晩餐-”resurgence”-
#EX2
軋むような轟音とともに、重々しい扉が開く。
”獣爾宮”の大戸門と呼ばれる門を潜ると同時に、床の材質も、粘膜が靴底にへばり付くピンク色の肉壁から、ヒヤリとした金属の感触をもたらす”黒鋼”に変貌し、区域が変わったことを麗句に明確に伝える。そして、
「そういう事か……」
初めて足を踏み入れた”獣爾宮”の”感触”に、麗句はある事を確信し、彼女の背後を護るように、遅れて入室してきた閻王と甲王へと振り返る。
「……先程の”崩壊と再生を繰り返し進化する”生物とやらは、”獣王”の手によって此処に封じられたのだな。常に”鎧醒”している状態なのは知っていたが、この”規模”は――正直想定外だ」
己の足場となり、視界を埋め尽くす”神幻金属”に、感嘆と”呆れ”が入り混じった溜息が麗句の喉奥から漏れていた。
その麗句の様子に、閻王は頷き、鉄扉から黒々と続く壁面を――”王”の鎧装を撫でる。
「その通りだ。この”獣爾宮”そのものが”揮獣石”が王の記憶から鎧醒させた居城。あの生物自体、王から分離した”かつての肉体”の一部だという説もある。我等は"真”、あるいは”神”と呼んでいるがな」
「……笑えん冗談だ」
覚え始めた頭痛を振り切るように、麗句は周囲の光景を、その黒い瞳の中に映し出す。
構成物質のほとんどが”神幻金属”である事を除けば、趣のある一室であると言えた。
外部から持ち込まれたと思しき石柱によって、洞窟のように作り込まれた空間は、不思議と麗句の心の琴線に触れた。
そこに籠められた情念のようなものが、心を惹き付けるのだろうか――。
部屋の中心には、”王”が座すべき玉座があり、その周囲の溝には、淡い光を宿す青い水が流れていた。
昔見た鍾乳洞に似ている、と感じた。
”移動要塞”という巨大な無機物の中にある、僅かな”自然”の息吹が、不思議と気持ちを落ち着かせた。
この空間が”獣王”の記憶とその意志によって造り上げられたのだとすれば、その気分は理解できる気がする――。
(しかし、な……)
そこにあるのは”安らぎ”だけではなかった。
麗句が観ているものを把握し、閻王は応える。
「”護戒聖獣”……と呼ばれる偶像だ。”王”の力の一片……であるが、あの方の強大なる力は我等でも把握しきれていない。その像は飽くまで中継地点――王の言葉を借りれば、”墓標”であるらしい」
(墓標……か)
その言葉に、亡き友達の面影が脳裏を過り、心を擽る。
いま、”玉座”に”獣王”は座していない。
だが、その残り香とでも呼ぶべき圧倒的な気配が、”玉座”の周囲に配置された、”神幻金属”で形成されたと思しき、”複数の獣の像”から漂う気配が、麗句の精神を圧迫していた。
果たしてこれが”聖獣”と呼べる類のものだろうか――。
ムササビのような羽を広げ、咆哮する――頭部から背にかけて、複数の針のような角を生やした巨獣。
毒々しい色彩の羽根を持ち、雷を甲殻の如き全身に纏う――悪魔のような形相をした巨蛾。
発光する角と牙をギラつかせ、大型の耳を逆立たせる――狛犬のような姿勢で鎮座する巨獣。
その数は数十体に及び、どれも単なる偶像ではない――秘めたる”力”を感じさせる代物だった。
そして、玉座の後方、その背後を”護る”ように置かれた偶像は、”亀の甲羅”のようにも見えた。
(これは……)
この偶像だけは、他の偶像とは違い、独立した何かを麗句に感じさせた。
秘めた”気配”が、脳を、全身の神経を圧迫するようだった。
何なのだ、これは――。悪意を持つ類ではないようだが。
”それ”から目を逸らすように、麗句は玉座に”絡みつく”ある意匠へと目を落とす。
「……それは、王のかつての”仇敵”であるらしい。”護戒聖獣”もそうだが、失われた者達の魂の拠り所を王は此処に造られたのかもしれん――」
「………」
麗句は閻王の言葉とともに、玉座にその首を絡ませる”黄金の三つ首竜”の意匠を凝視する。
こんなものを”仇敵”とする存在など、”神話”の登場人物としか思えぬ絵空事だった。
そして、かつての”仇敵”を玉座に祀る――その行動に、麗句は”強大過ぎるもの”の感傷を、孤独を垣間見たような気がした。
「ハッ八ッハ、こんな三つ首野郎も噛み砕き、踏み潰す! 流石、王は半端ねぇぜ! 最強の王者、獣王じゃあ!なんつってな、ハッ八ッハッ!」
「……王は別室でお待ちだ。此処は客をもてなすには、いささか仰々しすぎるのでな」
「確かに、食事をする雰囲気ではないな」
閻王の腕が別室へと続く扉を指示し、麗句は黒衣を翻し、彼の後へと続く。
昨晩から考え抜いた、渾身の”冗談”を回避された甲王を残して。
「……オイ! お前ら何か反応しろ! オイ!」
手にした鉄球を投げつけんばかりの勢いで、甲王も二人の後へと続き、別室へと姿を消す。
賑やかだった”王の間”に、静寂がまた戻る。
そして――、
【そうか……彼女が、新たな彼の”友”か】
”亀の甲羅”の如き偶像から溢れ出した黄金の光が、幼い少年の形を作り出し、その唇が言葉を紡ぐ。
その光は優しい、そして何処か悲し気な眼差しをしていた。
※※※
「王……”女王”をお連れしました」
【……うむ】
閻王の報告に、低い――腹の底に響くような、重厚な声が応えた。
彼の全身を覆う黒の鎧装が、重々しい鉛の音を響かせ、”背鰭”のように背から突き出た、二本の突起が、彼の山のような巨躯がわずかに動いた事を示すように、ゆらりと揺れる。
腰を預ける椅子は、巨岩をそのまま持ち込んだかのような、粗雑な、無骨極まるものだったが、この”獣王”には不思議と似合い、その威厳を増幅させているように感じられた。
その”獣王”の牙に満たされた顎が、己が前に現れた”女王”へと向かい、ゆっくりと開かれる。
【……よく来たな、”美しき者”よ】
”歓迎するぞ”。
巨大な拳に頬を預け、”獣王”『G』は、麗句へと告げる。
「こちらこそ、此度の”招待”。光栄の極みだ、”獣王”――」
長テーブルに用意された席に、”獣王”と向かいあうような形で着席し、麗句は自らの黒衣の襟を解く。
彼女の白い肌と首筋が露わとなり、その無作法ともとれる行動に、”獣王”の口の端が、僅かに”愉しげ”に歪む。
【……楽にするがいい。この部屋はお前達、”小さき者”に合わせ、造らせたものだ。お前達の流儀で、好きに使えば良い……】
「ご配慮痛み入る、”獣王”。私も礼儀作法などというものは、肩が凝る性分だ」
妖艶に笑む麗句に、臆する様子はまるでなかった。
それどころか、この”獣王”との対峙を楽しんでいるようですらあった。
閻王、甲王も、”獣王”の双腕であると自認しているが、”王”を前にここまで豪胆な態度をとれるかどうかは定かではなかった。
その胆力、”将器”に、二人は彼女が持つ”女王”の称号が飾りではない事を、改めて識る。
【……お前達も掛けるがいい】
「ハッ――」
”王”の言葉に、閻王と甲王は頭を垂れ、彼等もまた、向かい合う形で着席する。
彼等が纏う金銀の鎧装が、ジャラリと重々しい音を立てる。
【……”あやつ”の処分、面倒をかけたな、”美しき者”よ……。意志もなく、ただ増殖するためだけに、悪食を繰り返すだけのものなど、もはや”生命”とは呼べぬ――】
「大した事ではない――と言いたいが、もし”麗鳳衆”の娘達に危害が及んでいたのなら、私も此処に、にこやかに座ってはいなかっただろうな」
口元は艶やかに笑んでいたが、麗句の黒い瞳が鋭く、”獣王”の黒目のない瞳を捉えていた。
麗句の言葉は彼女の意志であると同時に、犠牲者を出した”百騎《鬼》衆”の憤りの代弁であったかもしれない。
”剣鬼”――シオン・李・イスルギもこの席に招かれていたが、”獣王”の”詫び”を受け入れた上で、彼はそれを固辞した。
それが生真面目な彼の、散った命に対する筋の通し方なのだと理解するが故に、麗句はあえてその言葉を口にし、瞳に”怒り”を滲ませた。
この場にいない、生真面目で繊細な青年の代わりに。
”獣王”もそれを理解し、頷くと、指を弾き、”給仕”を呼び出す。
「ま、貴方がそれを承知しているのなら、私からとやかく言うことはない。アレを駆除した苦労のぶんだけ――存分に”楽しませて”もらうぞ」
湿った感情をその言葉とともに散らし、麗句はその表情を柔らかなものとする。
同時に、コックコートを着込んだ戦闘員達が、グラスを麗句と”獣王”の前へと置く。……と言っても、”獣王”の前に置かれたものは、グラスと言っても”樽”に等しい大きさと様相を呈した代物だった。
その横に同じく”樽”のようなボトルが置かれる。
グラスに給仕が酒を注ぐような事はない。
”好きに飲る”。
それが、”王”の流儀なのだろう。
【……食らうものに小細工する、お前達、”小さき者”の脆弱さには閉口するが、酒は良い。”知恵”なる姑息も、それなりに侮れぬものらしい……】
そう言って”獣王”は愉しげに、”樽”から”樽”へ酒を注ぎこむ。
それと共に、麗句の前に置かれたグラスへと”戦闘員”が酒を注ぎ、赤い液体がグラスの中を泳ぎ、満ちる。
「乾杯、か。それなりに”長い付き合い”だが、こんな事も初めてだったな――」
奇妙な感慨があった。
同時に、”獣王”と遭遇した、忘れ得ぬ”あの日”が脳裏に蘇り、これまでの出逢いと別離を振り返りながら、麗句はグラスを宙に掲げ、それを唇へと運ぶ――。
だが、
「……! な、何だコレは――」
【……大蛇の血を、お前達でも飲めるように僅かな酒と砂糖で薄めたものだ。お前の部下達から”女王”は酒に溺れる夜が多いが故、控えさせるよう進言があったのでな……】
”むう……”。
麗句の眉がわずかにへの字に曲がる。
不味くはないが、食事よりも”酒”を楽しむつもりでいた麗句にとっては、だいぶ不服な飲み物であると言えた。
【ソレは”髑髏島”で閻王が仕留めた大蛇の”生命”そのものと言えるものだ。お前の中に満ち、”力”となる。酒に溺れ、病んだ五臓六腑も活力を取り戻すだろう……】
「……そのご厚意は有り難く頂く」
やや棒読み気味に答えた麗句に、僅かに口の端を歪ませ、”獣王”は樽のようなグラスから大量の酒を、その大口へ、喉へと流し込む。
旨そうに、味わうように喉を鳴らしながら。
(本当に酒を飲むのだな……)
そんな当惑と感慨が、麗句の中に湧きあがる。
”獣王”は明らかに人間の範疇にはない、生物として明らかに別領域にある存在だ。
そういう存在が、自分達と同じように酒を飲むとあれば、若干ではあるが親しみも湧く。
……八塩折之酒だったか。
太古の英雄が怪物を酔わせ斃すために、八度に渡って醸す酒を用意させたというエピソードが、麗句の脳裏に蘇る。
眼前の”王”は、どんな酒でも酔い潰れはしないだろうが――。
【………】
酒を愉しんだ”獣王”が再び指を鳴らし、戦闘員達が奥から”料理”を運んでくる。……それは、巨大な鮪のようだった。目を楽しませるためか、頭部や尾、全体像は残されているが、見事に解体された、血が滴るような赤身が瞳に映えた。
テーブルに置かれたそれを、”獣王”の黒目のない目がじっと見据える。
ああ、そうか……。
その眼差しに、麗句は理解する。これは、目を楽しませるために全体像を残されているのではない。
彼等は喰らう”生命”がどのような形をし、どのようなものであったのか、理解しつつ喰らうためにこのような形式をとっているのだろう。
麗句の前には、しっかりと料理されたそれが皿とともに置かれ、香菜の香りが鼻腔を擽る。
「お前達は何も飲らず、食べないのか――?」
着席している閻王と甲王が何も飲んでいない事に気付き、ふるまわれた料理に手を付ける前に、麗句は声を掛ける。
”遠慮”しているのであれば、そんなものは”こそばゆい”だけだ。
その麗句の疑問に、閻王はわずかに笑んだような気配とともに応える。
「……お気遣いは有り難い。だが、飲食をするには”仮面”を外す必要があるのでな。この仮面を外す時は、相手を”殺す”時と――我等は規定している」
「………」
……そんな気はしていた。
それ程に、彼等の”正体”は秘匿事項という事か。
薄い酒を紛らわす相手が増えないのは残念だが、麗句は納得もする。
”そう”でなくては、”獣王”の双腕など務まるまい。
――当の甲王は、明らかに不満げな様子だったが。
「……兄弟! だが、俺は食いてぇ……! 飲みてぇ……!」
「……我慢しろ」
……彼等の小声のやり取りは聞かなかった事にしよう。
”好漢”どもの会話に、麗句は口元を緩め、料理をその舌先へと乗せる。
そして――、
(な……?)
その瞬間、”イメージ”が麗句の脳髄に疾走った。
海面から噴き上がる巨大なキノコ雲――。
沸騰した海の中で、焔の中で咆哮する、ケロイド状の皮膚を持った巨大な、巨大な黒い獣――。
幾つかのイメージが暴力的なまでの密度で、頭の中に流れ込んでくる。
これは、知っている。
”覚え”のある感覚だ。
(”共繋”か……)
それは、”畏敬の赤”の適正者同士が、長時間の戦闘の最中、一時的に意識・記憶を共有する現象。
そう理解した麗句の黒い瞳が、見知らぬ情景を見据え、その内実を脳内へと映し出す――。
地面に突き刺さるように墜落し、破棄された一隻の移民船。
そこから零れ落ちる幾つかの”カプセル”。
割れたその”カプセル”から這い出した”何か”が、毒々しい光を放つ赤い石を飲み込み――
【……”魂”でも抜かれたか、”美しき者”よ】
「……!」
”獣王”の野太い、腹の底に響くような声が、”共繋”から麗句を現実へと引き戻す。
いまのは”獣王”の過去……だろうか。
思えば、”獣爾宮”が、”揮獣石”が『鎧醒』させたものなのだとすれば、彼の鎧装の中に直に入っているに等しい。”共繋”が発動してもおかしくはない環境だったわけか――。
「……いや、薄い酒でも料理の見事さで、私を酔わせてくれたらしい。醜態であった。許せ」
”共繋”の中で、呆けていた時間はどれ程だったのだろうか。
甲王の鉄仮面の口元に、マグロの赤身のカスがくっ付いていた。
鼻歌混じりに誤魔化してはいたが、マグロはもう大半がなくなっており、彼の関与は明らかである。
頭を抱える閻王の姿がそれを裏付けていた。
「フッ……本当に愉快な晩餐だ。”獣王”よ、私の酌も受けてくれるか……?」
【………】
麗句は、給仕役の”戦闘員”からボトルを受け取り、”獣王”が持つ”樽”へと”大蛇の血”を注ぐ。
「招かれ、持て成しを受けるのも良いが、ただ招かれるだけ……というのも座りの悪い性分だ。直に、私の”趣向”も届く。それまで共に楽しもう、同胞よ」
【……ウム】
”獣王”は頷くと、麗句が注いだ”大蛇の血”を飲み干し、次なる料理の運搬を指示する。
次々と運ばれる料理と、素材そのものと言える”食物”は麗句を驚かせるとともに、充分に楽しませた。
長テーブルをほとんど占拠するような巨大猪に、食する事が本当に出来るのか、怪しい巨大なキノコなど、十年は語り継げるような、特異な”食体験”であったと言えるだろう。
そして、ほぼ”料理”と”食材”が味わい尽くされたその時に、給仕がある”報告”を、閻王へともたらす。
その様子に気付いた麗句は、心なしか表情を輝かせ、席を立つ。
「――届いたか。”獣王”よ。そして閻王、甲王よ。及ばずながら、この晩餐、私手ずから”彩り”を加えさせてもらうぞ」
「ナッ――!?」
思わず立ち上がった閻王と甲王の表情は、果たしてどのようなものであっただろうか。
”女王”の持つ様々な逸話。その発祥は、何も戦場に限った事ではない。
いや、むしろ、この移動要塞内に限っていえば、”炊事場”から発祥する彼女の、『五臓六腑を破壊するような”畏るべき”』逸話の方が大半ではなかったか。
いま、まさにその”畏るべき香り”が、鉄扉の前まで”来て”いた――。そして、
「チャオー! 業煉衆の皆さーん」
「シャピロ・ギニアス……!」
遠慮なしに開けられた鉄扉とともに、呑気な青年の声が室内に響き渡る。
黒と白のストライプの衣服を纏う、ボブカットの青年――シャピロ・ギニアスは悪魔のようにニヤついた顔とともに室内に入ると、クルクルと回りながら歌うように自己紹介する。
その姿は”愉快犯”そのものである。
「……すまない、閻王、甲王」
「……!」
そして、ガラガラとスープと思しき液体の入った鍋を運ぶ、蒼尽くめの青年――ブルー=ネイルは、感情の宿らぬ表情とともにそう呟いていた。
例え、そこに感情は宿らずとも、その青い瞳はただ一言を雄弁に告げていた。
”すまない”、と。
「一度スイッチの入った、荒ぶる”女王”の情熱を止める事はできなかった。概念干渉まで持ち出されては……成す術がない」
「……どうした? 何を騒いでいる? あまり焦らすと、せっかくの”傑作”が冷めてしまうではないか」
戸惑う面々を、満面の笑みの”女王”が手招く。
彼女の料理は、少女時代よりも”強化”されていると聞く。
”成人病を招く毒壺”、”動脈を硬化させる魔液”、”血を濁らす塩塊”……様々な忌み名で呼ばれる彼女の特異料理が、いまブルーが台車に乗せ、運んできた鍋の中に詰められている。
”移動要塞”に住まう者達が畏れ、可能な限り遭遇したくないと考えている代物である。
だが、彼女の善意によって、それは此処に”来て”しまった。
故に、閻王、甲王は惑い、迷う。
これを――”獣王”が座する食卓へと並べる事を許すべきか。
あるいは、”女王”の善意を踏み躙り、拒否するべきか。
”獣王”の双腕であり、腹心であるが故に、二人はその苦渋の決断を迫られ、即座にそれを下す必要があった。そして、
「案ずるな、いざとなれば俺が全て飲み干す」
「……ブルー=ネイル……!」
もう一人の腹心も想いは同じであった。
語る青い瞳には、覚悟を決めた男の、信念の輝きがあった。
晩餐の席をぶち壊し、台無しにするという”汚れ役”を担ってでも、主たる”女王”と”獣王”の面子を守ると、彼は、ブルーは告げていた。
金銀の鉄仮面の下で、閻王と甲王の眼に熱い涙が滾った。
気高き者の腹心同士の、無言の友情があった。同調があった。
だが、
【……お前達……】
だが、”王”の――、
【……”些事”に、手間をとらせるでない……】
「あ」
”王”の器は――その同調を意に介さず、飲み込むほどに大きい。
いつの間にか、鍋の前に仁王立ちしていた”獣王”は、鉄製の鍋に爪を突き刺し、持ち上げると、牙で蓋を剥がし、棄てる。
呆気にとられる部下達を余所に、”王”は、麗句を黒目のない目で見据え、告げた。
【……お前の添える”趣向”とやら、遠慮なくいただくとしよう……】
「な……あっ……!?」
腹心達は一様に言葉を失っていた。
”獣王”の大口が開かれ、芳醇な……否、高濃度のドロリとした”何か”がドバドバと、鍋から”獣王”の咽へと注がれてゆく……!
スープの作り主である麗句も惚れ惚れとする程に、豪快に喉を鳴らしながら、ゴクゴクとそれを飲み込む様は、その場に居る全ての者の心身を痺れさせ、金縛りにしていた。
息を飲み、見守る一同の視線の中、”獣王”の背鰭がわずかに揺れる。
「お、王……」
【―――――――――――――――――――――ッ‼‼‼‼‼‼‼‼】
その瞬間、壮絶な”音”が、室内で弾けた。
100mを越える巨大な生物が発したのではないかと思えるような、壮絶なる”咆哮”が”獣爾宮”を、いや、”移動要塞”全体を震わせていた。
背鰭は青白く明滅し、黒い鎧装を弾き飛ばすようにして出現した巨大な”尾”が床を叩き、”神幻金属”であるそれを歪ませる。
”獣王”の口内で、どのような味覚の”大爆発”が起きたのか――推し量るまでもなかった。
「よ……良い飲みっぷりだ! 皆に振る舞うつもりだったが、そこまで”気に入った”のであれば、よかろうよかろう。嬉しいぞ、”獣王”!」
「………」
今後の参考に、感想の一つでもいただきたいものだな!
感激の面持ちでそう語る”女王”もさるもの、”獣王”の反応を前にしても、その自信が揺らぐことはない。
彼女の自らの料理に対する自信と情熱は、”神幻金属”を凌ぐほどに硬く――決して折れる事はなかった。
無垢なまでの満面の笑みで感想を尋ねる”女王”。
牙を僅かにガチガチと鳴らしながら、渋面でそれと向き合う”獣王”。
それを見守る腹心達の背筋と胃壁に、深刻な緊張が満ちる――。
そして、
【……海……ノ……みず……】
「あ……」
審判は下される。
ただ一言、ただ、その一言だけが”獣王”の咽から搾り落とされた。
それが、正直な感想であったのか、譲歩を重ねた上で吐き出された言葉であったのかはわからない。
だが、察する事は出来た。
”獣王”が摂取した量を考えれば、”海で溺れた”に等しい状況だろう。
「そ、そうか! 詩的な表現だ……わずかながらときめいたぞ」
母なる海を想起させる、豊かな味という事だな!
頬を赤らめ、グッと拳を握った麗句には、何一つ正確に伝わっていないが、”王”の器量により、全てが丸く収まりつつあるのを、閻王、甲王、ブルーは確信しつつあった。
それぞれが顔を見合わせ、”安堵”に胸を撫で下ろす。
”事件”が起きなかった事に、シャピロのみが不満げな様子であったが、珍しく楽しそうな麗句=メイリンの姿に、悪い気はしないようだった。
上機嫌の麗句は、給仕役の”戦闘員を手招き、ブルーとシャピロを長テーブルの空いている席へと着かせる。
「さて! 面子も増えたところで飲み直しだ。私にも美酒を持て! また薄酒で誤魔化すのは許さんぞ!」
「……”女王”、過度の飲酒はお控えを」
ブルーの提言も、緊張が完全に崩れ、砕けた空気の中では意味を成さなかった。
誰もが肩の力を抜き、戦士としての矜持や、面子などはどこぞに置き捨てていた。
【………】
そんな中、”獣王”の巨大な拳が、口元を濡らす”塩”を拭う。
従来であれば、厳粛な空気が支配する平時の”晩餐”とは異なる、騒がしい”今宵”を、
”獣王”は、巨大な尾を揺らめかせながら、その黒目のない目で見据えていた。
かつての”彼の世界”にはなかったそのような光景に、その口の端が僅かに歪む――。
【……フッ……】
牙の隙間から漏れた息が意味するのが、”充足”であったのか否か――その答えは”王”以外には誰も知りえない。
口の中にある”塩の塊”を噛み砕き、席に戻ると、”獣王”もまた、酒宴に興じる。
彼が”小さき者”と呼ぶ、人間達との宴はその後、数時間に渡り続き、”獣爾宮”の空気を緩やかなものへと変えていた。
※※※
そして――その夜、”獣王”は夢を見る。
懐かしきあの”海”で泳ぐ”自ら”の夢を。
夕日が反射し、煌めく海面を黒い巨体が泳ぎ、空へと咆える。
その”咆哮”は、還れぬその場所への望郷の念に咽いでいるようにも、揺るがぬ己が”生命”を天へと雄々しく轟かせているようにも聞こえた。
彼の名は『G』。
世界を揺るがす、害獣達の王――。
END
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