第25話 涙。
#25
長時間に渡る戦闘。
その”結末”を迎えた周辺は、多量の粉塵と灰に覆われていた。
”現実”の許容範囲を超えた、数多の”奇蹟”は周囲の岩を灰に、塩の柱へと変貌させていた。
”物質としての神”――か。
その光景に、アルは姉が手にしたものの大きさを思い知る。
「姉ちゃん…! 姉ちゃん、どこ――!?」
周囲に溢れ、漂う塵芥から目と鼻を庇いながら、アルは姉へと呼びかける。
応える声はない。
あの最後の交錯の後――姉、サファイアの姿は見当たらなくなってしまっていた。
岩盤を砕かれ、大地を抉られ、平面をほとんど失ったような足元。
そこを進む度に、疲労がアルの両肩と瞼の上に圧しかかる。
「姉ちゃん……返事してよ」
大地は大きくえぐられ、元の景色を思い出せぬ程に、変り果ててしまっている。
それ程までに、姉と”女王”の戦闘は、常識を逸脱していた。
”奇蹟”を”奇蹟”で塗り潰すような攻防。
その応酬の結果が、現状のこの景色なのだろうか。
”現実”が幾重にも歪められた影響からか、幾つかの風景が、破れた写真を無理に繋ぎ合わせたように、”ズレ”を生じさせていた。
残された戦闘の痕跡が消えるには、やはり、しばしの時間が要るのだろう――。
(………)
そして、アルの傍らを進むガブリエルも、その景色に、去来する想いを噛み締める。
麗句=メイリンら六人の襲撃を受けた故郷――ラ・ヒルカもこのような景色を晒していたのだろうか。
”創世石”を巡り、失われたものはあまりに多く、あまりに大きい。
その失われたものを一身に背負い、鎧と成し、共に歩んでくれた彼女。
彼女は、自分の心に大きな”光”をくれた。
そうだ、彼女はきっと、多くの人の心を照らすことができる”光”。
――無事でいて欲しい。
いま自分の隣で泣きそうな顔で、捜索を続けているアルに、早く笑顔を見せてあげて欲しい。
そう、願った。
そして――、
ガタっ。
「――!」
耳に届いた物音が、二人の目線を一つの方向へと向けさせる。
姉と”女王”の最後の交錯によって、弾き飛ばされた瓦礫が積み上がっている場所だ。
距離としては10メートル程先。
無数にある塩の柱を潜り抜けた先にある場所だ。
アルとガブリエルは顔を見合わせ、一目散にその場所へと駆け出す。
「姉ちゃん……!」
もし、”あの下”に、姉がいるのなら、すぐに助けたい――!
弟の声に応えるように、ぐらっ、と、瓦礫が持ち上ったように見えた。
見えた……ような気がする。
焦る心が足をもつれさせ、アルは何度か転んだ。
(あ……)
けど、その目に、”もう一人”の肩を抱えた人影がくっきりと映し出されていた。
この状況にあっても、他者を労わる、そのシルエットに、アルは確信する。
間違いない。
そこにいるのは――、
「……残念だったな、少年」
「……!」
だけど、
予期せぬ声が、聞こえるはずのない”鈴の音”が、アルの耳に鳴った。
艶やかな黒髪と、美貌が粉塵の中に、鮮やかに咲く。
(嘘……だ)
表情を失い、立ち尽くす少年と幼竜に、”彼女”は――赤い髪の少女を抱えたまま、その艶やかな唇を開く。
「最後に立っていたのは――この”私”だ」
そこに立っていたのは”女王”。
彼女は――麗句=メイリンは、アル達の前に立ち塞がっていた。
そうだ。街を窮地に陥れた”組織”の大幹部である彼女は、以前変わりなく、二人の前に立ち塞がっている――。
「何で……何でだよ」
信じられない。信じたくない。
率直な、”現実”への憤りが、少年の咽から漏れ出ていた。
麗句は静かに抱えていた少女を地面へと寝かせると、彼の憤りを受け止めるように、前を向く。
「何故かと問われれば、私が”卑劣”だったからだ」
「……!」
麗句の言葉に、アルの手の平がぎゅっと握り締められる。
そんな少年を見据えながら、麗句は言葉を続けた。
「この娘は、最後に――私を討つべきところで、手を差し伸べた。交錯の瞬間、私の体力が想定以上に消耗している事を悟った彼女は、”技”を解き、私を赦した。それを、私の最後の”力”が卑怯にも打ち負かした……それだけの”理由”だ」
「……!」
アルの瞳にも、最後の交錯の瞬間、蹴撃の姿勢をとった姉の姿は映し出されていた。
けれど、両者が衝突する瞬間、その姿勢が僅かにブレたように感じたのも確かだった。
(優しすぎるよ、姉ちゃん……)
姉の人柄を、優しさを知るだけに、アルは認めざるを得なかった。
それは起こり得る事だと。
「撃てなかった……のだろうな。私を想うあまり、この娘は最後の最後で”矛”を収めた。優しい娘だ」
慈しむように、横たわる少女の頬に触れ、麗句は続ける。
「だが――戦闘においてそれを成すのは、”愚か者”に他ならない」
「……!」
姉への侮蔑ととれる言葉に、アルは麗句へとキッ、とその瞳を向ける。
わなわなと震える肩は、彼の憤りを示し、その足は、無意識に不安定な足場を進んでいた。
やがて、アルの喉奥で想いが破裂する――。
「くっそおおおおおお――!」
アルの小さな体が、麗句へと挑みかかり、その渾身のタックルは、麗句に赤子の手を捻るように捌かれ、空しく泥の上を転がっていた。
「くそ……くそ!」
口内に土と涙の味が溢れ、アルはがむしゃらに己の身体を立ち上がらせる。
「離れろ……姉ちゃんから、姉ちゃんから離れろよっ!」
どんっと、麗句の黒衣へと、アルは体ごとぶつかってゆく。
だが、足の裏に根が生えているかのように、麗句の体はビクともしない――。
(アル……!)
必死に、麗句へと組み付くアルの奮起を無駄にすまいと、ガブリエルはその隙に、地面に横たわるサファイアの安否を確認する。
彼女の鼻先に耳を近づけ、その呼吸と鼓動を――、
「……! 息がある……! アル!」
確認できた!
彼女の確かな呼吸を確認し、ガブリエルは果敢に”女王”へと挑むアルへと叫ぶ。
「サファイアさんは無事だ! 怪我も……治癒してるみたいだ!」
ほ、本当……!?
安堵が、少年の表情を僅かに綻ばさせる。
そして、
(ん……?)
雨、かと思った。
ポツリ、とアルの髪に雫が落ちた。
だが、見上げて彼は知った。
それは――、
「まったく……馬鹿な娘だ」
(あ……)
麗句=メイリンの瞳から零れ落ちていた。
泣いていた。
黒の”女王”の瞳から滂沱の涙が流れ落ちていた。
涙の雨が――彼女の頬から降り注いでいた。
「こんな……馬鹿な娘を捨て置けるわけがないだろう」
そう、か……。
アルは気付く。
麗句の額から赤い血が流れ落ちている事に。
瓦礫が持ち上がった時、彼女は姉を抱えていた。
もしかして、彼女が姉を庇ったのだろうか――。
姉の怪我が治癒しているという事は、それも彼女が……。
「わわっ?」
思わず麗句の顔に見入っていたアルは、麗句の腕の一振りで、容易く泥の上に転がされる。
そのアルの瞳に、涙に濡れた麗句の横顔が映る。
「この十年――ずっと蓋をして、鍵をかけていた」
「え……?」
俯いた麗句の唇が、消え入りそうな声で言葉を紡ぐ。
そこに組織の大幹部である、”女王”はいないように思われた。
麗句=メイリンではない、”女のひと”がそこにいるように、アルには感じられた。
「私の心はずっと、閉じられた箱だった。誰も鍵を持たず、私すら見ない振りをしていた」
己の中の”箱”を見据えるように、己が手の平を見つめながら、麗句は言葉を続ける。
「だが、彼女は踏み込んできた。容易く……その鍵を開けてくれた。彼女が聴き、託され、届けてくれた想いは、言葉は、私がずっと聞きたかったものかもしれん――」
見つめていた手の平を胸へと重ね、麗句は意識を失っている少女へと黒い瞳を向ける。
その眼差しには、感謝が、懺悔があった。
それを、アルとガブリエルも感じ取り、この女性にどのような言葉をかければよいのか思案するように、ただ、彼女の横顔を見つめていた。そして、
「だがな」
「……!」
その悲しい横顔が呟くと同時に、麗句は崩れ落ちるように、その膝を泥の中に沈めていた。
それは、心身の疲労が限界を迎えたようにも、自らが斃した少女に頭を垂れているようにも見えた。
「だがな……無理、なんだ。お前が届けてくれた”声”と同じように、私の心には、”あの日”の皆の嘆きが、最期の苦悶が響き続けている。例え――皆の願いが、私の”幸福”だとしても、私は自分の歩む道を曲げることはできない」
胸に当てられていた手の平が、革製の黒衣が撓む程に握り締められていた。
涙に溺れ、くしゃくしゃになった顔に、”女王”の面影はない。
嗚咽混じりの声で言葉を繋ぎ、麗句は意識を失ったままの少女の手を握る。
「すまない……許してくれ、サファイア・モルゲン」
止まれぬ己の前に立ち続けると、 一人にはしない、と言ってくれた”友”の手を握り、麗句は詫びる。
まるで”祈り”だとアルは思った。
事実、麗句は心優しき友の、これからの”幸福”を祈っていたのかもしれない――。
そんな麗句に、アルは言葉を何とか自分の心の底から拾い出し、贈ろうとする。
「お、お姉さん、あのさ――」
だが、”魔女”は、それを必要とはしていなかった。
「しかし――”勝者”の務めは果たさせてもらう」
「……!」
その言葉が贈られる事はなかった。
麗句は”祈り”を止め、”女王”としての鉄仮面を、その表情の中に繕う。
アルが言葉を贈ろうとした女性は既にそこにいなかった。
――そこには、一人の”魔女”がいるだけだった。
そして、
「フン……!」
「あ……!」
突如、麗句の手が、横たわるサファイアの腰部に巻かれたままのバックル――”ヘヴンズ・ゲイト”へと伸び、引き剥がさんと掴み上げる――!
……だが、”ヘヴンズ・ゲイト”がサファイアの身体から剥がされる事はなかった。
それは、サファイアの身体と溶け合うように”一体”となり、麗句が如何に力を込めようと、引き剥がす事はできなかった。
その様に、アルとガブリエルは言葉を失い、硬直した体を動かす術を探す――。
「概念的に”適正者”と一体化しているか……。私の心理を見越した、”創世石”の小癪な抵抗という訳だ」
麗句の手がバックルから離れ、彼女は”麗鳳石”を組み込んだ短刀型の鎧醒器を手に立ち上がっていた。
”麗鳳石”が脈打つように、朱い光を闇へと満たす――。
「だが――それは”想定済み”だ」
「――!?」
”箍”が外れたように、”現実”が砕け、”穴”が開く。
足場が崩れ、体がグラつく。
重力が――すさまじい”吸引”が、アル達の体を震わせていた。
破れた写真のように、”ズレ”を生じさせていた風景はいま完全に砕け、虚ろな”穴”となっていた。
ブラックホールのように渦巻くそれは、粉塵や砂利とともに、横たわるサファイアの身体をも吸い寄せ、飲み込もうとする――。
「ね、姉ちゃん!」
その姉へと、アルは必死に手を伸ばし、彼女の元へと駆け出そうとする。
――だが、その身体は、麗句の足払いによって、またも泥の上へと転がされてしまった。
続けて、ガブリエルがサファイアの元へと向かうも、麗句の持つ短刀型の鎧醒器の先端から放たれた朱い閃光が、ガブリエルを弾き飛ばし、強力な”麻痺”効果でその動きを封じる。
「……その”穴”は、”創世石”と関わるものだけを吸い込むように、規定されている。だが、下手に動けば、お前達も遠慮なく飲み込むだろう――」
麗句は”穴”を見据えて告げると、鎧醒器を黒衣の内へと収め、目線を”麻痺”に足掻く幼竜へと移していた。
――開いた”穴”は、既に彼女の制御を離れたという事なのだろう。
「まして、”創世石”の分身たる、そこのおチビさんはターゲットと認識されても文句は言えないだろう。――おとなしくして欲しいものだな」
刻一刻と事態は悪化を辿る。
麗句が言葉を紡いでいる間も、サファイアの体は徐々に、徐々に、”穴”へと吸い寄せられていた。
それを阻む為、アルは何度も姉へと向かい、その度に麗句に泥へと転がされる。
そうなる結果を理解しながらも、アルは”諦める”訳にはいかなかった。
「ふざけんな……黙って姉ちゃんが吸い込まれるの見てられるかよ……」
切れた唇から滴る血を、泥塗れの手で拭い、アルは立ち上がる。
強打した背中や、体のあちこちを蝕む痛みを噛み殺し、アルは”魔女”へとその身体を、憤りを向ける。
「アンタを助けようとした結果がこれだなんて――そんなの、そんなのヒドすぎるだろ……っ!」
「………」
憤然と叫んだ少年を、麗句は黙して見つめていた。
涙を貯めて、冷徹なる黒衣の”魔女”を睨む、真っ直ぐなその瞳を――。
僅かな間の後、彼女の艶やかな唇が、悲し気に開かれた。
「……かつて、私にも君くらいの弟がいた」
「え……?」
麗句は瞳を閉じ、過去の”幻像”を瞼の裏に描く。
宙を仰ぐ彼女の表情は、前髪に隠されてアルからは見えない。
けど、ひどく悲しい表情である事だけはわかった。
わかって、しまった。
「私には勿体ないくらい、良く出来た弟だったよ。ずっと一緒にいると、約束したのにな――」
頼む、よ。
麗句の唇がそう動いた気がした。
やがて――彼女は前髪の隙間から、その凍り付いた”魔女”の瞳を、アルへと向ける。
「――二度も、私に”弟”を殺させないでくれ。頼むよ」
(――!)
”殺される”。
そう直感できる気配が、その瞳には満ちていた。
”姉を、”創世石”を確保する為ならば、麗句=メイリンは自分を躊躇なく排除する”。
そんな確信が、アルの両足を震わせ、背筋に脂汗を伝わらせる。
それは警告にして、最後通告。
自らの戦場から、アルを遠ざけんとする麗句の”慈悲”であったのかもしれない。
だけど――、
(だけど……!)
脳裏に響く、姉の優しい声は、心の中で微笑む姉は、そんな恐怖よりも強く、アルの身体を突き動かしていた。
彼女を、
「うわああああああああ――っ!」
大好きな姉を見捨てる事など、できるわけがなかった。
「愚か……者が」
姉を救うために駆け出した少年の姿に、”女王”の声は震え、その表情は歪む。
その刹那、麗句の手が振り上げられ――、
「アル――っ!!」
ダン――っと、
轟音とともに鮮血が舞い散った。
(え……?)
その様を、ガブリエルは”麻痺”した体を引き摺りながら叫び、目撃していた。
そして、同時に驚愕に目を見開いてもいた。
一つの人影が、肩口を押えながら倒れ伏す。
そんな光景がガブリエルの瞳に映し出されていた。
「う……ん?」
何が起きたのか、最初、アルにもわからなかった。
鼓膜に直に響くような轟音に驚いて――転んでしまったようだが、何処にも怪我はないようだった。
砂埃が目に入ったようで視界も定かではない。
だけど、一つ確かな……不可解な事があった。
(あ……)
麗句=メイリンが倒れていた。
膝を立ち上がらせ、体勢を整えようとしているが、その肩からは撃ち貫かれたかのように鮮血が流れ落ちていた。
もしかしたら、さっきの轟音は――、
(銃……声?)
だけど、そんなものを撃てる人は、
「まったく……本当にギリギリ、か」
「――!」
そんなものを撃てる人は、ここにはいないはずだった。
”来て”くれなければ。
そんな人が”来て”くれない限りはいないはずだった。そして、
「あ、穴が……!」
ガブリエルの咽が、驚愕に震えていた。
異変が、起きていた。
周囲を漂い、現実を穿ち、”穴”をその場に顕現させていた”朱”の粒子が、地面を這うようにして蠢くゲル状の何かによって喰らわれ、四散していた。
黒い絨毯のように足場を覆い尽くす、ゲル状のそれによって、”穴”を生み出していた”奇蹟”は、塵芥と化し、消えてゆく――。
その様に、麗句は、現れた来訪者の正体を悟る。
来てはならぬ者が来た、と。
「あ……あ……」
金色の髪に赤の瞳、額の精錬施術痕を隠す姉手製のバンダナ――。
砂埃が晴れ、次第に露わになる彼の姿に、アルの声が上ずる。
――信じてなかった訳じゃない。
だけど、諦めていた。
そんな煌都で見ていたアニメみたいな都合の良い話はないのだと。
都合良く駆け付ける”正義の味方”なんている訳がないのだと。
(でも……)
でも、彼は其処にいるのだ。
アルが兄のように慕い、憧れる”正義の味方”は――。
「その娘から離れろ、”女王”――」
「響……兄ちゃあんっ!」
安堵と歓喜の涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、アルは彼へと叫んでいた。
街の保安を司る、”猛毒”の真紅の戦闘服が砂埃の中を舞う。
姉の想いが込められたバンダナを夜風に揺らしながら、響は間違いなく其処に立っていた。
「フン……」
そして、麗句は己が肩から流れる鮮血を口紅として己が唇に纏わせ、”魔女”として響と相対する。――”女王”の、”魔女”としての表情が既にそこにはあった。
響=ムラサメと麗句=メイリン。
二人の視線が交差し、”正義の味方”と”女王”はついに対峙し、睨み合う。
”創世石”を巡る争い、この惑星の命運を占う騒乱は――いま、最終章へと足を踏み入れようとしていた。
第四章 血戦―PART2:Count ZERO― 了
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