第02話 開幕―”trap”―
#2
「響兄ちゃん……!」
祈り、託すような少年の叫びが木霊し、麗句によって再び空間に穿たれた”穴”が、あらゆるものの”吸引”を再開していた。
"軍医”戦で死亡した”戦闘員”の死体をも容赦なく飲み込み、"穴”は次第にその輪郭を、規模を拡げてゆく――。
「くっ……!」
岩肌を蹴った靴底が砂利を跳ね上げていた。
弾丸の如く疾駆した響の肉体は、いまにも”穴”へと飲み込まれてしまいそうな少女へと、その腕を伸ばす。
文字通りの”死線”であった、”銀鴉”、”実弟”との苦闘を潜り抜けてきたのは、この瞬間、この一瞬のため。
”人間”としての自分をくれた、この場所と――彼女を救うためだ。
だから、
(サファイア、いま……!)
いま助ける……!
万感の想いとともに、響の指先が、サファイアの肌に触れ――、
【い た だ き ま す ❤】
「……!?」
触れようとした、その瞬間――響の腕は”変化”していた。
異形の腕に。
禍々しく、黒々と爛れた皮膚を持つ腕に。
涎のような体液を垂れ流す、獣の口のような形状に。
「なっ……」
同時に、”どうしようもない”感覚が、響の脳髄に溢れ出す。
飢餓。空腹。熱情。
駄目、だ。
どうしようもなく――オマエガ、タベタイ。
「……よさんか! 愚か者が!」
「……!」
その、まさに一瞬だった。
麗句の凛然とした声音とともに、振るわれた短刀型の”鎧醒器”が、響の”腕だったもの”を裂き、散らす――。
だが、
【グググ……ギヤヤヤヤ……!】
”欲望”に、”食欲”に狂う”壊音”は、その一撃に怯むことなく、裂かれて細くなったその身を、触手のようにして、横たわる少女へと喰らいつかんとする……!
”肉欲”。”食欲”。
響の意識を白濁とさせる程に、脳髄へと流れ込む”壊音”の”欲望”が、彼の腕を、四肢を縛り、痺れさせる――。
「く……おおおおおおおッ!」
【ギッ……!?】
だが、”宿主”は――響はそれを許さない。
驚愕と”壊音”の凶暴な”衝動”に、一瞬、意識を奪われかけたが、少女の危機と、”壊音”への怒りは、彼を咆哮とともに正気へと戻す。
半ば反射的に、背の鞘から村雨を引き抜いた響の左腕は、迷いなくそれを”もう一方の腕”へと振り下ろしていた。
「あ……!」
その場面を目撃したアル達の表情が蒼白となる。
鮮血とともに、断たれた響の右腕――”壊音”の魔獣の大口は、岩肌を転がり回りながらも、牙の隙間から耳障りな嘲笑をまき散らしていた。
ダラダラと赤い血を垂れ流す響の右腕だが、響に”痛み”を感じている暇はない――。
「サファ……」
【甘いナぁ……】
だが、再び少女の元へ駈け出そうとした響の耳元で、首筋から湧き出した”壊音”が囁く。
黒いゲル状のそれは、響の動きを封じるように、自らをロープ状にして、彼の四肢へと絡みついていた。
その隙に、断たれた大口から千切れた”壊音”の一部が、地を這うようにして飛び上がり、横たわる少女の柔肌へと”喰らい”つく――。
「ぐっ……があああああああああああ!」
駄目だ、駄目だ……!
”壊音”の一部がサファイアの肌に絡み、へばりつき、しゃぶり尽すように赤い血を啜り、嗤う――。
その刹那も、サファイアの体は、徐々に”穴”へと近付き、渦巻く”虚無”の中へと飲み込まれつつあった。
”吸引”にも、”捕食”にも、抗う力を失くした少女の手が力なく、響の視界の中を揺れる。
(ダメ、だ……)
自分は掴まなければならないんだ。
あの手を、拳を固めるにはあまりに優しすぎるその手を。
そのために、ここまで来たんだ。
「サファイア……ッ!」
村雨によって裂かれ、血と肉の塊となった”かつて右腕だったもの”を、響は必死で彼女へと伸ばす。
喉が、肺が、愛する者の名をありったけの声量で吐き出していた。
だが、
「退がれ、馬鹿者……!」
「……!」
その瞬間、麗句の渾身のタックルが、響の長身を押し倒し、傷口から溢れ出した”壊音”が明後日の方向へと飛び出す。
……”彼女”を狙っていたのは明白だった。
「く……止められんか!」
麗句の表情に焦りが見えた。
明後日の方向へと飛び出した黒いゲルの塊――”壊音”は、空中で方向転換し、一直線にサファイアへと向かって牙を剥いていた。
もはや響の意思でも、どうする事もできない――。
「姉ちゃん……!」
少年の悲痛な叫びが轟く中、黒い塊が”爆ぜ”る。
それが意味するところは――、
【ギッ……!?】
その光景を目にした誰もが、目を見開いていた。
”壊音”の牙は少女に届くことはなかった。
”穴”の吸引によって吸い寄せられた”鉄の塊”が、その半身が、彼女を抱き、しっかりと”防護”していた。
――”エクシオン”。”機械を超越した機械”として、”相棒”として少女と共に軍医と戦った”彼”が、その残骸が彼女を抱き、護っていた。
【搭乗……者】
雑音混じりのその音声を、アルは確かに聞いた気がした。
「あ……」
そして、その鉄塊は”穴”へと飲み込まれる――。
彼女を抱いたまま、”壊音”の、″天敵種”の捕食から逃れるように。
毒々しい赤が空間に滲み、裂けた空間を縫い合わせるように、”穴”を閉じ始める。
やがて、容器に入れられた水が、底に開いた穴に吸い込まれるように、”赤”が空間へと溶け込み、”穴”は完全に消失する――。
それは、”彼女”との繋がりが、完全に絶たれた事を意味していた。
「くっ……あああああああッ!」
「……!」
響の無念が、怒りが、破損した右腕を大地へと叩き付け、岩肌を砕いていた。
喰い縛った歯は噛み砕かれ、噛み裂かれた唇からは血が滴っている。
そして、その破損した右腕へと、斬り落とされていた”壊音”が地を這いながら、”合流”し、再結合。人間としての腕を瞬く間に再生させる。
同時に、響の脳に、五感に、”壊音”が味わった”甘美”が、”芳醇”が溢れ、爆ぜていた。
これは……”彼女の味”だ。
「……見ての通り、ご覧の有様だ。”天敵種”」
「……!」
麗句の溜息を孕んだ、憐れみに満ちた声が、響の鼓膜を撫でる。
「お前の精神が味わう”苦悶”や”痛み”と、”醒石”を糧とする”壊音”にとって、”彼女”は至上の供物だ。その肉と五臓六腑には、”創世石”の力が染み込み、喰らえば、お前の”苦悶”が香辛料となって、その”美味”を彩る」
「………」
聴く響の、再生した右手は血を滴らせる程に握り締められていた。
重力に抗っていた”膝”は折れ、汚泥の中に身を沈めている。
俯き、前髪に隠されているが、その瞳が憔悴に曇っている事は、想像に難くない――。
「お前の意思が介在する余地はあったか? お前に奴を抑える余地があったか? そんなものはありはしない。お前は奴を”獲物”へと運ぶ荷車。その局面が来れば――容赦なく奴は喰らい、奪う。だからこそ、ブルーにお前を止めて欲しかったのだがな」
あるいはブルーに淡い期待を抱かせるような男だったか。
あの子が、自身の認めぬ者を易々と通すはずがない。
己の”信頼”を根拠に、麗句はそう推測する。
それ故に――”憐れ”ではある。
「……だが、安心しろ。”危なかった”が、事は成った」
だからこそ、麗句は艶やかな唇を開き、次の言葉を告げる。
己が、真意を。
「いずれ、”彼女”は、無傷のまま、お前たちに返還す事になるだろう――」
「な、何……?」
予期せぬ言葉に、響もアルも、すぐに二の句を継げなかった。
類い稀なる美貌に、真摯な表情を浮かべ、麗句は”彼女”と絆を紡いだ者たちを見据えていた。
その唇が謡うのは甘い”誘惑”か。あるいは鋭利な刃物の如き”進言”か。
あるいは――、
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