第10話 魔女
#10
「はぁ、はぁ……」
脚先に残る感覚が、いまだ生々しく胸をざわつかせる。
深夜の冷気が、『鎧醒』から解放された少女の肌を、その肌を流れ落ちる汗をなぞり、全身から噴き出す熱を徐々に冷ましてゆく。
「うっ……」
唐突にこみ上げた吐き気に、少女は両膝を折り、地面に蹲る。
鎧装を打ち砕き、肉を抉るような、あの感覚。
二度と思い出したくない、人体を“壊す”あの感覚。
『鎧醒』によって過剰に分泌されていた脳内物質が引き、次第に平静に戻りつつある彼女の胸に去来する想いは何か――。
「姉ちゃん……」
状況が一変した事は、事態を蚊帳の外から見守っていたアルの目から見ても明らかだった。
一筋の赤い閃光が空を翔け、黒の鎧装を撃ち砕くその様は、幼い瞳にも確かに焼き付いていた。
――勝った。
少年にそう確信させるほど、それは見事に麗句=メイリンを捉え、“断罪の麗鳳”を撃ち貫いていた。
だけど、いま、少年の瞳に映る姉の姿は――、
(勝ったんだよね? 姉ちゃん――)
“勝利者”からは程遠い、ひどく弱々しいものに見えた。
(ボクは――“殺した”)
ボクは、騙した。
彼女の胸中が、苦い独白で満ちる。
あの旅路の中でも、“それ”はない事だった。
地獄のような窮地の中でも、いつも誰かが手を汚し、自分はそれに救われているだけだった。
――それが、嫌で嫌で仕方がなかった。我慢ならなかった。
だけど、
(こんなに……重いんだ)
自分は”畏敬の赤“の力を、護る事ができる”手“を手に入れて、窮地を自らの手で変えられる、”救世主“と呼ばれるだけの機甲を纏う事が出来るようになった。
けれど、それでやった事は、“優しい人”だとわかったあの女性を騙し、その“優しさ”に付け込んで、斃したという事――“殺した”んだ。
「あ…あああ……」
腹の奥底から湧きでるような“罪”の意識が胸を締め付け、呼吸を詰まらせる。
制御できない嗚咽が喉奥から溢れ出し、涙が頬を伝う。
蹲った少女の手が、鮮やかな赤毛を静かに掻き毟っていた。
(……信じられません、まさか“女王”が斃されるなど――)
“畏敬の赤”同士の戦闘によって、撒き散らされた瓦礫の陰で、事態を観察していた軍医――その生首は、驚愕に乾く口内を感じながら、胸の内で言葉を紡ぐ。
(あの少女、存外に“真の適正者”に近い存在なのか――あるいは“そうでなくても、そうあれる程の“器量を持った人物であるのか。……認めざるを、得ませんね)
自分を打ち破ったとはいえ、『双醒』という奇蹟に舌を巻いたとはいえ、所詮“女王”や“他の四人”には遠く及ばぬ惰弱な存在――それがドクトル・サウザンドの観察眼によって導き出されていた結論であった。
事実、状況は彼の予測通り、終始、同朋である“女王”の優位に進んでいた。
……最後の、その一瞬までは。
(たとえ、一度限りの“まぐれ”であったにしても、あの“女王”を、麗句=メイリンを地に這わせたという事は、“他の四人”をも倒せる可能性を持った存在だという事――)
それは間違いなく、組織にとって捨て置けぬ存在。
全霊を持って抹殺しなければならぬ存在。
認識が軍医の脳内で書き換えられ、赤色光を伴った機械の眼が、蹲る少女を見据える。
絡みつき、締め上げるような軍医の目線も、いまの少女を立ち上がらせる要因とはならない。
「姉ちゃん……姉ちゃん、大丈夫!?」
「アル……」
自らに駆け寄る弟と幼竜の気配に気付き、サファイアは嗚咽を飲み込み、頬を覆っていた涙を拭う。
――優しい彼の事だ、自分のこの“悔い”を自分の責任と感じてしまうかもしれない。
そんな心の負担を彼に負わせるわけにはいかない。そんな想いが、蹲っていた彼女の両脚を立ち上がらせていた。
姉としての責務が弱りきった肺と喉に、少し上ずった陽気な声を出さる。
「――大丈夫。鎧の性能を目一杯引き出したからね。ボクの怪我という“概念”も消し飛んじゃったみたいなんだ。元気だよっ♪」
「姉ちゃん……」
……元気な訳、ないじゃないか。
弟もまた、姉の気持ちを、状態を察し、言葉を選ぶ。
凄まじい戦闘だった。
優しい姉があそこまで、身も心もこんなにボロボロになるまで戦ったのは、間違いなく自分達を護るためだ。
そして、その事に自分達が気付かないように、いまも無理に憔悴しきった表情の中に笑みを浮かべてくれている。
精神的にも、肉体的にも、そんな余裕、ないはずなのに。
姉に負担ばかりをかけている自分への忸怩たる想いに、少年はギュッと手の平を握りしめる。
そんな姉に、自分ができる事は――。
「姉ちゃん……」
意を決した少年のギュッと握り締めた手。
それが、そっと開かれる。そして、
「ボインにターッチ!」
「きゃっ!?」
――むぎゅ。
開かれた手が向かった先に、サファイアの頬は紅潮し、幼竜の口はあんぐりと開かれる。
この場にはそぐわない破廉恥なイタズラに、サファイアの中でプチッとスイッチが入る。
「アァァるぅぅぅ!」
まるで、それが当然の行動であるかのように、自分の胸にタッチした弟にサファイアは思わず
素っ頓狂な声を上げ、逃げ回る彼へと、ぶんぶんと拳を振り回す。
自分でも不思議なくらい自然に体が動き、声を出せた。
不意に、気付く。
――あぁ、ボクはまだ、こんな風にできるんだ。
いつもみたいにまた、アルと笑い合えるんだ。
そんな実感が憔悴しきっていたサファイアの目頭を熱くする。
「へへ、いつも通り……だね。俺がふざけて、姉ちゃんが怒って。大体、この後、お菓子と紅茶でティータイムかな?」
「アルとみんなにもらった紅茶もまだ少し残ってるしね。お茶菓子は……何がいいかな?」
ティータイムには遅すぎる時間だが、おどけてみせる弟に応えるように、サファイアの口元にも笑みが戻る。本当にこの子はいつもボクの心を助けてくれる。――それこそ“救世主”様みたいに。
「そう、だよね……終わったんだよね」
実感が、疲労困憊した肉体に湧き上がり、フラリとサファイアの体が揺れる。
慌てて支えようとしたアルを笑顔で制し、サファイアは両の脚でしっかりと自分の体を支える。
「帰ろう。ちょっと、頭の中がグチャグチャだけど、まずは君を家まで無事に送り届ける――まず、そこから始めるよ」
「姉ちゃん……」
考えなければならない事は山ほどある。
悔やむ事も、嘆く事もあるだろう。だけど、いまやるべき事は一つだ。
まずはこの可愛い弟を日常に、
「帰ったら、ティータイムの前にご飯だね、美味しいのたくさん」
日常に、戻さなくちゃ――。
「たくさん作らなき――」
ビシュッ。
(え……?)
その刹那、アルの表情が驚愕に強張っていた。
――一筋の朱い閃光が闇夜を疾走っていた。
街に戻るべく、踵を返したサファイアの肩口をその閃光は撃ち抜き、鮮血を舞い散らせていた。
「ね、姉ちゃん!」
(そ……んな……)
――もし、もしも“そんな事”があれば、自分は、自分は安堵すると思っていた。
“奪ってしまった”と思っていた生命がそこにまだあると知ったならば、その瞬間に自分はその事実に感謝すると思っていた。だけど、だけど、違った。いま、胸に湧き上がるのは紛れもなく――、
(お前の言う通りだ。私はまったく度し難い程に甘く……手緩い)
――紛れもなく“恐怖”。
聴覚に響く玲瓏なる声音。
その甘美な響きによってもたらされる感情は、紛れもなく“恐怖”であった。
「雄々っ!」
「――!」
その声音の主、“女王”の喉から迸る気合いとともに折り重なっていた瓦礫が弾け飛び、その下から出現した黒の鎧装と、鷹の貌を摸した仮面――その忘れ様のないシルエットが、対峙するサファイア達の眼に、その存在を、その“生存”を誇示するかのように刻み付けられる。
(そんな……)
“断罪の麗鳳”、麗句=メイリン。
鎧装から溢れる“畏敬の赤”の粒子ではなく、己が血の朱に塗れたその黒の鎧装は、鎧装の所々を砕かれながらも間違いなく両の脚で立ち、そこに存在していた。
「くっ……」
「ね、姉ちゃん!」
精神の疲労と肩口に負った損傷によって片膝を付いたサファイアと、彼女に駆け寄る弟へと、同じく重い損傷と疲労によって呼吸を乱した麗句の目線が注がれる。
両の脚で立ちながらも、いまにも崩れ落ちそうな様相。だが、そのような状態であっても、サファイアの精神を圧迫し、圧倒するその“威厳”に一点の曇りも、撓みもなかった。
「見事な一撃だった。いま、『鎧醒』を解けば、この生命、確実に潰えるであろうな――」
率直な感嘆と賛美が麗句の声音に滲み出ていた。
その掌が鎧装に付着した血を拭い、握られる。
「……結局のところ、この決闘に挑む上での“覚悟”も、“執念”もお前の方が数段上回っていたのだろう。私はお前を侮り、見誤っていた。かつてのあの“度し難い小娘”――自分自身とお前を重ね合わせて、な」
「自分自身、を……」
共繋の中で見たイメージの欠片が脳裏に蘇る。
やはり、彼女は単純な悪人などではない。心の奥底に、共繋でも掴み切れぬ“何か”を抱え込んでいる。
「……『鎧醒』しろ。もはや弟を狙うなどという小細工は言わぬ。私の敵はお前のみ」
麗句の両腕が威嚇するように拡げられ、鎧装を濡らす己が鮮血を振り飛ばす。
「お前はただ偶然にも“創世石”に選ばれた小娘などではない。私が全身全霊を持って倒すべき敵であり、私が越えねばならない“壁”だ。」
肩部・腕部・胸部・脚部。麗句の言葉とともに、黒の鎧装が展開し、変形する。
“内部に秘めたるもの”を外部へと排出するかのように鎧装の中に生まれた“空隙”が、不穏にサファイアの目に焼き付く。
「私の“総て”を見せるに値する……」
麗句の口舌が、今は血に濡れた艶やかな唇が紡いだ言葉に、その場にいる全ての者が直感する。
”何か”が、起こる。これまでの総てを覆すような、”何か”が。
「【魔女の吐息】――っ!」
「な……!」
刹那、各部鎧装の空隙から高濃度の“畏敬の赤”の粒子が噴き出し、高濃度に過ぎるそれは焔の如く黒の鎧装を飾り立てる。
燃え盛る焔を纏うその様は、まるで火刑に架けられた罪人。
だが、その罪人は己を貶めた者へと、その“罪”へと叛逆するかのように堂々と立ち、“物質としての神”に選ばれた少女を見据える。
世界が、朱く染まる。
「くっ……『鎧醒』!」
そして、足元に転がったままだった鎧醒器、“ヘヴンズゲイト”を手に取り、少女もまた、再度、その言霊を紡いでいた。――白銀の鎧装が再び少女の体を覆い、超常が再度、世界を占拠する。
「な……!」
「女王――」
また、その朱の奔流は“栄華此処に眠る”の廃墟の中で死闘を続ける兄弟のもとへも届いていた。
安息はまだ遠く、道はまだ長い。
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