第07話 稀人-”Threat”-
#7
(何と……いう事だ……)
忸怩たる吐露が、麗句の喉奥から零れ落ちていた。
目の前にあるのは、”信仰なき男”と睨み合う”神の子”の異貌。
彼女を慕い、よく笑い、泣き、怒る快活な少年。
かつて失くした命と同じ名前を持つ少年――。
それが変わり果てた状態で、認め難い”現実”を示している。
腰まで伸びる紅の髪は”畏敬の赤”に染まり、無邪気で無垢な輝きを灯していた瞳は、硝子玉のような無機質な虚無を湛えた青に塗り潰されていた。
サファイア・モルゲンの頭髪・瞳と同色なのは、恐らく偶然ではない。
”仮初の適正者”である彼女が集積した経験が、”真の適正者”である彼に引き継がれ、彼という”概念”が、”創世石”によって”書き換え”られたのだろう。
より効率的に”創世石”の力を引き出させるために。
いかにも”神”の――””物質としての神”のやりそうな事だ。
憤りが、麗句の唇を噛み切り、赤い雫を滴らせる。
(私は……)
”気付けた”はずだった。
思えば、伏線はあったのだ。
”畏敬の赤”の光で、”異界”化しているはずの空間に、あの子は踏み込んできた。
それは、自らの感傷が力を曇らせたが故――そう認識していた。
いや、そう認識しようとしていたのだ。
感傷が曇らせたのは、力ではない。判断だ。
あの場に踏み入れる、干渉できる者がいるとすれば、それは真の”適正者”以外にはあり得ない。
あり得ないのだ。
(”そう”思いたくはなかったのだな、私は――)
あの子と同じ名と、似た面差しを持つ少年が、そんな宿業を背負わされているなど、考えたくはなかった。
――それは、”魔女”にあるまじき思考。
彼女の内に生き続ける”小娘”の成せる、浅薄な思考であったのかもしれない。
熟れ腐り、実を崩す”果実”にそのような甘露を求めるなど――。
「アル……」
そして、響もまた、忸怩たる思いに唇を噛みながら、その弟の変貌と対峙していた。
彼女を守れず、尚且つそれを喰らわんとした己に喘ぐ彼の脳裏は、混乱の極致だった。
”何故?”という言葉が嵐となって、脳内を駆け巡り、思考を麻痺させる――。
「アル……ッ!」
だが、彼はその麻痺を振り払うように、腹腔から弟の名を吐き出す。
今――”彼”はそこにいない。
見知らぬ”彼”だけがそこにいる。
だからこそ、響はその名を呼んだ。
”届いてくれ”――そんな、祈りにも似た思いとともに。
しかし、
「……無駄だ。今、あの子は、”あの子であってあの子ではない”。いまや”創世石”が脅威を排除するための外部端末に成り果ててしまっている。我々の声は届かんよ――」
「………っ!」
麗句の苦渋に満ちた言葉が、その祈りを無意味な塵芥へと変えてゆく。
麗句自身に、アルを”元に戻す”手段を模索している気配がある事が、その言葉をより重いものとしていた。
「……”創世石”本体の消失によって、”真の適正者”が『鎧醒』――真価を発揮する事はなくなった。そこで、”創世石”は迫る脅威を排除するために、”適正者自身”を自らの依代とした。そういう事ですか――?」
腰に帯びた刀の柄へと指先を這わせ、シオン・李・イスルギは苦渋に途切れた麗句の言葉を、己が言葉で繋いでゆく。
その目は”神の子”を凝視しており、その刀剣の切っ先が向かうべき場所を油断なく識別しているように見えた。
「……哂え。この失態では”女王”も”魔女”も名乗れぬ。無様に踊った、単なる道化だ。そもそもの選択肢が、”彼女を喰わせる”か、”あの子をああする”かの二択しかなかった……というのではな」
いま、この場で”創世石”を戻せば、再び、響の内に蠢く”壊音”が彼女を喰らうべく暴走を開始する。
それは麗句にとっても”望ましい”事ではない。
フェイスレスが何を謀ったにせよ、彼の思い通りに”物事を選んでしまっている”、”物事を進めてしまっている”。己の中の感情と向き合いながら、麗句はそう認識する。
……全て、”仕組まれていた”というのか。
自分が、彼女に”心”を救われた事も、奴の”思い通り”であったとでも言うのか――。
「認め難いな――その”現実”は」
苛立ちが彼女の掌を保護する黒革のグローブを軋ませる。
「フ……だが己を貶める必要も、恥じらう必要もない――。”女王”、卿の行いは人類という種を”救済”する礎となるのだからな」
麗句の心中を見透かしたかのような言葉が、包帯の隙間から漏れ響く。
眼前に立つ”神の子”。己を包囲する”同胞”と”天敵種”を前にして、フェイスレスは己が昂りを、その声音を跳ね上げるようにして、周囲へと発散していた。
その足元の岩肌には茨が生い茂り、度を越えた濃度ゆえに”液状化した”畏敬の赤”の粒子が、その掌から滴っている。
そして、顕れた”神の子”を前に、その”不遜”は天上を突き破らんとしていた。
「……畏るべき”力”だ。人々の願いに応え、鉄の塊を水と土と緑に満ちた”楽園”へと変え得る”力”。今、その力が”真の適正者”を門として、この世に溢れ出そうとしている――」
”神の子”の周囲を漂う光を愛おしむように、掌を翳し、フェイスレスはその虚無を湛えた両眼を細める。
「この”不信心者”を誅する為にな――」
「……!」
――刹那、響と麗句は同時に息を呑み、”神罰”は即座に下った。
”神の子”が指先を向けると同時に、凄まじい”圧力”が、”信仰なき男”を襲い、まるでダンプカーに跳ね飛ばされたかのように、その身体は高く宙へと舞い上がっていた。
「な……」
”グチャリ”と耳障りな音を立てて、地面へと叩き付けられたそれは、手足をあべこべな方向に曲げてそこに這い蹲っていた。
”畏るべき者”のあり得ぬ醜態に、響や麗句達が”それを成したもの”へと目線を移せば、そこにさらに思考を白濁とさせるような、”超常”はあった。
(ナン……だ? これは――)
”腕”、か?
それに類するものを脳内で探し求め、辿り着いた”結論”に彼等は惑い、戦慄する。
それは、巨大な”腕”だった。
”畏敬の赤”の粒子が凝固し、そのまま鎧装と化したかのような”鋼”に覆われた、それだけで数十メートルはくだらぬ巨大な腕が、少年の傍らに、蜃気楼のように鎮座していた。
その輪郭は幻のように霞んでいるように見えるが、五感を圧する、その”実在”はとても否定できるものではなかった。
「フ……”巨人”を使うとは、”創世石”め……怯え、取り乱したか」
まるで、己が”そうなった”過程を逆回転させるように、あべこべな方向に曲がっていた手足をでたらめに整えながら、フェイスレスは立ち上がると、復元し組み直した骨格を確かめるように、各関節をパキ゚パキ゚と鳴らす。
「その慌て様……実に御し易いぞッ! ”創世石”ッ!」
フェイスレスの身体が予備動作もなく飛び上がり、”神の子”へと黒革に覆われた掌を翳す。
掌から滴る、液状化した”畏敬の赤”の雫が、"現実”を浸食し、周囲の景色に硝子を殴り付けたかのような”罅”を生じさせる――。
「”因果廻す紋章輪”――!」
同時に、砕け散った景色を、”現実空間”を突き破るようにして出現した、高速で回転する円盤状の物体が多銃身の機関砲のように、黒塗りの長槍を連続して射出!
一本一本に必中の”因果”が籠められた魔槍が。
身を躱す余地すらない、長槍の雨が、アルへと降り注ぐ……!
しかし、
「………」
”神の子”の背後に、”頭部”と思しき巨大な仮面と、その眼部に宿る眩い光が閃くと同時に、その雨はアルを避けるように、大海が裂けるが如くに真っ二つに割れ、その矛先を、”予期せぬ方向”へと変えていた。
「くっ……!」
その”方向”に立つ者達は、粟立つ肌とともに、その”流れ弾”から身を躱さんと、肢体に力を通わせる――。
そして、
「アル……」
”創世石”を護る土地に生まれ、”創世石”を託された幼竜は、その”超常”を、”戦闘”を、ただ呆然と見つめていた。
何が起きているのか、理解できない。
”それ”を託され、”それ”を一番に理解しているはずの自分が――それを理解できない。
それが”現実”だと、認めたく、ない。
(もう……わからないよ、アル……)
混乱がもたらす疲労が、ガブリエルの小さな身体を虚脱させ、座り込ませる。
もう、私は――、
「おい……ッ!」
「―――ッ!?」
その瞬間、驚きに喉奥から息が漏れた。
身を貫くような大きな声が彼女の鼓膜を揺らし、誰かの手が、自分の襟首を強引に掴み、持ち上げていた。
次の刹那、ガブリエルの座り込んでいた位置を、流れ弾である複数の”魔槍”が貫き、砕かれた岩盤の破片が彼女の頬を打つ――。
「混乱するのも、嫌になるのも、わかるがな……」
「あ……」
ガブリエルの瞳に鮮やかに映し出されたのは、己を拾い上げてくれた青年の纏う、コートを思わせる紅色の戦闘服だった。
彼が――響が拾い上げてくれなければ、確実に自分は死んでいた。
次第に湧くその実感が、ガブリエの心臓の音を徐々に大きくしていく――。
「頭は動かなくても、体は動く――。気持ちはわかるが、”止まるな”」
「響……さん」
アル達との会話で幾度となく耳にした彼の名を、ガブリエルは初めて口にする。
アルが兄と慕い、サファイアが恋をした青年。
その彼の端正な面差しが、ガブリエルの瞳に、力強く映し出される。
「くっ……」
「響さん……!?」
そして、同時にガブリエルは、響の腕が震えている事に、彼が”その内から溢れ出さんとするもの”を必死に抑え込もうとしている事にも気付く。
そうしている間に響の靴裏から黒い絨毯のように、”壊音”が染み出し、その”暴走”が猶予のない段階まで来ている事を裏付ける――。
”天敵種”――”醒石喰い”。
その存在は聞いた事があった。
それは、この惑星で”創世石”と同時に、ラ=ヒルカの民によって発見された、”創世石”と他六体の”畏敬の赤”級の醒石の活動を抑えていたとされる封印。
その”封印”の大元は排除されたが、その残骸はやがて”七罪機関”の手に渡り、”人柱実験体”創造の根幹となったと、ガブリエルは聞いている。
そして、その忌むべき歴史が生んだ存在にとって、”創世石の一部から創造された”自分はどのような存在であるか。
”餌”……獲物。
どう考えても、それらと大きく意味を違えるものではない――。
「クッ……オオオオオオオオオオッ!」
「――!」
響が己を鼓舞するように歯牙を剥き、吠えると同時に、体外へと染み出していた”壊音”は蠢くのを止め、響の状態を”平静”へと戻す。
だが、同時に”壊音”は不満を訴えるように響の四肢に絡みつき、万力のように締め上げていた。
――今、隣にある”獲物”を喰らわぬ宿主への、無言の抗議である。
「きょ、響さん……!」
「気に、するな……。俺も二度と”アレ”はご免だからな――」
”あんなものを二度と”味わう”わけにはいかない――”。
その願いにも似た誓いとともにそう告げた響は、脂汗に塗れながらも、無理矢理に口角を上げ、笑みらしきものをその表情の中に生み出さんとしていた。
(あ……)
それが自分を安堵させるためのものと気付いた時、ガブリエルは知った。
心で、理解できた。
彼の優しさ――その、”心”を。
そして、
「随分と”狂した”風情じゃねえか……”天敵種”」
「……ッ!?」
”乱”は間髪入れずに訪れた。
己が一部たる”壊音”を抑え続けた疲弊に、肩を上下させる響の喉元を突如、後方から鉄鎖が捕らえ、締め上げる――。
「貴、様……」
喉を圧迫されているせいで、思うように言葉を吐き出せない。
鉄鎖に首の自由を奪われ、思うように振り向けぬ響の視界に、凶暴なまでの色彩に染め上げられた金髪と、己の頬を舐める蛇のように長い舌が映し出されていた。
(こいつは……)
我羅・SS。
彼の全身から醸し出される凶暴な気配に、”壊音”が感応し、暴れ出す。
「フッ……ククク、アーハッハッ!」
我羅の純金製の首輪に組み込まれたアンプル内の鎮静剤が、恐ろしい程の勢いで体内へと吸い上げられていた。
そして、”壊音”が放つ危険な匂いに魅かれるように、我羅の呼吸は昂り、その喉がすぐ様、咆哮を奏でる――。
悦びと迸る激情の咆哮を。
「遊ばせろ……その”黒いの”……俺と遊ばせろぉおおおおおおおおッ!」
「クッ……嗚呼ッ!」
鉄鎖が響の喉を潰す程に締まり、それと同時にタガが外れたように、”壊音”が響の全身から溢れ出す。
なをも続く”神の子”と”信仰なき男”の攻防の余波たる”畏敬の赤”もまた視界に満ち、事態の混迷を裏付ける――。
果たして、誰が哭き、誰が嗤うのか。
それは、もはや誰も読めぬ領域へと、事態は進行しつつあった。
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