第09話 稀人―”decision”―
#9
「くっ……!」
響は冷静ではなかった。
”弟”の危機への焦燥が、彼の判断力を上回った結果であったのかもしれない。
弟の危機に駆け出した響の眼前に、”単眼巨人”が放射したミサイルによる焔と衝撃波が迫っていた。
衣服と肌を焦がす高熱。
己が身から解き放った”壊音”、その”捕食対象”である”畏敬の赤”の奇蹟ではない、単純な、”物理的な”危機がいま、響の命を脅かしていた。
そして――、
「止まるなッ、馬鹿者……!」
「……!」
耳朶を打つのは、玲瓏なる声音。
響の瞳に予期せぬ黒衣が閃き、焔と衝撃波は響を飲み込むことなく、四方へと霧散する。
焔が去った静寂の闇に揺らめくのは、”彼女”の背に刻まれた”逆十字”の紋章――。
「ア、アンタ……」
「勘違いするな。可愛い”弟”をああしただけでなく、お前まで無駄死にさせたとあっては、彼女に合わせる顔がないのでな……」
振り返った麗句の黒い瞳が、叱咤とともに響を見ていた。
”鎧醒器”で円を描くようにして、焔と衝撃波を霧散させた彼女は、響の無事を一瞥して確認すると、油断なく”単眼巨人”の挙動へとその目線を映す。
「厄介な男に、厄介な力が渡ったようだしな――」
「”創世石”いイイイイイイ――ッ!」
音響装置から響き渡る、常軌を逸した絶叫。
”変生”を遂げた”単眼巨人”の脳となった、ドクトル・サウザンドは、己が新たな器となった”単眼巨人”の巨躯を、猛然と疾駆させていた。
”巨人の腕”は霧散したまま、復元する様子はない。
赤い髪を、舞い上がる粉塵になびかせる”神の子”は、感情を宿さぬ虚無に満ちた蒼の瞳で、迫り来る”脅威”を睨む。
「ハッ……! ”軍医”の野郎、はしゃぎやがって!」
”俺もはしゃぎたくなってきたぜ……!”
我羅が不穏な呟きとともに、両手を繋ぐ鉄鎖を軋ませ、同時に”獣王”の猜疑と憤怒に満ちた眼差しが、”単眼巨人”の狂態を凝視する。
”獣王”のその眼差しの理由が、シオンには理解る気がした。
「確かに……似ていますね。”力”を解放した貴方に」
【…………】
”獣王”は応えず、ギシリと牙を軋ませる。
背鰭のように生え並ぶ、刀剣状の武装。
口顎から放たれる”熱線”。
”再現”と呼べる程、正確ではない。どちらかといえば、性質の悪い”物真似”のようだった。
フェイスレスは”遊興ぶ”と言った。
これも、彼にとっての”遊興”。あるいは、”最大の敵”足り得る”獣王”への挑発なのか――。
解答を得られぬままのシオンの耳に、”軍医”の嬌声が轟く。
「逃しませんよッ、”創世石”ッ! ”千眼球閃”……ッ!」
”神の子”を尾の躍動とともに、押し潰さんとする”単眼巨人”の肩部から羽根状の部分が分離・変形。
一つ一つ不気味な単眼を浮かび上がらせた”球体”へと姿を変えたそれらは、”神の子”へと一挙に殺到する――!
予備動作もなく浮遊した、”神の子”の身体は難なく尾を躱し、”閃光”を放つ”千眼球閃”を、その御手から繰り出した円輪状の光によって蹴散らしていく。
「ハハハッ! 随分と逃げ足の素早い”神様”ですねぇ……! お仕置きの時間ですッ!」
細く萎んだようだった”単眼巨人”の両腕が膨れ上がり、強靭な人工筋肉で骨格を覆っていた。同時に圧迫された腕部鎧装が砕け、バラバラとその破片をまき散らす――。
急速な”進化”に振り回されるように、”単眼巨人”はその異貌を目まぐるしく変貌させていた。
黒い鎧装は血管から漏れ出した”畏敬の赤”に染まり、その負荷によって崩壊しかけている。
「”千連光子砲・『777』”ッ!」
「――!」
”自壊”を続けながら、変貌を続ける”単眼巨人”の胸部に巨大な砲塔が形成され、同時に放出された高濃度の”畏敬の赤”の粒子が、”砲弾”として”神の子”へと挑みかかる……!
そして、
【―――――――――――――――ッ!!!!」
「……!」
突然の事だった。
その様を凝視していた”獣王”の喉から、シオンの身体を揺らし、後退させる程の轟音が、咆哮が迸る。
ズシン――と、その巨樹の如き足が踏み鳴らされ、”憤怒”とともに岩盤を打ち砕いていた。
激しい、激し過ぎる”憤怒”が、"獣王”の刀剣の如き背鰭に、蒼い"死”の光を帯びさせる――。
”……遣ったな、”壊す者”よ……”
牙の隙間から轟く、地鳴りのような、その”呟き”をシオンは確かに聞いた。
【我が、”細胞”を――】
”獣繭宮”そのものに封印された”崩壊と再生を繰り返しながら進化を続ける”生物。
”獣王の呟きは、シオンの脳裏にその存在を過ぎらせた。
(”そんなもの”を使う……ではやはり……)
「どうしたどうしたどうしましたァ!? 神ィイイイイイイイイッ!」
シオンの思考が何かを掴みかけたその瞬間、ドクトル・サウザンドの絶叫とともに、砲塔から迸る粒子が勢いを増し、”神の子”の両手が練り出した”障壁”を押し込み、その御体を後退させていた。
――戦況としては互角以上。むしろ、サウザンドが押している状況と言えた。
「科学は幸福! 科学は暴力! 今こそ”物質としての神”を解体し、私の科学に組み込んで差し上げますよ! ”創世石”ィイイイイイッ!」
サウザンドの機械化された眼が爛々と輝き、”単眼巨人”の単眼もまた暴力的に輝きを増す。
フェイスレスの異能を注ぎ込まれ、封印生物の細胞を組み込まれ、ドクトル・サウザンドの”賢我石”による”強化”も受けた”単眼巨人”の口顎から響き渡るのは、”勝利の雄たけび”のようにも感じられた。
しかし――、
(……違う)
絶えず思考を繰り返していたシオンは、己の中に湧き上がる、一つの”違和感”に、その指先を、愛刀の柄へとしっかりと絡ませる。
(これは……”遊興”などではない)
決断は早かった。
結論を出すと同時に、シオンの脚が天翔けるように大地を蹴り、居合の姿勢のまま、宙へと舞っていた。
”もし、そうであるならば――救わなくてはならない”
シオンは意を決し、”標的”へと叫ぶ。
「”軍医”……!」
「はい……?」
”ドグシャ……!”
間の抜けた声だった。
シオンの叫びに、サウザンドの喉が間の抜けた返事をしたその瞬間、その場にいる全員が言葉を失っていた。
凄まじい”衝撃”が周囲を揺るがしていた。
それは、シオンによる斬撃か――。否である。
ではそれは、”獣王”による一撃か――。違う。
我羅による介入でもない。
麗句も、響達も、一歩も動いてはいなかった。
正確には”動けなかった”。
真に”畏るべき対象”を目にした時、人間は言葉を失い、身体の力まで奪われるのだと、響も、麗句も実感せざるを得なかった。
「これが……”本体”、なのか……?」
驚愕と動揺がそのまま言葉となって、麗句の喉から零れ落ちていた。
其処に紛れもなく”実在”し、”軍医”の操る”単眼巨人”を一瞬で屠った、巨大な”掌”。
先程までの”巨人の腕”とは次元の違う、手の平だけで数十メートルはくだらぬ、”畏敬の赤”がそのまま凝固したかのような、赤い鎧装が空を埋め尽くしていた。
空からその”手”だけを”現実空間”へと出現させた、その鎧装は目視するだけで存在を消し飛ばされるような、圧倒的な”重圧”を持って其処に存在していた。
――恐らく、これが、この”畏るべき物体”が、”真の適正者”の鎧装たる存在なのだろう。
そして、
(ご苦労だったな、”軍医”……)
「……! しまっ――」
”物質としての神”そのものとも言える”手”に、シオンが一瞬の注意を奪われたその瞬間、その場にいる者達にとって、最も”恐れていた”事態が起きる――。
「そう、お前の犠牲は無駄ではない――」
僅か一瞬――。僅か一瞬の隙に、彼は”神の子”の傍らにその身を置いていた。
黒革に覆われた指先が、まだ幼い柔肌に絡みつく――。
”信仰なき男”の手がいま、己に許容された”最大の力”を使用し、硬直する”神の子”の首筋へと”触れて”いた。
「”神の子”に……我が手が届いたのだからな」
「フェイスレス……ッ!」
フェイスレスが”神の子”に――アルの首筋に触れた瞬間、硝子が砕けるように”手”が”現実空間”から掻き消え、まるで吸い上げられるかのように”畏敬の赤”の粒子がアルの身体からフェイスレスへと注ぎ込まれていく。
(……なんという事だ……!)
――キレた、と。
麗句はそう自己を認識した。
眼前の”信仰なき男”は自らが同胞と呼び、自らが同胞として集めた男を、何の躊躇いもなく――当然の事のように、”捨て駒”とした。
あの”小さな子”を手中に収め、己が目的に”利用”するために。
それは彼女の中で、”外道”と呼ばれる行状である。
……気に喰わぬ男だった。気に喰わぬ男だったが、
(お前のために、こんなにも腹が立つとは思わなかったぞ、”軍医”……!)
「屈め……! ”女王”ッ!」
「――!」
感傷は轟音に掻き消される。
麗句が内なる感傷に囚われた刹那、密かに、フェイスレスが操る”因果廻す紋章輪”から射出されていた”魔槍”の雨を、響の右腕が解き放った”壊音”が飲み込み、その”喰い残し”を周囲へと四散させていた。
反射的に身を屈め、驚きの表情を浮かべる麗句に、響は”信仰なき男”を見据えたまま、告げる。
「……勘違いするな。”アイツが救おうとした”アンタをここで無駄死にさせたら、それこそアイツに合わせる顔がないんでな――」
「フン……」
借りを返すような響の言葉に、麗句が口角を僅かに持ち上げたその瞬間、再度、”因果廻す紋章輪”から魔槍の雨が猛然と射出される……!
一欠けらの容赦もなく、執拗に、それは麗句達を狙っていた。
だが、
「亜……ッッ!」
シオン・李・イスルギ。
彼の”抜刀”とともに、それらは全て疾風の如き、”剣閃”によって断たれ、その折れた穂先を大地へと虚しく突き立てていた。
”こうなる”前に、”単眼巨人”を斬り、同胞たる”軍医”を救う彼の目論見は叶わなかったが、残された同胞である”女王”を護る事は出来た。
恐らく、”女王”の”奇蹟を殺す奇蹟”を警戒しての”不意打ち”か――。
「シオン……!」
「”怒り”は注意を曇らせる……。禁物ですよ、”女王”」
駆け寄る麗句に告げたその言葉とは裏腹に、シオンの声音にも、岩盤の下に流れる溶岩のような、熱い”怒り”が沸々と滾っていた。
氷棺のような理性の”鞘”が、溶け落ちるのも時間の問題かもしれない――。
「フン……”必中”の因果をも切り伏せるか、”剣鬼”。そして、”必中”の因果をも喰らうか、”天敵種”。”同胞”でもあるが、同時に”救済”を阻む”障害”足り得るのも、やはり卿らよ……」
対峙する麗句達を見据えながら、フェイスレスは”神の子”の首筋に絡ませていた指を、その胸元へと滑らせていた。
――同時に、フェイスレスの指先から零れた、液状化した”畏敬の赤”の雫に反応するように、アルの全身に幾何学模様にも似た”聖痕”が浮かび上がる――。
「その役割も既に終わったがな……」
「あ……あああああああああッ!?」
「ア……アルッ!」
その瞬間、響は直感し、理解する。
眼前に在るのは意識を白濁とさせるような、幾重もの奇蹟。
その極み。
だが、あの小さな喉から迸ったのは、”神の子”の声ではない。
これはアルの――彼自身の”苦悶の声”だ。
助けを求める”弟”の声だ――!
「雄々オオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
「……! お、おい……!」
その時、既に響の理性は弾け飛んでいた。
その身体は瞬時に”骸鬼”の鎧装を纏い、一直線に”弟”を弄ぶフェイスレスへと殴りかかっていた。
”現実”を浸食する”畏敬の赤”の奇蹟も、彼を阻む”壁”とは成り得ない。
単なる自らを増強する”餌”でしかないのだ。
眼前で嗤うこの”信仰なき男”でさえも――!
「フン……」
しかし――、
「――”我改宗に能はず”――」
「――――!」
”現実”はそれ程”単純”ではなかった。
フェイスレスが一歩も動くことなく、ただ指を弾くと同時に、空間を水面のように歪めながら出現した、楯状の武装が、”骸鬼”の拳を受け止め、阻んでいた。
”我改宗に能はず”と呼ばれたそれに受け止められた響の拳は、与えた衝撃をそのまま弾き返されたかのように砕け、続け様に軽く振られたフェイスレスの腕が響の、”骸鬼”の異貌を容易く弾き飛ばしていた。
圧倒的な、あまりに圧倒的な”力の差”が其処にあった。
「がっ……?」
「響さん……!」
跳ね飛ばされ、大地に叩き付けられた響のもとへガブリエルが駆け寄る。
”壊音”が大量の”畏敬の赤”を喰らった事により、元より制御不調に陥りつつある”骸鬼”の鎧装は容易く除装れ、響の喉は大量の血塊を吐き散らしていた。
”次元が違いすぎる……”
一度の交錯で得た実感を噛み締める響の四肢を、”壊音”が嘲笑うように蠢き、覆う。
(そう、か……)
同時に、一つの”選択肢”が響の脳裏に浮かんでいた。
”だが、それをすれば”――そのような思考は既に響の中にはなかった。
既に彼の思考の中には――、
「フン……この子の身体を門として、無限の”畏敬の赤”がこの世に流れ込む。世界を浄化し、”再醒”へと導く天上の門がいま開かれるのだ――」
”最も、地獄の窯かもしれぬがな……”
這い蹲る響を一瞥し、不遜に告げたその呟きとともに、”世界”が更なる軋みを見せる――。
まるで、自らの”終焉”を告げるように。
「……! 空が……!」
「オォ……」
その瞬間、シオンの喉からは驚愕が、我羅の喉からは恍惚とした感嘆が漏れていた。
フェイスレスが語ったように、いま”神の子”の体は、天上へと”畏敬の赤”を噴き上げる”赤い柱”と化していた。
それと共に、空は赤く染まり、周囲の空気を、世界を、得も知れぬものへと変えていく。
――まるで、”変生”が世界全体に行われているような”恐怖”が、”畏怖”が、その場にいる者達の五感を震わせてゆく。
「仰ぎ見るがいい……頭を垂れて祈るがいい。あらゆる”業”が、”痛み”が、”悲しみ”が、今日この日をもって終焉を迎える」
フェイスレスの歓喜に満ちた声が天上へと響き、”世界”の悲鳴の如き雷鳴が、豪雨が地表に降り注ぐ。
「”神”よ……私はいま、”破戒”とともに”救済”を行う……! ”人類”よ、今日この日が……!」
【……何だというのだ、”壊す者”よ……】
「――!」
”救いの日”だ。
フェイスレスがそう告げようとしたその瞬間、場に新たな驚愕が満ちる。
蒼く、巨大な光が――一筋の”熱線”が、フェイスレスの振り上げた右腕を”消し飛ばして”いた。
その威力は、”単眼巨人”の紛い物の”比”ではない。
これこそが、真なる生態系の王――”生物としての神”の喉から迸り出た、"煉獄の蒼い焔"。
”王”の胎内に満ちる”忿怒の焔”である。
「”獣王”……」
”信仰なき男”の眼が、その”熱線”の主を捉え、感極まったかのように細められる――。
やはり、卿だ。
私の前に立ち、”真の敵”足り得るのは――。
どこか恍惚とした様子のフェイスレスの右腕が、”当然のように”再生され、泥の如き呪詛の塊によって覆われてゆく。
【……我が審は下ったぞ、”壊す者”よ……】
そして、その”信仰なき男”に対し、牙の隙間から漏れる、太い弦を皮手袋で擦ったかのような唸り声とともに、”獣王”は、”生物としての神”は自らの結論を告げる。
【……汝は、”滅する”に値する……】
「フン……」
”獣王”の言葉に呼応するように、フェイスレスの脚が”神の子”の傍らから一歩踏み出される。
そして、そのフェイスレスを凝視する”獣王”の巨鎧から、巨躯から、フェイスレスの周囲に溢れ、空間を支配する”畏敬の赤”をも塗り潰すような蒼が、蒼い光が溢れていた。
体内から絶えず放射されるその光は衝撃波となって、周囲の岩盤を吹き飛ばし、粉塵を撒き散らす――。
その胸部に埋め込まれている、勾玉を想起させる形状の水晶は、噴き上がる”王”の憤怒による負荷に喘ぐように、激しく明滅していた。
「来るがいい、”神の名を冠する獣”よ――」
「――――――――――――――――――――――――――――――――ッ‼‼‼‼」
フェイスレスの”挑発”に、世界そのものを揺るがすような”王”の咆哮が、”開戦”の時を告げる。
”信仰なき男”が終焉を呼び、世界の終わりに、”王”が目覚める――。
NEXT⇒第10話 漂流―”Exile”-