で涙を拭い、ふらふらとした足取りでリビングへと向かうアルは、部屋の入り口でうずくまっているようにも見えるガブリエルの姿に気付き、枯れた喉で言葉を搾り出す。
「ごめんな、お前の相手してやる余裕、ない――」
アルの視線がテーブルの上へと向かい、母が朝、おみやげとして持たせてくれたパイを捉える。自分や響、ガブリエルのためにサファイアが切り分けてくれていたそれがお皿の上に乗せられている。突然の事件を象徴するように、軽く布を上にかけられただけのお皿の姿が、アルの胸に突き刺さるようだった。
「畜生…」
アルの拳がふるふると小刻みに震え、その瞳からふたたび雫が零れはじめる。倒れ、背を丸めて嗚咽していまいそうな自分を奮い立たせるように、アルは両掌をテーブルへと叩きつけた。
……許せない。こんな、こんな事態を引き起こした、父と母の生命を奪った奴が――絶対に許せない! 沸々と湧き出る黒々とした感情を噛み殺すように、アルは皿の上のパイを手掴みし、強引に口内に押し込んだ。
涙の塩辛い味と混じり合いながらも、その程よい甘味、鼻を通り抜ける果実の香りは、紛れもなく母の味だ。
「母さん、美味いよ、美味い……」
そう――もう二度と、味わえない味だ。崩れ落ちそうになる体を何とか椅子に座らせてアルはその味を何度も噛み締める。何とか立ち上がろうと行動してみても、瞳に映るものすべてが、昨日とは違う今日という現実を突きつけてくる。
そして、その現実にもがく少年の姿はガブリエルの胸に鉛のように重く圧し掛かった。
(お前はどうする? 信じる道をゆくか、横道にそれるか)
ガブリエルの耳に、いつでも優しく雄雄しかった声が蘇る。
(選ぶ余地がないにしても、選ぶのはお前だ。好きにすればいい……)
お前が選ぶ道なら、俺が全力で護る。戦うにしても、逃げるにしても――。
結果的にその言葉は嘘だった。世界で一番、優しく残酷な嘘だった。
選択の余地のない答えを選んだのは彼のほうだった。そうだ、自分はいつも、周囲を巻き込んで、不幸にして――。ガブリエルの瞳に決意の光が宿る。痛々しいまでに悲壮な、光が。
「アル」
「え…?」
とても、とても小さな声がアルに届いた。そのか細さにアルはおもわず周囲に視線を走らせる。姉はまだ帰ってきていない。響の声でもない。いま、この家には自分と――、
「ごめん、アル」
「え……あ……?」
この、小さなガブリエルしかいない。か細く耳に響く、鈴のような優しい声音。それは、間違いなくこの小さな生き物から発せられていた。
あまりのことに、うまく思考を紡げない。アルはただ呆然と、眼前の超常、存在を見つめるしかなかった。まるで……夢を見ているみたいに。
「ごめん、アル。全部、ぼくの……ぼくのせいなんだ」
「お、お前、どうしたんだよ、それ……」
アルが目を見開き、声を震わせたのも無理はない。ガブリエルの白い体毛から緑色の粒子が滲み出ているのだ。
天使の羽毛のように空間を浮遊するその緑の粒子はあたたかさをともなって室内に満ち、アルの視界を満たす。
目の前で起きていることをどう処理していいかわからず、アル自身、何を言っていいのか、何を言っているのか、よくわからない状態となっていた。
「アル、ぼくは……ぼくは……っ!」
「お前の……せいで? ど、どういう意味だよ!?」
懸命に状況を整理しようと、悲しみで麻痺していた頭をフル回転させながら、アルは緑色の粒子のなかで姿を変えつつあるガブリエルへと尋ねた。
「ぼくが……わたしが……この街に、この自治区に来たから、人に頼ったり、甘えたりなんかしたからこんなことに……ヤツらが、“ヤツら”がここに……!」
「ヤツら……?」
告げられている情報に思考が追いつかない。ヤツラ、ヤツら、奴ら、奴らがここに……? それはあの公園の茂みのなかで震えていたガブリエルが本当に恐れていたもの……?
まさか――、
父さんと母さんを、殺した……もの?
「お前……ガブリエル、お前、いったい……ッ!?」
少年の“友人”を見る瞳に、憎しみに似た光が灯らなかったといえば嘘になるだろう。数え切れぬほどの疑問と詰問が少年の瞳に敷き詰められていた。
「本当に……本当にごめんなさい。本当に、わたし――」
その少年の視線に対し、涙で滲んだ声音で紡がれる謝罪――。アルの胸に亀裂が走るようだった。ガブリエルの声にこもるナイフにも似た、痩せて尖りきった悲しすぎる音色。
自らの怒りや憎しみに溶け込むような、ただその音色だけがアルの胸に染込み――、
「あっ……あああああああああっ!?」
「ガ、ガブっ!?」
そして、それはまるで暴発、だった。
その刹那、ガブリエルの首もとに付けられた、あの赤い石が猛烈な光を放ち、室内にある絵画や置物、下の階にある車庫に置かれているエクスシアなどを飲み込んでゆく。
それはそれぞれの物質、構造を解析するようでもあり、自らの息吹を吹き込んでいるようでもあった。
やがて、光は破裂するように室内で弾け、衝撃でアルの身体を転倒させる。
奇妙な、奇怪な衝撃だった。肉体や物質よりも精神に直接、作用するような。
それは恐怖とも違う、畏敬にも似た感情を喚起させる。
“神”の如き己が力を誇示するように――。
「ガブリエル……」
アルが身を立ち上がらせ、周囲に視線を走らせたとき、既にガブリエルの姿はなかった。光と緑色の粒子のなか、最後に目にしたシルエットは人、のようにも見えた。それも、ひどく弱々しい……。
夢、か。夢を見ているのか。泣き疲れて、こんな幻想じみた夢を。いまも自分の身体はベッドの上にあって、眠っているのかもしれない。けど、けど――、
(アイツ……泣いてた)
少年は自分の目を濡らしていた涙を拭い、自分を落ち着かせるようにただ床の一点を見つめていた。本当に全部、アイツのせい……なのだとしても。ここでこうしているのも現実じゃないとしても。ここで見て、接したガブリエルの悲しみだけは“真実”だと思えた。ガブリエルの裸の心情が直接、胸に突き刺さったような、鈍い痛みがアルのなかに残っていた。
「なんなんだよ、もう……」
茫然自失とつぶやいて、アルはその場にへたりこむしかなかった。涙や嗚咽はでなかった。雪崩や洪水のように猛然と押し寄せた超常に押し潰されたかのように、少年の思考は停止しつつあった。現状を整理するように、アルはへたりこんだまま壁を睨んでいた。
――何を恨んでいいのか、何にすがっていいのかすら、わからない。激動し、目まぐるしく姿を変えていく世界のなか、一人取り残されてしまっているかのような孤独と空虚が苛立ちとともに少年を支配してゆく。
少年は昨日まで知らずにいた、ひどく悲しい瞳をしていた。
けれど、その瞳はたしかにやるべきことを探していた――。
◆◆◆
雨が、隊員寮の窓を叩いていた。
今回の事件における捜査本部であり、前線基地であり住処でもあるこの場所で若者は、雨の水滴が流れる窓に険しく強張った怒りの表情を映していた。
いま、その若者……保安組織ヴェノムの副長であるジェイクの指と指の狭間で、粘土のような物質が付いたり離れたりしている。。
ある程度の力――常人の力ではこねることすら難しいが――を加えることで千切れ、同程度の力でふたたび一つに結合するこの物質は、強化兵士の戦闘衝動、破壊衝動を和らげ、抑制するための単純だが、それなりに効果的な”特注品”である。
……そうだ。なぐさめ程度の効能でも、怒りに煮えたぎる今の自身を抑え込むには必要な物だった。
「……ジェイク? こんなとこで何してるの」
そして、そんな彼の耳にミリィのすこし掠れた、疲労が“こびりついた”声音が響く。
――責任を感じているのだろう。彼女は何度も絶対監視の力を使い、自らの精神と肉体に負荷をかけ続けている。ここに来たのも頭痛を緩和するための“薬”を求めてのことだろう。
「ミリィ、お前は少し休め。何回、能力を使ったと思ってる」
彼は、ジェイクはそれだけを言うために、この隊員寮に戻ってきた。
彼とて、すぐに飛び出したい、街を駆けずり回り、犯人の首根っこをおさえ、その全身をズタズタに引き裂いてやりたい――そんなドス黒い衝動を噛み殺し、ここにいる。
「……嫌。これくらい何でもない」
震える手が棚の上、錠剤の入った瓶へと伸びる。だが、その手はジェイクの掌に掴まれ、行く手を阻まれる。
「俺は副長だ。死に急いでる奴を放置できない」
「……みんなそうだろ。私だけじゃない」
おおっと。ミリィの返答にジェイクは嘆息。ポリポリと頬を掻く。
「可愛くないねぇ、顔はキュートなのに」
「阿呆か。口説きでもやってるつもり? こんな時に……」
口説き、か。ジェイクの口の端が自嘲に歪み、二人の視線が交差する。
その刹那、胸の奥底に閉じ込めた獣じみた本能に火が点くのを、ジェイクは確かに感じた。
「それも悪くないな、このまま押し倒して無理矢理休ませるってのもいい」
「ふん、やってみ…」
ガタッ! ミリィがジェイクの手を振り払おうとした瞬間、ミリィの身体はテーブルの上に倒されていた。戦闘タイプではないミリィを遥かに凌駕する反応速度、押し返そうとしてもビクともしない腕力。
――何だこれ、本気モードじゃないか。
「お、おい、冗談やってる場合じゃ」
「冗談? 冗談じゃないかもな」
ジェイクの鋭い目がミリィを見下ろしている。ごくり、とミリィの喉が鳴る。ジェイクの顔がミリィの目の前まで接近し――、
「――惚れてるからだ」
「は?」
予想外の言葉を告げる。
ジェイクも勢い、喉から飛び出た言葉に若干、驚いたような表情を見せたが、それもすぐに飲み込み、言葉を続ける。
どのみち、いつかは告げることだ。
ここまできたら突き進むのみである。
「惚れてるから、お前は死なせたくない。それが、“本音”だ」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ……!」
至近距離から投げかけられる言葉に、ミリィの緊張は混乱へと移行し、羞恥に頬が熱く、赤くなる。
「バ、バカ! なんでこんな時にそんなこと言うんだ!?」
「今度の敵はヤバそうだからな、墓まで持ってくようなもんじゃねぇだろ。こういうのはさ」
ジェイクはそこで手を離し、ミリィへと笑んで見せる。
「お前が隊長一筋で、分が悪いのは百も承知だが……勝ち目の薄い戦いってのも嫌いじゃない。むしろ燃える性質でね」
「な……なに言ってんだ、ばかぁ!」
真っ赤になって吼えるミリィに、ジェイクは背を向け、“行ってくる”と手をひらひらとふってみせる。そこでミリィは彼の手のひらの上にいることに気付く。
(まったく、いつもこうなんだ、こいつは……)
頭痛と疲労でふらふらになっていた自分が、ジェイクによって与えられた混乱と動悸のおかげでハッキリと認識できた。そういう策なのか。
昨夜の件もそうだ、強引で、大仰で…、
「ふ、ふざけるな! 只の友達だからな、お前と……私はっ!」
捜査へと向かうジェイクの背に叫ぶのが精一杯だった。
そして、ミリィにはわかっている。
これはただの策ではない。ジェイクという男は、こういう事をたわむれに言う男ではない。いままで戦友として共に歩いてきたのだ。ただの軽口じゃない、そういう気持ちなんだって理解できる――。けど、
(どうしろってのよ、こんな時に……)
そうだ、友人なのだ。大切な友人だ。近くにいすぎて、その気持ちに気付かなかったのか、それとも気付かないふりをしていたのか。どちらも正解かもしれない。
頭痛にふらつく体をひきずるようにして、ミリィも外へと向かう。確かに、こんな状態では、足手まといでしかない。少し、時間が必要だ。体を休め、頭を冷やす時間が――。
◆◆◆
「はい! だいぶ、おまけしておいたから、アル坊のこと、くれぐれも頼むよ」
「うん! ありがと、おばさん!」
いつも愛用している食料品店で袋いっぱいの食材を受け取り、サファイアは店から借りた自転車の籠へとそれを収める。
相棒は昨夜から故障したままだ。今回の事はアルのお父さんに修理を頼もうかとも考えていた矢先の出来事だった。
身のまわりにある一つ、一つの事象が失ったものを、去ってしまった人たちの息吹を胸に蘇らせる。アルはきっと、自分たちなどよりももっと、その感覚に苛まれているだろう。
早く帰ってあげないと。いま、雨に濡れる街は、ホワイト夫妻を喪った悲しみに沈んでいる。だが、その悲しみゆえに一つになっているともいえるのかもしれない。
誰もがホワイト夫妻の死を悼み、アルの身を案じていた。その想いは“姉”としての自分に託されている――意地っ張りで、生意気だけど、やさしくてかわいくて、ほんとは泣き虫なあいつを。
「あ…」
「あ」
そして、自宅へと向かうべく彼女が自転車に跨ろうとしたとき、予期せぬ人物と目が合った。
短く切り揃えられても、可憐さを失わないショートの黒髪に、その愛らしい容姿には不似合いな左眼の眼帯。
――ミリィ・フラッド。保安組織ヴェノムのメンバーであり、恋人である響の同僚でもある女性。サファイアにとっては、“少し特別な”と注釈がつけられる同僚かもしれない。
この雨のなか、ろくに傘もささずに歩くミリィ・フラッド。自らのレインコートが弾く雫の音のなか、サファイアの瞳は自然、彼女のほうを向いていた。
ミリィもサファイアの姿に目を大きくしている。夜道での遭遇という昨夜と似たシチュエーションではあるが、立場と心情は大きく違っていた。
ホワイト夫妻の殺害を防げなかった保安組織の隊員であるミリィと、夫妻の息子であるアルの姉としてのサファイア。どちらの心にも苦痛が色濃い。
(……会っちゃうもんだな、妙なときに……)
ミリィにしてみれば、あんなことのあとで、顔を合わせづらい相手だったかもしれない。
“恋敵”である、彼女は――。
「どうしたんですか? もし買出しだったらボクが買っていきます。ヴェノムのみんなにそんな手間……」
「そ、そんな! サファイアさんはアル君のことで手一杯なのに」
あいかわらず献身の人だな…。当然のように助力を申し出るサファイアに、ミリィの口元に呆れたような笑みが宿る。
自分は本来なら恨まれて、叱責されてもやむを得ない立場だ。事件を抑止できる能力を持ちながら、未然に防ぐことができなかった。
超能力、“魔法使い(ウィザード)”が笑わせる。結果が残せないなら“手品師 ”と変わらない。まったく、自分はどこまで――、
「……買出しとか、そんな上等なものじゃないんです。少し頭を冷やせってジェイ…あいつに言われて」
うつむいて、ミリィはポツリと言葉を漏らす。
あんなことがあったからか、ジェイクの名を出すのに抵抗があった。目の前に“恋敵”がいるせいもあるかもしれない。
ううん、そんな色恋沙汰、やってる場合じゃないのに……。さまざまな感情が入り混じり、ミリィの表情は否応もなく沈む。
両親を失ったアルの気持ちを思えば、こんな個人的な感情で揺らぐことなど論外だ。己の弱さと向き合い、打ちのめされているがゆえの苦渋がミリィの表情に滲み出ていた。
その表情から彼女の抱える複雑な想いが伝わるのだろう。サファイアはしばし、ミリィの表情を見つめていたが、“うん!”と、自身に気合を入れるように、足を一歩、踏み出す。
「ミリィさん!」
「え」
「一緒にがんばりましょう! その……うまく言えないけど」
はい、栄養源! そう言ってサファイアはミリィの手に林檎を一つ握らせる。雨で冷えたミリィの手にサファイアの体温、そのぬくもりがしっとりと伝わる。
「人間だから仕方ないと思うんです。感情って殺せるわけじゃないし、どんな時でも自分は自分だから、逃げられないんですよね、結局。でも……その、ボク、負けませんから」
ええと…、顔を赤らめ、恥ずかしそうに頬をかきながら、サファイアは意を決するように息を吸い込む。ぶんぶんと顔を振り、恥じらいをふりきった彼女に自然、健やかな笑みが宿る。
「実はボクだって心配なんです。響の側に、ミリィさんみたいな綺麗で素敵な人がいたら。でもミリィさんで良かったとも思うんです。尊敬できる恋のライバルって……どうかと思うんですけど」
「サファイアさん……」
てへへ、と鼻の頭をこするサファイア。
そこにあるのは唖然とするくらいの眩しい表情だった。他の女性なら嫌味に感じてしまうような台詞かもしれない。
けど、彼女には無縁だった。言葉に滲んでいるのは嫉妬や嫌味ではなく、強い意志だ。響=ムラサメという人を想う強い意志。まるで、同じ人に心ひかれた同志であるかのような共感すら感じられた。
実際、そうなのかもしれない。この女性がそういう人間であることをミリィはよく知っている。
「なんで……」
ずるい、と思う。考えていることを読まれたのも悔しいし、自分にはそこまでの余裕も、強さもない。好感を持ちながらもサファイアを憎いと思ったこともある。なのに、この人はなんで――、
「なんでそんなに強いんですか? サファイアさんはずるいです。強化兵士でもないのに、私なんかよりずっと強い。ずっと……」
「……ミリィさん……」
ミリィの搾り出すようなその言葉を、サファイアは少しキョトンとして、けれど真剣に受け止めていた。彼女が言っていることの意味を思案し、解きほぐすように自らの声を、言葉をゆっくりと編んでゆく。
「ミリィさんがボクのなにを強いと感じるかはわからないけど……ボクは弱いから、背伸びしていつも強くなろうとしてるだけで…ああっ! もう、うまく言えない!」
自分でももどかしいのか、サファイアはくしゃくしゃと赤い髪をいじる。
「ボクは子供のころからいろんな人に助けられて、助けられてばっかで、だから人の力になりたくて……けど、全然ダメで。いまも響やみんなに頼りっぱなし。今度のことも、結局、みんなに負担を、一番辛いことをさせてる――外野なんです、ボクは」
「でも、そんなサファイアさんが支えてくれているから隊長は戦えている。側にいるからわかるんです。側にいない時でもサファイアさんが隊長の側にいるって。――悔しいけれど」
「そうなの……かな」
たぶん、それは彼女にとって救いではないのだろうと、ミリィは思う。
たとえ、どのような理由であっても、傷つき、血を流す者があることが彼女には悲しく、辛く、悔しいのだろう。
自分のために戦ってもらおうなんて彼女は考えていない。強化兵士が戦うためだけの生物兵器であることなど、彼女は意にも介さない。
境遇にかかわらず人を、人として愛することができる、そんな女性だから響も彼女を守るためにあえて遠ざけ、命がけで自治区を護る戦いを続けているのだろう。
ただ、その彼女の強さの源となるだけの悲しみと痛みもサファイアの言葉からは感じられた。十代の若さで彼女が世界を旅していた理由、その旅の最中にあった出来事をミリィは知らない。
けれど、わかる。彼女が旅のなかで抱え込んだ無力感、悔恨を彼女の言葉の端々(はしばし)から感じることができきる。
彼女も戦いのなかにある、自らの弱さと向き合い、もがきながら日々を生きている。健やかに笑み、他者に手を差し伸べながら。その姿は美しい――。だから、
「だからこそ、サファイアさんも間違いなくヴェノムのメンバーで、大切な力の源……なんだと思います。外野なんて人に、こんなにやきもち、やけないですから」
言いながら、ミリィはいつのまにか微笑んでいた。
もしかしたら、自分は響に惹かれているのと同様に、この女性にもひかれているのかもしれない。
本当に不思議な恋敵である。話しているうちにそんな気分になってしまうのだから。
そして、彼女が言うように人が自分自身から逃れられないのなら、自分は自分として自分ができることを懸命にするしかない。
個人的な感情も、果たすべき任務も、自らを形作るものとして全力で挑むしかないのだ。
人々から恐れられる強化兵士らしからぬフレーズだが、目の前の素敵な“強敵”から送られた言葉が、ミリィのなかで開花し、新たな力となり、脈動していた。そして――、
「……姉ちゃん」
「……!」
聴覚に届いた、雨のなかに消え入りそうなか細い声。ミリィとサファイアがその声に振り向けば、そこには傘もささずに雨に打たれる一人の少年の姿があった。
「アル、君…?」
栗色の髪をぐっしょりと濡らし、うつむいたまま立ち尽くしているその少年は、何かをこらえるように、口を真一文字に閉じていた。
ふさぎこんでいる……という印象ではない。悲しみに沈んでいる心と身体を無理矢理、動かし、声を絞り出した。けれど、それが精一杯で立ち尽くしている。そんな気配があった。
ミリィは半ば呆然と少年の姿を見つめていたが、サファイアはお店からタオルを借り$ると、彼に歩み寄り、優しく声をかける。
「どした? お腹、すいた? いっぱい……泣いたもんね」
びしょ濡れの頭を拭き、サファイアは姉としての微笑みを弟へと向ける。頬をつつむ彼女の手があたたかく、雨に奪われていた体温が徐々(じょじょ)に戻ってゆく。
確かに自らとつながりのある、自らのなかにしみこんでくるような、姉のやわらかな気持ちがアルをときほぐし、その口をゆっくりと開かせる。
「ガブが……」
アルの口から言葉が、想いがこぼれる。
「ガブ……ガブ君がどうしたの?」
「ガブ、ガブが、でていって……」
アル自身、現状と気持ちの整理ができていないのだろう。彼の身に起きたこと、自らが目撃したこと、一つ一つを整理するように、アルは言葉を選び、つないでゆく。
「アイツ、泣いてたんだ。全部、自分のせいだって」
ミリィは“ガブ”という存在に関する知識を持たない。サファイアにしてもまるで“ガブ”と会話を直接かわしたかのようなアルの言葉に戸惑いをおぼえないわけではなかった。
けれど、疑うような気持ちが微塵もおこらなかったのも事実だった。
ただただ、ガブリエルという存在に対するアルの優しさが胸に刺さるようだった。
心を抉るような悲しみのなかで、“友人”を捨ておけなかった彼の優しさ。
それだけで、充分だった。
「そうなのかもしんない。ガブのせいなのかもしんない……けど、けど……」
「ほうっておけない?」
「うん」
悲しみに濁っていたアルの瞳に強い光が宿る。はっきりとした、彼の意志が。
「一緒にさがしてほしいんだ、姉ちゃんに」
――深い喪失のなかで見つけ出した、やるべき事。喪失という名の泥沼のなかでわけもわからずもがいているだけなのかもしれない。
だけど、胸の奥底で光る気持ちを頼りに、少年は歩き出そうとしていた。
その気持ちを受け止め、サファイアも行動に移る。
「おばさん、ごめん! またあとでとりにくるから!」
自転車の籠に入れていた食料品の山をお店に預け、アル用の傘を受け取ると、サファイアは可愛い弟とともに、“ガブ”の捜索へと向かった。
ミリィはその二人の姿を見守りながら、拳を握り締める。
(……守らなきゃ、この人たちを、このあたたかさを、絶対に)
サファイアも、アルも、自分たちのすべきことを懸命におこなっている。なら、自分も保安組織の一員として、自分の仕事をするだけだ。
この自治区を、この自治区に生きるすべての人々を守り抜いてみせる。
もう迷いも、失敗によるいじけた気持ちも、ミリィのなかには存在しなかった。
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