第03話 開幕―”Trust”―
#3
「いずれ、”彼女”は、無傷のまま、お前たちに返還す事になるだろう――」
「な、何……?」
返還す――? 今、この女は返還すと言ったのか……?
その言葉に、憔悴と己への疑念だけを映していた響の瞳が、麗句の美貌を見据える。
「彼女を”送った”のは、我等の『鎧醒』する鎧装などが眠る”観念世界”。それも、私が持つ”麗鳳石”が管理する領域だ。其処であれば、他の”五人”にも手を出す事はかなわん。なぁ、そうであろう? ”軍医”……!」
岩陰に目線を送り、麗句は僅かに声を張り上げる。
……返事はないが、”何か”が動く気配はあった。
「其処で、”創世石”と彼女を分離した後、彼女はこの場所へと戻そう――。まぁ……”創世石”に関する記憶を、概念的に”剥離”させる程度の処置はするやもしれんがな。だが――それでも、彼女は間違いなく、無事に返還す」
”それは約束しよう”。
麗句はそう告げ、自らの”誠意”の証として、短刀型の”鎧醒器”を懐へと収める。
「本来であれば投げ捨てて、お前の”信”を得たいところだが、何分”油断ならない”連中が多いのでな。許せ――」
そう語る麗句は、苦い笑いとともに、わずかにくだけた表情を見せた。
その表情で響は察知する。
彼女は”女王”としてではなく、”麗句=メイリン”という一人の人間として、話をしている、と。
「”創世石”と分離すれば、彼女は”壊音”の獲物ではなくなる。お前の”想い人”としての旨味はあろうが、それでも、危険は大幅に軽減されるはずだ。お前にとって、”悪い話”ではないと思うがな……」
「………」
紡がれたその言葉が、”謀”や”誘惑”の類いであったのなら、響の心には一言一句響かなかっただろう。
だが、麗句の聴覚を蕩かすような、甘い声音を介しても、彼女の言葉は、響の心に真摯に響いた。
むしろ、麗句自身は”謀”や”損得勘定”の体で話を持ち掛けているが、その端々に――彼女の隠し切れぬ”情”が滲み出ている、そんな印象があった。
思えば、冷静さを欠いた自分から、誰よりも必死にサファイアを守ったのは、この麗句=メイリンではなかったか。
彼女もまた、サファイアの無事と、その安寧を強く願っている――そう、感じた。
だからこそ、己の”暴虐”に惑い、怒る響にとって、その言葉は――、
「ダメだっ!」
「……!」
――その時だった。
響の脳が何らかの選択肢を選ぼうとしたその瞬間、若い少女の声音が、血生臭い空気を震わせていた。
ひどく思い詰めた、ひび割れた声音は響の心を、瞳を、その主である幼竜へと向けさせる――。
「……”創世石”をその人に、”組織”に渡すのはダメだ……」
「ガ、ガブ……」
麻痺された自身の肉体を無理矢理、動かし、声を搾り出したガブリエルは、ふらつく身体でその両翼を大きく広げて見せる。
泥と血で穢れ、陶器のようだった煌きが失われたその翼には、”疲弊”の表れと思しき亀裂が走っていた。それでも、それでも――ガブリエルは戦うつもりなのだ。
”創世石”を退けた”女王”、麗句=メイリンと。
「ガ、ガブ……! 駄目だ、お前……」
アルは友人の無茶を阻まんと、自らの体を動かさんとする。
けど、駄目だった。
友人の持つ”念動力”のような力が、アルの四肢を優しく包み、”捕らえて”いた。
「ごめん、アル……。もしかしたら、麗句=メイリンに従う事が正しいのかもしれない。そのほうが、君もサファイアさんも以前と変わらない日常に戻れるのかもしれない。けどね――」
サクヤ、さん――。
あの日、優しい嘘とともに自分を逃がし、”創世石”を託してくれた彼の笑顔がガブリエルの脳裏に蘇る。
いや、ガブリエルはずっとその笑顔と共にあった。
その想いに応えるために生きてきた。
「私は”複製されし禁碧”。物質としての神”創世石”を護る者。サクヤさん達のためにも、ラ=ヒルカの皆の想いを”背負って”戦ってくれたサファイアさんのためにも――」
ガブリエルの全身から緑色の粒子が溢れ、爆ぜるように周囲へと吹き荒ぶ。
「私は黙って”創世石”を渡すわけにはいかない――!」
「愚かな……」
牙を剥き、己と対峙する幼竜に、麗句の瞳が昏く伏せられる。
無駄な足掻きと無駄な殺生。
それをする”敵”と”己”への溜息に溺れながら、麗句は懐に収めた”鎧醒器”へとその手を――、
「……む」
”鎧醒器”へと伸ばしたその手を、何者かに掴まれていた。
その”腕”を一瞥し、麗句は呆れたように口を開く。
「何のつもりだ? ”これ”は」
「忘れるところだった……。大切なことを」
それは、響の腕だった。
響の腕が――数分前に”魔獣の大口”へと変貌し、”彼女”を喰らおうとしていた腕が、麗句の手を掴み、阻んでいた。
その”力”は強く、己の腕を掴む五指に、”迷い”は感じられなかった。
「アイツが……”何かする”のはいつも誰かのためだった」
「何……?」
憔悴に”曇って”いたはずの瞳は、煮え滾る溶岩のような”赤”とともに、麗句を見据えていた。
まるで、”畏敬の赤”を想起させるその色彩に、麗句の黒い瞳が釘付けとなる――。
「俺のため、アルのため、皆のために、アイツはいつも駆け回っていた」
それが出来る、本当の意味で、優しく、強い娘だった。
そして、誰より争いを好まぬ娘でもあった。
「そんなアイツが、あの優しすぎる手を固めて、闘ったというのなら――アイツには”創世石”をアンタ達に渡せない”理由”があった。……そうだ。あの”涙”を、”想い”を、アイツなら捨て置けない」
無謀にも、一人”女王”に立ち向かわんとする幼竜の表情を見据えながら響は告げる。
長い間、多くの事に耐えてきた表情だった。
長い間、多くの事を背負い続けてきた表情だった。
成すべき事を、一途に秘めた表情だった。
「その”想い”を裏切れない。アイツが託され、繋いだ”創世石”を、俺が易々と渡すわけにはいかない――」
「響兄ちゃん……」
”兄”と慕う男の言葉に、弟の口から、様々な”想い”が交錯した”息”が漏れる。
先程、目にした”異常”。
それをアルの心は受け止めきれていなかった。
”当事者”である響は尚更だろう。
だけど、それでも彼は動いた。
惑う心を、”正しく”動かした。
惑っていても、迷っていても、彼は――その”涙”の為に動いた。
だからこそ、彼は”響=ムラサメ”なのかもしれない。
アルが憧れる”正義の味方”なのかもしれない。
「それに……アイツのやりそうな事は、もう一つある」
アイツが拳を固め、闘ったのは――、
響は確信とともに、告げる。
「アンタのためでもあったんじゃないのか……?」
「………」
響の言葉に、麗句の黒い瞳が僅かに伏せられたように見えた。
己の暴虐から、サファイアを守ろうとした、あの”感情移入”は、響にそれを推察させて余りある。
「アンタの事は、良くは知らない。だが、ブルーとの縁もある。アンタの事も、背負わせてもらうぞ――」
「……どうするつもりだ。”創世石”は私が”穴”を再び開かぬ限り戻らぬ。そして、”彼女”をここに戻しても――また、”お前”が彼女を襲うぞ」
「………」
麗句の言葉に、麗句の腕を掴む五指が強張り、より白い肌に喰い込む。
だが、響の瞳は”揺らぎ”を映すことはなかった。
穏やかな水面のように、”落ち着き”を宿した瞳が麗句を見ていた。
「……闘いながら説き伏せるさ。俺は闘うことしか出来ない。闘うことしか知らない。だが、幸いにも――闘う事は出来る。その中で解答は見つけるさ」
そして、俺が俺自身を制御できないのであれば――、
「俺自身が消え去る事で……アイツが生きて微笑む世界が残せるなら、俺は”それでいい”」
それは”覚悟”という次元のものではなかった。
自らの中の”確定事項”として、響はそう告げているように思えた。
躊躇いなく告げた響の、乾いた血の張り付いた端正な顔立ちを一瞬、見つめ、麗句は苛立たしげに息を吐き出す。
「……美辞麗句だな。自らが犠牲となっても愛する者が遺せればそれでいい――か」
同時に、麗句の黒衣、その懐に収められた”鎧醒器”が”朱く”光る――。
「それは……遺される者たちへの”傲慢”だ……!」
「――っ!?」
”朱い”光が響の視界を占拠。
それと共に、重い鉛の塊のような衝撃波が響を殴り飛ばし、麗句の体から彼を引き剥がしていた。
麗句を中心に円状に発生した衝撃波は、一種の防護壁のように渦を描きながら停滞し、岩肌をドロドロに溶かしながら、対峙する響を牽制していた。
(高熱の焔……? いや違う……)
響は察知する。岩が融けるのも、周囲の空間や麗句までの距離が〝歪んで”見えるのも、あの”朱い”光の特性――”現実を浸食する”力ゆえのものだ。
それを喰らい、糧とする”壊音”を体内で飼うゆえか、響はその”異常”を現実として飲み込むことができた。そして、
「……!」
やがてその渦が岩盤を叩き割り、溶岩のように高濃度な”赤”を現実へと噴き出させる……!
その濃度に、歪む”概念”に、”現実”に立ち眩む己を、響は認識する。
”こんなものを相手に、アイツは闘っていたのか――?”
驚愕と彼女の”想い”の強さが、改めて響の心に響く――。
「私がただ悪戯に言葉を垂れ流していたと思うか? ”壊音”が反応しない程に疲弊し、枯渇していた我が”麗鳳石”の力も――会話の中で十分、”蓄える”事が出来た。美辞麗句には”裏”がある。そういう事だ」
麗句は告げ、黒髪を艶やかに掻き上げる。
その表情は、既に”女王”としての仮面を纏い、”魔女”の色香をその黒衣から染み出させていた。
だが、その彼女へと響は”あえて”踏み込む。
「……力は蓄えられても、”傷”は癒えていないように見えるがな」
「……フン」
口の端を歪めた麗句の唇から、血が溢れ零れる。
麗句は敗れたサファイアの傷を癒した。
だが、己の傷は――、
「その”悪態”にも、”裏”がある。そういう事だな……」
実弟が慕い、彼女が想った麗句という存在。
それは、響自身にとっても、戦う”理由”になりつつあった。
何としても彼女を識り、何としても彼女の手からサファイアを取り戻す――。
そして、
「うっ……?」
「ア、アル……!?」
それを見守るアルの身にも、一つの”異常”が起きようとしていた。
何だろう……すごく熱い……いや、寒い……。
泥の上に両膝をつき、蹲った少年は、両肩を抱きながら、己の体を襲った”異常”に震えていた。
「何か……おかしいよ……体が……おかしい……」
背筋に凍るような寒気が噴き出したかと思えば、全身が煮え滾っているかのような熱に浮かされる。
これまで味わったことのない”不調”だった。
まるで、体がドロドロに溶けて、なくなってしまうような――酩酊感。
その中で、”何か”が叫んでいた。
必死に、懸命に、”ソレ”を伝えようとしていた。
「な、何かが……来る……」
「えっ……?」
その瞬間、ガブリエルも、確かに”ソレ”を認識した。
迫り来る"何か”を。
「いくぞ……」
同時に響の足が一歩、踏込み、麗句も懐から取り出した、短刀型の”鎧醒器”を構える。
各々の”理由”が空間に融け、満ち、臨界へと――、
(いや……それはまだ”早い”……)
「――!?」
――臨界へと達する前に、感情の欠片すら宿さぬ、打字されたが如き音声が、二人の脳髄を震わせ、肌を粟立たせた。
四つの”赤い”柱が、次々と大地へと”突き立て”られ、その”赤”の向こう側に、四つの黒衣が揺らめいていた。
その黒衣には、それぞれ”逆十字”の紋章が刻まれ、響達に、少なくともそれが”救援”の類いではない事を突き付ける――。
「そ、んな……」
”ソレ”は、
彼等は、
青ざめたガブリエルの口から、その”忌み名”は語られる――。
「”選定されし六人の断罪者”――」
現れた、”剣鬼”。”毒蠍”。”獣王”。”破壊者”。
そして、”女王”。”軍医”。
”全能なる神を殺す異能の機関”――組織の頂点に立つ六人が、いま、其処に集結していた。
それは、この物語の開幕と終焉を告げる狼煙。
撃ち込まれた、楔――。
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