第22話 血戦の虚空―そら―Ⅱ
#22
それはまるで岩で作られた鞭だった。
しなり、跳ね上がる様はまさに鞭であったが、その実体は巨岩、鉄塊に等しい。
それが人工物でなく、生物の”尾”であるともなれば、その生物は生態系――全生物の頂点に立つ存在であると言える。
(まるで嵐、いや……巨大積乱雲か)
その尾が、生態系の頂点たる"王”の巨大な尾が、空気が破裂したかのような音とともに、組織の幹部のみが入室を許された”六星の間”に嵐を呼ぶ――。
柱や壁面はおろか、”部屋”という概念すらも消し飛ばすかのような暴れぶりである。
だが、相変わらず、残された破壊の痕跡とは裏腹に、部屋の景色は何ら変わることなく、平静を保っている――。
標的たる男もまた、その破壊の中、ただ悠然と歩を進め、その表情を覆い隠す包帯の隙間から除く虚ろなる瞳を、”尾”の主――”獣王”へと向け、細めていた。
その不遜なまでの態度に、歯軋りした”獣王”の牙がギリ、と苛立ちの音を響かせる。そして、
【……戯れるな、”壊す者”よ……】
二対の刀剣の如き巨大な背鰭と、背から尾まで一列に生え揃った背鰭が青い燐光を放ち、”獣王”の口内に高濃度の粒子が充満、蒼い光が迸る。
「ま、待ってください、こんな場所で――!」
その口内から解き放たれんとする”事象”の恐ろしさを識るシオンは、同じ標的を追っていた剣を鞘に収め、”獣王”の後方へと飛び退く。だが、
「―――!」
”熱線”として放射されるかと思われた蒼い死の光は、”獣王”の全身から拡散・放射され、空間に空いた虚ろな”穴”から出現した、”逆十字”型の金属片を弾き飛ばし、”消滅”させていた。
己を狙う、フェイスレスの”死に至る欲望”の存在を看破した”獣王”の怒りがそれを一蹴したのである。
【……して、何を待つのだ。”斬る者”よ……】
”獣王”の口の端がわずかに歪む。
”笑った”――のかもしれない。
……そうだ。
そもそも彼は、助言や忠告を必要とするような存在ではない。
あらゆる謀略も、事象も、因果も踏み潰し、噛み砕けるだけの力を、彼は持っている。
簒奪することも、祀り上げられることも必要とせずに、そこに在るだけで彼は”王”だった。
己の出自、歩んできた軌跡を思えば、その在り様はあまりに眩しい。
――目を逸らしたくなる程に。
シオンは、黒くケロイド状となった強靭な皮膚の上に、黒い鎧装を纏った巨獣の異貌を眺めながら、同胞への”畏敬の念”を新たにする。
そして、己の手札を容易く破り捨てられたに等しいフェイスレスは、どこか愉しげに、芝居がかった様子で両腕を広げてみせる。
”獣王”を見るその瞳には、親しみすらも感じられた。
「フフ……”あの日”を思い出すな、”獣王”よ。あの日も、この”死に至る欲望”の躍動を阻んだのは、卿の腕であったな――」
――話は聞いている。
数年前、彼等が麗句=メイリンを組織に迎え入れた日。彼等が一時、向かい合った事があったと。
同胞と括られてはいるが、組織を統べる六凶の中で謎多き二人である。
その二人の対峙は一つの伝説として組織内で語り継がれている。
【……それが何だと言うのだ、”壊す者”よ――】
また、太い弦を皮手袋で擦ったかのような唸り声が、”獣王”の喉から漏れ聞こえた。
必要がない限りは言葉を紡がず、”沈黙”を己が言葉とする彼にとって、言葉遊びに等しいフェイスレスの物言いは、酷く癇に障るのだろう。
巨大な尾が床を叩き、大きく亀裂を走らせる――。
「――同胞。それぞれが抱えた”業”の重さを鑑みても、やはり我等はそう括られるに相応しい。我等が抱えた業を塗り潰すには、”畏敬の赤”でもまだ足りぬ――」
【………】
対話と呼ぶには、あまりに張り詰めた、言葉と意志の衝突であった。
噛み喰らうような”獣王”の憤りを受け流すように、フェイスレスは言葉を続ける。
”信仰のない男”にとっては、立ち塞がる王の”威厳”も、”威光”も、昼下がりに差し込む、穏やかな木漏れ日に等しいのかもしれない。
「……あの日、我等が迎え入れた彼女も、いま、”麗句=メイリン”と名乗る彼女もまた、鉛のように重く、奈落のように深い業を抱えている。彼女が我等と共に来たのは、我等と共にあるのは――組織の目的である”世界の是正”、その為でもあろうが」
「……それが、彼女が、貴方の裏切りに何の関連が?」
苛立ちが音となってシオンの舌先を走っていた。
いま遠い地で任務に当たっている”女王”への言及に、刀の柄へと添えられたシオンの手が静かに鍔を鳴らす――。
……言葉遊びの類が癇に障るのは、何も”獣王”だけではない。
まして、彼女の、”女王” の過去は他者がみだりに踏み込んでいい領域ではない。
口舌で弄ぶなど。
「出資者である”元老院”としてはそうであって欲しいだろうが、本質はそうではない。脆弱な――”己を己で救えぬ者たち”にとって、彼女はあまりに眩い”希望”だ」
だが、シオンの言葉など耳に入らなかったかのように、フェイスレスは自らの言葉を繋ぎ、宙を仰ぐ。
その虚ろなる目にかつて見た情景を映し出すかのように。
「あの”悲劇”がそうであったように、その光に人々は誘蛾灯に惹かれる羽虫の如く群がる。だが、哀れにもその羽虫の群れは彼女を灼く宿業の焔に焼かれて朽ちる。……それを繰り返さぬよう、彼女は己を”黒”で塗り潰し、血の朱で照らされた暗がりを歩んでいる。二度と這い上がることの叶わぬような――底の底なる道を」
(……!)
そして、思考を巡らせるシオンの碧眼が、信じ難い現象を捉える。
朱が、零れた。
だが、”畏敬の赤”の朱ではない。
どす黒く、”彼”の表情を覆い隠す包帯を穢すそれは、血――のように見えた。
覗きこめば、底知れぬ虚無に飲まれるような、”信仰なき男”の目から溢れるそれは、彼の、人形のような無機的な在り様と相まって、聖人の偶像の眼から流れた血涙を想起させる。
”信仰なき男”に対して馬鹿げた話だとも思うが、その黒ずんだ朱には、荘厳な気配が、無垢なる嘆きが感じられた。
「何と哀れな、何と悲劇的な在り様か。……しかし、それは彼女に限った話ではない。ここに居る卿らがそうであるように――人が人である限り、そのような慟哭の雨が降りやむことはないのだ。宇宙に浮かぶ、鋼の塊に草花を生い茂らせたのも、”願い”という名のそれであろう」
「創世……石」
かつて鉄の塊だったこの星に大地を根付かせ、草花を咲かせた”奇蹟”――それは故郷を喪失し、新たな母星を探し求める旅路に疲れ果てた人類の”願い”に”創世石”が反応した結果だと、組織は推測している。
いまこの惑星が、かつて地球と呼ばれていた母星と寸分違わぬ環境を保持していることを考えれば、それを”創世石”に成させた人類という種の”業”は、度し難い程に深いと言える。
そして、その”嘆き”の雨は降り止むこともなく、大地を濡らし続けている。
――”畏敬の赤”。真にそう呼ばれるべきは、学ぶことも、退くことも知らず、歴史を慟哭の朱で塗り潰し、繋ぎ合わせてきた人類の業、そのものではなかったか。
シオンの目に遠い日の……”全てを失った日”の焔に包まれた情景が、不意に蘇る――。
「なぁ……そうは思わないか、”人の業が生み出した焔”によって生まれ落ちた、”神の名を冠する”獣よ――」
(……!)
蒼白い光が疾走った。
記憶の中の朱い焔が、新たに迸った蒼い燐光によって書き換えられる。
背鰭を青白く発光させた”獣王”の口内、開かれた咢から熱線が放射され、”信仰なき男”の身体へと叩き付けられていた。
青白い死の光が膨大な熱量とともに、室内に満ちるとともに、”現実”と隔離され、部屋に取り残されていた破壊痕が、現実の風景と繋がり、融け始める――。
あらゆる生命を蝕む毒性を持つ光であるが、王の胎内に取り込まれている”揮獣石”による干渉によって、その毒性を浄化されている。
室内に充満する光への干渉が、”世界線移動”とフェイスレスが呼んだ異能へも干渉し、無効化させたのだろうか。
王の口内から熱線が吐き尽くされ、光が拡散・消失した瞬間、衝撃が現実へと還元される。
全長2km超という巨躯を誇る移動要塞を揺るがす程の衝撃――。
柱は融解し、壁や床は粉砕され、剥き出しの鉄骨やパイプが、新たにシオン達の足場となる。
だが、それでも要塞としての――建造物としての体を失っていないのは、移動シェルターとしての側面も持って設計されたこの移動要塞の堅牢さを、図らずも証明する結果であったと言える。
……そして、シオンや”獣王”の目と鼻の先に、当たり前のように、”彼”は立っていた。
それぞれが持つ醒石の――”畏敬の赤”の加護がなければ、即死を免れぬような熱線を直に浴びてなお、フェイスレスは平然と、黒衣の襟を正していた。
「まったく……見事なものだな、流石は生態系の頂点たる王――”GOD…L……”」
フェイスレスの呼んだその名は、雑音とともに罅割れ、聞き取ることはかなわなかった。
王の咽喉、胎内より迸った熱線によって、咽頭に埋め込まれた発声機器に損傷を負ったのだろうか。
あるいはその言霊は、発声することも赦されぬ、畏るべき名なのだろうか――。
度を越えた超常と現象に、シオンの艶やかな、整った唇から溜息が漏れる。
「この手が歪め、繋げた”多元世界”を事もなく修正してみせる――。世界の調停者たる卿の役割通りに。まったく畏ろしい事だ」
(多元……世界)
フェイスレスが事もなく発した言葉に、シオンの背筋を冷えた感覚が伝う。
底知れぬ。
どこまで底知れぬのだ、この男は。
シオンの驚嘆など知る由もなく、フェイスレスは王の胸部に浮き出た水晶体、古代の装身具――"勾玉"に酷似した形状を持つそれを、しばし黙して眺めていた。
やがて喉に埋め込まれた発声機器から、無機質な音声が響き渡る。
「いや、これはむしろ卿の胎内にある、もう一体、”彼”の意志か……。卿とは異なるもう一つの『G』。古代より生き続ける世界の守護者、”禍喰らう最後の希望”――」
【……戯れ言はそこまでにせよ、”壊す者”よ――】
続く王の返答は、世界そのものを震わすかのような壮絶極まる咆哮であった。
王たる者の威厳と、矜持を示す咆哮。
それに口舌を差し挟める者など存在しない。
造物主たる神も、この声の前では押し黙るでろう。そして、
(若……! 若……!)
「……!」
細胞の一つ一つを刺激し、芯から身を震わせるような残響が収まるのを待つこともなく、慌ただしい声が耳飾りに仕込まれた通信機から鳴り響く。
尋常ならざるその様子に、シオンは耳飾りに手を当て、骨を伝わり聴覚へと伝播される、その一言一句へと耳を傾ける。
「……何事です」
”おお、若……!” シオンの言葉に、通信機の向こう側から安堵の声が届く。
その背後からは銃声に類するものが漏れ聞こえ、不穏な気配を彼の五感へと染み渡らせる。
(……脱獄です……! ”羅獄衆”の連中が、監獄区域から脱獄し、制御室、管制室を占拠。移動要塞を独断で、”彼の地”へと――)
「”羅獄衆”が……?」
部下からの報告に、シオンの切れ長の目が、折れ曲がったパイプの上に腰掛ける”羅獄衆”の長、我羅・SSを捉える。
……成程。
この”喧嘩”好きの男が先程から、不自然な程、戦闘に介入しなかったのは、そのような”愉しみ”を密かに得ていたからなのか――。
【”縛られぬ者”、か……】
”獣王”も、移動要塞内の不穏な気配を嗅ぎ取ったのか、巨大な尾を揺らめかせながら、良く発達した犬歯を見せつけるようにして嗤う下手人――我羅を見据える。
「……珍しいですね、貴方がこのような”悪巧み”とは」
溜息をそのまま言葉としたような声が、シオンの喉奥から漏れていた。
その言葉に、我羅は片眉を上げ、オールバックに固めた金髪を撫で上げる。
「悪りぃなぁ、シオン。手前らがウダウダと乳繰り合って、”本題”に入らねえから……ちょっと”ヤキ”を入れてやったのよ――」
我羅はそう告げると、気だるそうに首を回しながら、純金製の首輪に組み込まれた”空っぽ”のアンプルを”満タン”のそれに交換する。
度を過ぎた高揚に、己が”逝って”しまわぬ様、あるいはその身を突き上げる衝動をより、甘美に味わうために、我羅は己が身に、象が眠る程の”鎮静剤”を流し込む。
「手前らが欲しいものは何だ? やりてえ事は何だ? その大層な御託は何の為にガタガタと並べてやがる。……”畏敬の赤”が笑わせやがる。そんな腑抜けた赤じゃ、俺等の生き方を塗り潰すことなんざできやしねぇ――」
昂った我羅の蹴撃が、近くのパイプを折り砕き、我羅は飛散したその破片の一部を食み、さらに噛み砕く――。
「なぁ――そう思うよなぁ、糞ったれの”罪人”ども!」
”SS! SS! SS!”
我羅の言葉に、要塞内のスピーカーというスピーカーから野太い声が鳴り響く。
管制室が”羅獄衆”に占拠された事を示すように、彼等の主たる我羅を讃える声が、要塞内に不穏に鳴り響いていた。
その背後から、金属を打ち鳴らす音や、淫靡な”喘ぎ声”に類するものが漏れ聞こえてくる。
――想像以上の”無法”が、響く雄声の裏側で繰り広げられているのは間違いない。
「”事態”を動かしたいんなら、まず、”推し通る”のよ。それが俺等”羅獄衆”の――我羅・SSの流儀だ」
彼の両腕を繋ぐ手錠の鎖がジャラリと音を立てた。
だが、その鎖は彼を何一つ束縛できていない。
例え、その身を千の鎖で繋いだとしても、光一つ差し込まぬ牢獄に幽閉したとしても、凶暴なまでに自由な、その魂を縛る事は永久に叶うまい――。
「ふっ……」
そうだな、”そうあれたなら”。
若干の苛立ちとともに、胸の内で呟いたシオンの口元は自然と、苦い形に緩んでいた。
我羅の言い様、流儀はある意味正しい。
恐らく全ての人間がそうありたいと願うだろう。
だが、人の世がそれを許す程、寛容であれば、人の歴史はこれ程、”拗れて”はいない。
理性ある人間であれば、己の行動の結果を想像せざるを得ない。
己の我を推し通した後の、”代償”を勘定に入れずに行動することなどできはしない。
――”この行動”には、それがなかった。
”この行動”が何を引き起こすか――我羅には想像できていない。
いや、想像の及ばぬ刺激に身を躍らせることこそが、彼の目的なのかもしれない――。
他の五人とは異なり、”創世石”というものに至る手段そのものが、彼の目的であり、その中で邂逅するであろう様々な障害こそが、彼の”生き甲斐”とでも呼ぶべきものなのかもしれなかった。
だとすれば、この”無法”も、彼にとっては理に適っているのだろう。
度し難い程に愚かな話ではあるが。
「”思慮”がないという事は、”幸福”であるのか、”不幸”であるのか……貴方を見ていると、わからなくなりますよ、我羅・SS」
「ハッ……!」
あえて”毒蠍”の称号でなく、名を呼んだシオンに、蛇のような長い舌を見せつけるようにして嗤うと、我羅は己が背をシオン、”獣王”、フェイスレスへと向け、啖呵を切る。
「”幸福”だろうが、”不幸”だろうが――侵りたいように侵るから、俺達は罪人なのさ」
”邪道”。黒衣の背に刻まれた逆十字の紋章を彩るように、筆文字のような荒々しい刺繍で描かれたその文字が、三人の同胞の目へと閃いていた。
紋章の下部に描かれたもう一つの文字は、”Strayed”。
”道に迷った者”を意味するその文字が指すのは、纏う我羅自身か、あるいは彼と対峙し、それを目にするものなのか――。
清々しい程に威風堂々とした、彼の宣戦布告に、場の空気がまた緊迫する。
「ふっ……はははは」
回答を得たシオンの腹腔から笑いが漏れていた。
……それはそうだ。
罪を罪と認識し、罪を背負う者どもの何を咎め、罰するというのか。
要塞内には、シオン直轄の百騎《鬼》衆、”獣王”を長とする”業煉衆”が待機している。
報いを覚悟した罪人の無法に、彼等が報いを与えれば良かっただけの話なのだ。
だが、彼等の力を持ってしても、”羅獄衆”の脱獄を阻めなかったというのなら、それはすなわち自分達の落ち度でもある。
飽くまで戦闘集団としての価値を問うのであれば、”羅獄衆”が己の我を推し通し勝利した状況と言えるのだ。
しかし、それを成させた要因は――、
(全て、貴方の手の内という訳ですか、フェイスレス――)
シオンの瞳に映る”信仰なき男” は否定も肯定もなく、ただ同胞である三名を見つめていた。
彼が使った”世界線移動”なる異能。
あのような力を持ってすれば、”羅獄衆”が脱獄に至る手助けも容易だろう。
恐らく、”獣王”の熱線が世界を修復する以前と同様に、”百騎《鬼》衆”も、”業煉衆”も、”羅獄衆”に手を出せぬ状況だったのではないだろうか。
”多元世界”とフェイスレスは言っていたが、この異能は恐らく――、
【ぬぅ……?】
「……!?」
思考が中断した。
中断せずにはいられなかった。
シオンが刀の柄へと掌を当て、指がその鍔を弾かんとしたその瞬間、視覚を通し、脳へと伝えられた映像が全ての思考を白紙とし、”戦意”すらも瞬間的に奪っていた。
眩い――あまりに眩い何かが目の前をひらひらと舞っていた。
温かな光が頬を撫でていた。
「え……? あ……」
自分でも驚く程の気の抜けた声が、シオンの喉から漏れていた。
シオンの剣技によって裂かれ、”獣王”の熱線によって焼かれ、融けたフェイスレスの黒衣の一部が破れ――その内部から信じ難いものを露出させていた。
それは”奇蹟”としか呼びようのないもの。
古く、途絶えた宗教の中でのみ語られる遺物。
(天……使……?)
フェイスレスの黒衣の内部から漏れ零れるその羽毛は、温かく眩い黄金の光とともに舞い散るその羽は、まさに伝承にある天使のそれであった。
”信仰なき男”の内部から溢れ出る”信仰”そのものとでも呼ぶべき現象に、誰もが言葉を失っていた。
「”残骸”たるこの身に、まだこんなものを宿らせる――人の業とはやはり救い難く、故に救わねばならぬもののようだな……」
フェイスレスがどこか物憂げに響かせた言葉とともに、フェイスレスの黒衣から漏れ出る眩いそれが、同じく黒衣の内部から這い出した、黒々とした”汚泥”によって覆われ、飲み込まれる。
汚泥は時に人の死に顔のような形を浮かび上がらせながら、黒衣へと溶け込み、破れた黒衣を修繕していた。
(なっ……あっ……)
悪寒が身を震わせ、鳥肌が全身を覆っていた。
あまりの事に、崩れかけた思考をパズルのピースのように繋ぎ合わせる。
数秒後、シオンの脳裏に浮かぶ言葉はただ一つだった。
――”こんなもの”を、”創世石”へと向かわせてはならない。
【……”斬る者”よ、断て」
「……!」
そのシオンの意志を察したか、あるいはシオン以上に”そう”感じているのか、”獣王”の野太い声が告げ、その背鰭が蒼い燐光を帯び始める――。
【道は我がこじ開ける――】
生態系の”王”と人類屈指の”達人”の連携は、極めて精妙、迅速だったといえる。
”畏敬の赤”の光とともに抜刀された刀が空間を裂き、”現実”が許容する容量を超えた”畏敬の赤”の粒子と、奇蹟の領域に至る剣技によって裂かれた空間は距離も、因果も飛び越え、その場に”外”――すなわち高高度の虚空へと通じる穴を作り出す。
【―――――――――――ッ‼‼‼‼‼‼‼‼‼】
そこに王の咢から放たれた熱線が注ぎ込まれ、その穴を、四人の男を飲み込むだけの巨大なそれへと押し広げる。
「ヒュー! やるじゃねえか、”獣王”のおっさんよぉ!」
次の刹那、我羅の愉し気な声とともに、四人が身を躍らせていたのは、極寒の、凍てつく虚空だった。
並の人間であれば、呼吸もままならず、後は地面に叩き付けられ、死に至る瞬間を待つしかない状況である。だが、
【……”翼ある者”よ……】
”獣王”の口が何事かをつぶやくとともに、彼の背から巨大な翼が出現し、虚空の中を大きく羽搏く。
現在は骨のみが残る太古の生物――”翼竜”のそれを思わせる巨大な翼だった。
「……その場しのぎではあるが、ここまでしてのける卿らの技量、感服するぞ。だが、安堵するが良い。そう急く必要もなく、救済の時はすぐに訪れる――」
フェイスレスは空に放逐されてもなお、悠然と包帯の隙間から覗く虚ろなる目を細めていた。
その様にシオンは、”創世石”と――”創世石”を巡り、現地で交戦する同胞のために。
我羅は己が身を痺れさせるような”刺激”のために。
それぞれが、その”言霊”の発声を決意する。
「「――『鎧醒』!」」
いま、全てが”彼の地”――辺境の自治区へと向かい、収束を開始していた。
物語は今一度、サファイア・モルゲンと麗句=メイリン、その決着の時へと座標を戻す――。
NEXT⇒第23話 願い事、たった一つだけ